110.言っていい
「だ……め……?」
アルムの声に驚いていたのはシラツユだけでは無かった。
迷いなく断言するアルムにその部屋にいた全員が注目する。
全員の視線が集まるアルムの表情はただただ平坦だった。
「どう……してですか……?」
「どうしてって……当たり前だろう。お前のせいで誰かが死んだと本当に思ってるなら自殺なんてそれこそ駄目に決まってる。
誰かの命を糧にした生き物は生きないといけない。当然の事じゃないのか?」
シラツユが何故疑問を抱いたのかすらもわかっていないような表情で、アルムは当たり前だと言ってのけた。
それはアルムが教わった原初の掟。
命を糧にする生き物の一つの在り方。
何かの命を踏み台に糧にしたのなら、その者は歩かなければいけない。
今を生きるとはそういうことだと、彼は教わって生きていた。
この場にいる誰とも違う。平民だからでも無い、貴族だからでも無い、アルムという人間の生き方。
隔絶された山奥で魔獣を狩り、自分達で命に触れ続ける田舎村でアルムはそれを教わった。
"生き物が生きる意味はないかもしれない。でも生きなければいけない理由はある"
それは自分が抱いた夢よりも先に教わった最初の教えだった。
「それとも、今本当に無駄にするのか」
「え……?」
「お前が死ぬんならお前が自分のせいで死んでいったと思ってる命は無駄になる。
なのに本当に死にたいのか? それとも無駄にしていいと思ってるのか?」
まるで、死ぬのは別に構わないと言っているかのような物言いでアルムは問う。
自死したいと思う者に対して、他人の命を無駄にするなという、聞く者が聞けばあべこべにも思える説得。
無論、アルムはシラツユの感じる罪悪感や喪失感など考慮しているはずがない。
価値観の押し付けと言われればそれまでだろう。
「本当に自分のせいだと思ってるなら生きるべきじゃないのか?」
けど、意味がある。
この場で、生きるべきだと、断言した事に意味がある。
他の者が躊躇した一言をアルムは何の抵抗も無く言い切った。
抑揚のない普段通りの声。
その声には自死を止める必死さすら無い。
「あ……」
ぼやけた視界が徐々にクリアになっていき、シラツユの目にアルムの表情が映る。
入ってきた表情にシラツユは思わず目を見開いた。
それは、アルムの表情が余りに普通だったから。
自分の折れた心を立ち上がらせようという慰めでも無い。
ましてや失われた命の恨みを代弁し、責めようというわけでもない。
本当にただ疑問を持っただけのありふれた人間の表情。
アルムはシラツユの死にたいという結論にただ疑問を持ち、自分の持つ命の在り方を語っているだけだった。
「それに多分、お前は自分が思ってるほどひどいやつじゃない」
「な、何を……!」
当たり前のように語るアルムに押され気味だったシラツユも流石にその声は見過ごせず、表情を変えた。
そんなはずはない。
自分のせいで亡くなった人達がいるという思いだけは変えられない。
何より……今は後ろで表情の見えないラーディスがここの住民を大切に思っていたのは痛いほどわかっていた。
そんな人の前で、自分がひどいやつではないなどと、安い慰めをかけるアルムをシラツユは軽蔑しかける。
「守っただろ、シラツユ」
「え……?」
「自分の為にって言ってた割には湖畔に血が少なすぎる。守ったんだろ、シラツユ。お兄さんを助ける前に……逃げる人達を守ろうとしただろ?」
"断言しよう。そなたは守ろうとしておったよ"
兄の姿で大百足に言われた言葉が脳内で蘇る。
その言葉で、自分がどれほど中途半端で、兄を救う覚悟などできていなかったを自覚させられた。
自分はどちらも選べない半端者。そんな女が一国を支配し、人間全てを餌にしようなどという怪物に勝てるはずもない。何か、できるはずも無い、
この人もそれを突きつけるのかと一瞬呪った。
けれど、それは間違い。
軽蔑すべきは自分。
呪われるべきなのも自分自身だと、どうしようもなくシラツユはわかっていた。
「私が……私のせいなのに……私が弱かったから……中途半端で……何もできない弱い女だから……何か……した気になりたかったのかもしれません……」
たどたどしく語る声には後悔があった。
何故襲われる人々を見捨てられなかったのか?
そう、大百足の言う通り。
自分は兄の為に何かしようとしたのだと、住民を助けようとしたのだと、ただ周りにそんな自分をアピールしたかっただけかもしれない。
自分がただ、救われたかっただけもしれない。
湖畔で戦っていた自分は……あの場でいた誰よりも弱者だったとあの時自覚してしまった。
何も救えない人間なのに、何かを救えると思い込んでいた……大百足の言う通り、中途半端な愚か者だと。
「違うよ」
またも、アルムは断言する。
押し付ける言葉は短いながらも強くシラツユに叩きつけられる。
ゆっくりと、蝋燭の火の先で影が動いた。
扉の近くから、アルムは部屋の中央を横断し、床に座るシラツユの前まで歩いていく。
他の者はそれを見つめていた。
「俺は教わったよシラツユ」
「え……?」
シラツユの前まで歩いたアルムはしゃがんでシラツユと視線を合わせる。
別人かと思うほどの優しい声色にシラツユは驚いた。
優しくて温かい、発せられる声一つ一つが夜に灯る星のように眩しかった。
自身の命の価値観を語った時の岩肌のような厳しさとは違う、そんな声。
「俺は教わったんだよ、シラツユ。人が誰かを助けたいと思うのは誰かに助けられたからだって……」
気付いたのは勿論ミスティだけだった。
それは昨夜、自分がアルムに送った言葉。
例え自分とは違う何かを抱えていたとしても、送るべき言葉はきっと自分がミスティに教えてもらった事と同じなのだと、アルムは自分で言葉を紡いでいく。
「俺はお前のことはわからない。けど、シラツユ……シラツユも誰かに救われたんじゃないのか?」
ふと、シラツユは自分の手に視線を落とす。
その手には、まだ白い鉢巻が握られていた。
「俺は教わったよ。誰かに助けられたから誰かを助けたいと思うんだって。
俺は教わったよ。そうやって誰かに助けられた自分が、また誰かを助けていって……誰かを救いたいって気持ちを繋いでいくんだって」
昨夜、自分の心を癒してくれたミスティの言葉。
生きていた時間を肯定するようなその声にアルムは確かに救われた。
なら――次は自分の番。
自分を否定して、弱いと決めつけている罪悪感に塗れたシラツユの景色を晴らす言葉になるとアルムは信じている。
自分が昨夜、そうであったように。
「きっとお前は大切なものがこの短い間に増えてしまっただけなんだ。俺には何があったかわからない。
でも自分でも気付かない内に……シラツユはこの町の人を好きになっていたんだと思う。
そんな人達を失うのが恐いから、守ったんだよお前は。関わった人達を見捨てられなかったんだよ。名前も知らないかもしれない、短い間だったかもしれない……けど、確かに一緒にいた人達を見捨てられなかったんだ」
アルムは床についていたシラツユの手を優しく取る。
触れる手のぬくもりでシラツユは自分の手がこんなにも冷たくなっていたのだと気付いた。
そしてアルムが昨夜受け取ったぬくもりが今度はシラツユに伝わっていく。
「お前は弱かったんじゃない。中途半端だったんじゃない。きっとお前は……自分が思ってるよりほんの少しだけ、優しかったんだ。ただそれだけなんだよ、シラツユ」
微笑むアルムを見てシラツユの瞳から再び涙が溢れていく。
同じ目線にあるアルムの表情はぼやけていき、静かに静かに頬を涙が伝っていく。
触れた手から体温が戻っていく。心が撫でられているように温かい。
私はここに来てよかったと。
私は祭りに行ってよかったと。
私は踊ってよかったと。
私は……あの手をとってよかったのだと。
罪悪感をかきわけて、そんなはずはないと、頭の中でいくら否定していてもさざ波のようにその声は胸に押し寄せる。
確固たる意志を持って突きつけてくるアルムの言葉は自信無く響いていた自分の声よりも遥かに強いものだった。
「そもそも……お前のせいだけじゃない」
優しかった声色が変わる。
さっきと同じ声。
「殺したのはあいつだろ」
やめて、と今度は心が叫び始めた。
このアルムという人間はその価値観であまりに自分に都合のいい事を語ろうとしているとシラツユは気付いたから。
「人を食べたのはあいつだろ」
アルムは繰り返す。
「糧にしたのはあいつもだろ」
何て、何て残酷な人だとシラツユは震えた。
言えるはずが無い。
それでもアルムはシラツユに問う。
「奪われたのがお前だろ?」
そんな虫のいい話をしないでほしいとシラツユは体を少し引いた。
口にしてしまう。
アルムの言葉は、今までかけられた言葉とは違う意味で毒だった。
ほどけた心に無理矢理入り込んでくるような今までとは違う感覚。
「なら、お前は殺してくれと願う前に言うことがあるはずだ」
「駄目……駄目です……」
ふるふると横に首を振るも、アルムの手はシラツユの手を離さない。
「言ってくれ。シラツユ」
駄目だとシラツユは首を振る。
ほどけた心で声を出せば、そんな恥知らずな言葉を言ってしまいそうで。
「もう言っていいんだ。言いたかったはずだ」
騙して、嘘を吐いて、ここまで辿り着いたシラツユは一度も、誰にも言えなかったこの言葉がある。
その言い方をシラツユは知らない。
そして、こんな自分が今まで言ってはいけないとも思っていた言葉。
知ってか知らずか、アルムはその言葉に固執する。
「お前はもう言っていいはずだ」
横に振った首が止まる。
出かかったその言葉をシラツユは喉を絞めて押し伏せる。
「そうだろ! シラツユ!」
手で口を覆おうとしたが遅かった。
その手は、一人の変わった平民によって握られていたから口を押さえる事ができなくて、
「たすけ……助けて、くだざい……!」
そんな誰もが口にしていいはずの言葉を、シラツユは人生で初めて口にした。
「ああ、当たり前だ」
迷うことなくアルムはその声に応える。
あの時、馬車でミスティから受け取った薄く小さい本。
アルムは自分がその"憧れ"に近付いた事にも気付かずに、一歩、その歩を進めた。
いつも読んでくださる方々ありがとうございます。
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