107.トラペル邸
「アルム!」
アルムとミスティはその声で振り返る。
屋敷の入り口から駆け寄ってくるのはエルミラだ。
五日ぶりに会うエルミラは変わらない姿だったが、流石にこの状況で表情は明るくない。
いつもの快活さはエルミラには無かった。
「エルミラ、無事でよかった」
駆け寄ってくるエルミラにアルムとミスティもエルミラの方へと駆け寄った。
「山が崩れたと聞いていたから心配したんだ……本当によかった」
「ええ、本当に無事でよかったですわ」
「あー……うん、そだね」
目をそらして答えるエルミラの声は妙に歯切れが悪い。
ミスティは察して顔を覗き込む。
「……どうされました?」
「ううん、何でもない」
エルミラは聞かれて笑顔を見せた。
見た目はいつものエルミラの笑顔だ。
だが、ミスティの目からは無理して笑っているように見える。何かがエルミラを後ろ引いているような元気の無い笑顔。
アルムはその笑顔から何かを感じる事は無かったが、一ついつもと違う事に気付いていた。
「ん……?」
エルミラの笑顔で八重歯が見えなかった。
アルムが初対面の時に印象的だった部分ではあるが、ただそれだけの些細な事だ。
いつも見えていたかどうかもわからない、普段なら意識すらしていない部分が妙に気になり、アルムは眉を顰めた。
「私の事よりとりあえず早く入って。話す事もあるでしょ」
「え、ええ……」
「そうだな、あの虫の動きは気になるが……」
アルムはミレル湖のほうを振り返る。
大百足に大きな動きの変化は無い。
「まずどう動くかを考えないとな」
「付いてきて」
エルミラの案内でアルムとミスティは屋敷の中に入る。
屋敷に入るとまずホールがアルム達を出迎える。平民の家からすれば広々としていたが、おお……、と声を上げているのはアルムだけだった。
ベラルタにあるミスティの家は貴族の家だが、個人用な為か広く設計はされていない。
アルムはミスティの家に皆で何度か訪問した際に聞いたミスティの、
"やっぱりこの家は少し狭いね"
という言葉と、
"そうですね"
会話相手だった使用人とはいえ同じ平民であるはずのラナが同意したその言葉に衝撃を覚えていた。
ラナの同意はミスティが友人を連れてくるようになって、という意味だったのが、残念。
アルムはそう受け止めることができなかったのである。
そして今いるのは領主の屋敷。
ミスティの仮の家とは違う本物の貴族の住居だ。
領主の住む屋敷という普通は入れない場所に初めて足を踏み入れ、平民であるアルムはその広さに驚いている。
アルムの住む第二寮の共有スペースより少し大きいくらいで貴族の家としては普通かそれ以下ではあるものの平民の価値観からすれば十分な広さだった。
ホールは吹き抜けとなっていて、左に見える階段から上がれる廊下が見える。
エルミラが階段に向かったのでアルムも付いていく。
二階に上がって左に二度曲がると、廊下の先に部屋があり、エルミラはその部屋の扉を開けた。
「アルム。五日ぶりだね」
「ルクス」
扉を開けると正面に大きな窓とバルコニーのある部屋だった。
赤いカーペットが敷かれ、バルコニーのある窓の手前に大きなベットが一つと左側には本棚と木製の机と背もたれが妙に豪華な椅子があった。そして右側には壁に燭台のかかっている壁と暖炉、そして暖炉の前にはソファと小さな丸い机がある。
ルクスは椅子の一つに座っており、火の無い暖炉の横にはヴァンが立っている。
ベッドにはシラツユが寝かされていて、ベネッタが治癒の魔法をかけていた。横では治療が終わっているのかラーディスが見守っている。
部屋壁と机にある蝋燭の火、そして窓から入る月明りで照らされていたが、明るさとは関係の無い別の暗さがあった。
「ルクスも無事でよかった……心配したぞ」
「君がそんな表情するとは意外だな」
ルクスはアルムが安堵したような微妙な表情の動きを見てつい素直な感想を口にしてしまう
アルムが自分達と再会するならいつもと変わらぬ表情だと思っていたからだった。
「すまない、失礼だねこれは」
失言だとルクスは自分から出てきた言葉をかきけすように手を振る。
そんな見たこと無い動きに、アルムは改めて安心する。
「いや、いいさ。とにかく無事でなによりだ」
次にアルムはベッドのほうに目を向けた。
ベネッタは真剣な表情でシラツユの傷口に魔法を当てている。
「ベネッタくんがここに運んできた時、シラツユ殿は意識を失ったそうでね。状態はラーディスのほうが悪かったそうだから先に治癒して今はシラツユ殿だ」
「こいつには聞かなきゃいけない事が山ほどあるからな」
シラツユの話題になってヴァンも重そうな口を開く。
「こいつはガザスの研究員なんかじゃない」
「え?」
「どういうことですか?」
聞き返すアルムとミスティにヴァンは頷く。
「すでに研究員はあの百足に殺されてる。遺体はガザスの魔法部隊が発見して伝令が飛んできた。王都もすでにその伝令を確認してガザスと連絡をとりあおうとしてるはずだ」
「じゃあシラツユは……?」
「それを起きたら聞くんだ。傷が治ったら嫌でも起こすがな」
「王都にあの百足の事は?」
「五日前に遭遇した後に伝令を送ったが……俺達が会った時点であの百足はあんなでかさじゃなかった。
敵の魔法使いが潜入してるって伝令しか王都には送れてない。だからあの百足の事を知ってるのは俺達だけ……伝令自体はもう届いてるだろうが、どれだけ王都が完璧に動いたとしても自立した魔法に対処できる魔法使いは間違いなく準備できてない。指示してたとしても敵の魔法使いの捜索くらいしかないだろうよ」
「明日の朝までに増援が来るなんて奇跡は無いわけですね……」
「その奇跡が起きたとしても……あれを相手できる魔法使いは少数だろうがな」
ヴァンはバルコニーのほうに目を向ける。
バルコニーからはミレル湖が一望できる。必然、そのミレル湖にそびえる大百足もよく見えた。
「ヴァン先生でもあの百足を相手するのは難しいのですか?」
「俺はああいうのを相手する魔法使いじゃない。使い手がいればそいつの首を切ればすむ話だがな」
唯一、この場で現役の魔法使いであるヴァンの口から出る言葉はこの部屋を明るくするものではなかった。
むしろヴァンですらどうでもならないという事実が一層雰囲気を暗くさせる。
「ラーディスの話によるとあの百足は使い手を飲み込んだときた……何がどうなってる?
このシラツユって女といい、何が起こってるのかすらわからなくていらいらする」
「ラーディス、シラツユ殿は自分をあの百足の使い手……ヤコウの妹って言ってたんだろう?」
シラツユを心配そうに見守るラーディスにルクスが問い掛けると、その声に反応し、ラーディスはこちらを向いて頷く。
「そうです、自分でそう名乗っていました。そして、その兄はあの魔法に乗っ取られてると。
俄かには信じ難いが、使い手を魔法が口にしてあの大きさになったことといい、嘘と否定するには妙な状況も続いていました」
「やっぱり事の顛末を知るにはシラツユ殿が起きるのを待つしかないか……」
「ベネッタ、どうだ?」
アルムが聞くと、ベネッタはシラツユから視線を逸らすことなく声だけで答える。
ベネッタの目は血統魔法を発動し続けていて銀色の魔力で輝いていた。
「わかんない……けど、外傷は大したことないよー。骨とかはボクにはわかんないから何とも言えないや……ただ魔力が妙に多い、かも? 戦ってたにしては不自然な感じ……それと……体にもう一つ命がある」
「どういう事だ?」
「その……見間違いじゃないと思うんだけど……胸元に丸いのが一つ……」
ニードロス家の血統魔法【魔握の銀瞳】は範囲内にある魔力ある命全て捉える。
その銀色に輝く瞳はシラツユの命とは別のもう一つの命。
魔力のある球体状の命を捉えていた。
初めて見るものなせいか、ベネッタの声は少し自信が無さそうだった。
「それは……多分……私に植え付けられている魔法です……」
その声に部屋にいる全員が反応した。
その声は意識を失っていたシラツユの声だったからである。
「シラツユ殿……よかった……」
ラーディスはシラツユが起きた事に安堵し、肩から力が抜けていた。
ベネッタは起きたシラツユのおでこを軽く人差し指でぐりぐりしながらシラツユに詰め寄る。
珍しく怒っているのか、その眉間には皺が集まっていた。
「もう消えちゃ駄目だからねー!」
「はい……ごめんなさい……」
素直に謝るシラツユに満足したのか、ベネッタは次には安堵したような表情を見せた。
壁によっかかっているヴァンはシラツユの動きに注視する。
しかし、シラツユに妙な動きは無い。
「動くなよ、シラツユ。あんたには色々話してもらわなきゃいけない事がある。
ガザスの研究員だと身分を偽って入国したのは勿論、あの百足の事もだ。色々関係してるんだろ」
「はい……もう私一人でどうにかできる事態ではありませんから……」
起き上がろうとするシラツユをベネッタが手伝おうとするが、手で制止してシラツユは一人で起き上がる。
ヴァンとルクスはその動きを警戒していたようだったが、シラツユは起き上がっただけだった。
「俺達が聞いても大丈夫なものなのか?」
アルムの問いにシラツユは小さく頷く。
「はい、"言霊"の影響のない範囲で説明します」
シラツユはそう言うと一つゆっくりと深呼吸をした。
そして頭に巻かれた鉢巻をほどき、何かを祈るように胸の前でぎゅっと握る。
深呼吸を終えた顏は下を向いていて、握る手は小刻みに震えていた。
少しして、シラツユは意を決したように顔を上げる。
「聞いてください。マナリルの皆さん。常世ノ国で何が起きていたのか……そして、私という濁った人間のお話を」
いつも読んでくださってありがとうございます。
ぼかしていた情報がようやくです。もうある程度把握していらっしゃる読者の方もいるとは思いますが、お付き合いください。