106.横顔の視線
ミレルの町は恐怖に包まれていた。
大百足の脅威から追われて湖畔から町へと逃げてきた住民達は、最低限の荷物を持って今度は町から脱出しようと各々の住居から休む間もなく走り出している。
祭りの空気やワインの酒気に酔っていた人々の姿はもう無い。ワインの瓶を握っていた手は荷物を持ち、音楽に合わせてダンスのステップを踏んでいた足は恐怖に駆られて湖畔から離れる為だけに動いていた。
住民のほとんどが肌に感じた大百足の重圧は彼らに焦りをもたらし、町中にあった賑やかで楽し気な雰囲気はどこにも無い。
あの巨大な人喰い怪物がいつ動くかわからない。
ぞろぞろぞろぞろ。
赤黒い無数の足の音が今にも背後から聞こえてくるのでは。
耳に貼りついて離れない音が住民の足を疲労を無視して動かさせる。
足である馬は全て殺されていて、馬車も動かせない住民達に出来るのはただそれだけだった。
「昨日まであんなに楽しそうだったのにな……」
アルムは少し表情を曇らせる。
この町に着いて生き生きとしているミレルの住人達と接し、昨日の夜、屋根の上から見た祭りを楽しみに騒いでいたミレルの町の光景を知っているがゆえに今の状況は同じ町とは思えない。
肩越しに背後を見ればミレル湖の青い水の輝きに混じった大百足の黒い光。
全ての原因はあの虫だ。
今からでもミレルに侵攻すればその巨躯を持って町と人を破壊しつくせるだろうが、大百足の目的はどうやら霊脈が優先のようで本当に明日の朝まで動く気はないらしい。
ミレル湖をさも自分の地であるかのように水浴びするその姿も間近で見せつけられれば住民達の心を折るようで、住民達が主役であるミレルという舞台を奪い取り、王のように君臨している。
「……ム! アルム!」
屋根の上を駆けながら町を見回していたアルムは喧騒に混じって微かに自分の名前を呼ぶ声に気付いて視線を上げる。
住民のパニックの喧騒のとは違う落ち着いた声色。
きょろきょろと見回して目に止まったのは丘陵地帯であるこの町で最も高い丘で一際灯りが目立つ比較的大きなレンガ作りの屋敷だった。
門もレンガで出来ている建物の前でミスティが手を振っていたからである。
すぐさまアルムはそちらのほうに跳んでいく。
ある程度整備されている道はあったものの、その屋敷が立つ丘の周りには葡萄の木は多くなく、魔法によって強化された足ならば数分で登り切れた。
「ミスティ、シラツユとラーディスは?」
到着と同時にアルムが聞くと、ミスティは屋敷の方を見る。
「今、中でベネッタさんが頑張ってくれています。シラツユさんは魔力が漲っていて見た目より何とかなりそうとの事ですが、ラーディスさんの左腕は流石に難しいそうです」
「そうか……ミスティは?」
「はい?」
「ミスティに怪我は無かったのか? 俺とは距離があったからよくわからなくて」
「え、ええ、私も何ともありませんわ」
自分の心配をされると思っていなかったからかミスティは少し言いよどむ。
見た目通りミスティに大きな傷は無い。
精々大百足の攻撃を抑えた際に出来た擦り傷くらいだ。
「それより町の様子はどうです?」
「当たり前だけど、パニックになってるな。あの妙な魔力に当てられてなくてもあの虫を恐がってる」
この屋敷はミレル湖を眺められる絶好の立地だった。
アルムが振り返ると、青く輝く広大なミレル湖とそれに浸かっている大百足の魔力の光が見える。
美しいミレル湖を見る為にこの屋敷は建てられただろうに、今はミレル湖の美しさを堪能している暇など無い。
そんな一時の休息場所はトラペル家の屋敷。
このミレルを治めている貴族の邸宅だった。
「無理もありませんわ……ただの百足でさえ恐いというのにあの大きさで人を食べるんですもの」
全長でどれほどあるか……とミスティが呟きミレル湖の方向を見る。
大百足がそびえる場所がミレル湖である為に、大百足の動向もよく見える。
大百足は動く様子は無い。
今もミレル湖の霊脈から魔力を吸い上げているのだろう。
そんな姿を前に動き出せない自分が歯痒いようにミスティは唇をきゅっと強く結んだ。
「ミスティは百足苦手か?」
「へ?」
ミスティは唐突にそんな質問をされたせいか、結んだ唇はすぐにほどかれ、間の抜けた声が出てしまう。
ミスティはそんな口を一瞬手で押さえ、わざとらしい小さな咳払いを一つした。
「どうしてですの?」
「いや、ただの百足でさえ恐いっていうから……意外だなと」
アルムの意外という言葉が心外だったのか、ミスティは腕を組み、表情がむっとする。
アルムを見る横目は心なしか少し冷たくなっていた。
「意外とは何ですか……これでも私はか弱い女ですのよ?」
しかし、そんなアルムもそれには反論したいと大百足に目を向けた。
「か弱い女の子はあれに立ち向かって全身氷漬けにできないと思うんだ……」
「それとこれとは別ですわ」
「別かな?」
ミスティのほうを向くと、それに合わせてミスティもアルムと向かい合う。
「別ですわ。あれはまぁ、フォルムは百足で恐いですが、倒すべき敵だと割り切って立ち向かえます。
ですけど、ただ生活している時に急に足があんなにいる生き物がいたらびっくりしますし、単純に恐いでしょう?」
「ドラーナでは普通に山に登ってたけど、大丈夫だったのか?」
「あれは実地でしたし、山もそういう場所だと割り切って覚悟してましたから」
「そういうものか……」
どうやら心持ちの問題のようでアルムは納得する。
要するに出てくるはずのないものが出てくる不快感という事だろうか。
不意に見かけるただの百足は生活の中の予期せぬトラブルで、遭遇すること自体に不快感を持つが、大百足はフォルムこそ百足で恐怖はあるが、ミスティにとっては倒すべき敵として覚悟を持って立ち向かえるという事らしい。
そこまで聞いて、やっぱりそれはか弱くは無いのでは、とアルムは思うのであった。
「アルムは恐くありませんの?」
アルムは困ったように髪をかく。
大百足を少し見つめて何か考えているようだった。
「まぁ、特に……大きさに驚きはするけどな」
「凄いですわね……私は立ち向かえますが、ちょっと、恐いです」
珍しく少し弱音を零すミスティ。
ミスティは類い稀なる才能の持ち主ではあるが、自立した魔法と戦った経験は無い。
ドラーナで【原初の巨神】を見たものの、ベラルタにいた人々やアルム達とは違う、あれに侵攻される体験をしたわけではないのだ。
大百足は使い手を飲み込み、自立した魔法として顕現している。
初めて戦う自立した魔法でしかもそれが霊脈を食う怪物。さらに自分が制御できる範囲で唱えたカエシウス家の血統魔法は破られている。
これで不安を感じるなというほうが無理な話だった。
「俺からすればあれごと周りを凍らせるミスティのが恐いけど」
そんなミスティの横でさらっとアルムはそう言いのけた。
「……どういう意味ですの?」
あの大百足と比べて自分のが恐いとは?
ミスティは恐いという感想が少し不満だったのかじーっとアルムを見つめている。
アルムはそんな視線に気付くことなく、
「あの虫を特別視する必要はないってことだよ」
そう吐き捨てた。
不満を表していた視線は無くなり、ミスティはきょとんとする。
あの大百足を特別視する必要が無い?
ミスティには理解できなかった。
自立した魔法と戦った経験はない。だが、今までどんな脅威があったかくらいは本や母親からの話を聞いて知っている。
あれは明らかに自立した魔法の中でも上位に入る怪物だろう。
恐らく全長だけならば一月前にベラルタに侵攻した【原初の巨神】よりも巨大。
そんな怪物をして、アルムはあれは特別でないという。
考えても言葉の意味はわからない。
だが、ミスティの見たアルムの横顔は確かにその言葉が本心だと物語っていた。
いつも読んでくださる方々、評価ブックマークありがとうございます。
第二部は第一部より少しだけ短くなるかなと予想しています。是非最後までお付き合いください。
長くなったらごめんなさい……