105.交差する
「生き物だったのが魔法になったって事……?」
「そんな事って……」
『信じなくともよいよい。いずれこの国全ての命が儂の腹の中となった後……あの世で獄卒にでも聞くとよい』
ヴァンは衝撃を受けたものの自身で思ったよりも冷静だった。
自分の常識が崩れただけ。魔法の世界は自分が思ってるよりもまだまだ知らない事があるというだけの話だ。
何より――魔法使いの常識とやらははすでに一人の平民によって崩されている。
今更別の常識を崩されたからといって驚く事ではないとヴァンは口元で笑った。
「お前の話が嘘だろうが本当だろうが、今は魔法なんだろう? この魔法大国マナリルを魔法であるお前が自分のものにする? 随分嘗められたもんだな、この国にはお前みたいな魔法をどうこうできる魔法使いなんていくらでもいるぞ」
だからこそこんな軽口も簡単に出せてしまう。
半分ははったりだった。
確かにマナリルには自立した魔法を破壊する事を得意とする魔法使いは多くいる。
だが、それは今までの魔法使いの常識の中での話。目の前の大百足は未知数だ。
その上、この大百足は普段相手する自立した魔法とは一線を画している。
例えば、ベラルタの地下にある『シャーフの怪奇通路』は破壊される事無く放置されている。
マナリルが数多くの魔法使いを保有している国にも関わらずだ。
理由は一つ。マナリルの魔法使いでもどうしようもできないからである。
ヴァンはこの魔法がそのどうしようもできないケースでは無い事を願っていた。
『大国か……ふむ、確かにマナリルは数多の魔法使いを持つ大国じゃ。貴族のほとんどが魔法使いとなり、国や領地を守る為に動く稀な国と言えるじゃろうな』
大百足はヴァンに瞳を向けている。
その間も頭部に生える触覚は湖に向いて何かを探すように動いていた。
『だからこそ……儂は万全を期した。この町を襲う際に祭りのタイミングを狙ってのう。平民が貴族のような格好をして騒ぐ珍妙な祭り。力無き者が湖畔に集まり、逆に魔法使いどころか貴族全員が敬遠するこの時をな。
それもマナリルにいる魔法使いと早い段階で邂逅せぬ為じゃ、万が一……儂と戦えるような魔法使いとかち合わぬようにな』
大百足が動き、アルム達は身構える。だが、大百足は後ろのほうから湖に入っていくだけでこちらを攻撃する意思は無いようだった。
青く輝く湖に黒く光る甲殻がずるずると、沈んでいく。
大百足という異物を湖は拒否できるわけもなくただ受け入れていく。
『まぁ、それでもここまで魔法使いがいたのは誤算じゃったがな……それも仕方あるまい。万全を期してもトラブルは起きるからのう。マキビがあそこで捕まるのも想定しておらんかったからのう』
やがて、とぐろを巻くようにしていた体節もほどけていき、徐々に湖に浸かっていく。
何をしているのかはアルム達にはわからない。
頭部の触角はまだ湖に向けて動いている。
『そうじゃそうじゃそういえば』
大百足はそんな何かを探すような動きを続けながら、芝居じみた前置きを口にした。
『一月前は随分大変だったようじゃな?』
この場にいる全員が心当たりのある月日。
スクリル・ウートルザの遺産【原初の巨神】。
生きる大地の襲来。
あのまま侵攻していればベラルタを破壊しつくしたであろう規格外の自立した魔法。
一月前にベラルタで起こった出来事といえば今や誰もがその災害を思い浮かべる。
「……どういう意味だ?」
アルムが問う。【原初の巨神】と相対したアルムからすれば今の大百足の言葉は何よりも聞き逃せなかった。
大百足の口が小さく開く。
もしかすれば人間でいうところの笑顔かもしれない。
だとすれば、その笑みはさぞ意地の悪いものであっただろう。
『この地を襲う事でさえ慎重を期したこの儂が……何も試すことなく国を喰いつくそうなどと実行すると思うたか?』
大百足の言葉の意味。
誰もが辿り着くだろう。
ダブラマが起こした凶行が一体何がきっかけだったのか――
「お前か……お前が――!」
『そう、ダブラマを唆してあの巨人を動かさせたのは儂らじゃよ。強力な魔法使いを送り込まずともマナリルを落とせるかもしれぬぞ、と話を持ちかけたらすぐにやつらは乗ってきおった。
この国は他の国からすればよほど邪魔とみえる』
だから狙ったんじゃがな、と大百足は小さく頭部を動かした。
人間を乗っ取っていたからなのか、その動きは所々人間臭い。
そんな小さな動きでさえ、この場にいる者の心を僅かに乱す。
『確かにマナリルは数多の魔法使いを保有する大国じゃろう。だがどうじゃ? その大国も主人を失っていた一つの魔法が動いただけでお手上げであったろう?』
大百足の言う通り。
特に、状況をより細かく把握していたヴァンにとっては図星とも言える言葉だった。
ベラルタと近隣の町村の被害を無視し、王都の魔法使いが総出でかかれば【原初の巨神】を破壊する事はできただろう。
だが、ダブラマの侵攻と合わさった事で、あの時のマナリルは全体が乱れていて、明らかにその地位が危ぶまれていた。
マナリルの状況があまりに危うい為に、東にあるガザスの動きはオルリック家が、北にあるカンパトーレの動きはカエシウス家が警戒する必要があった為に、力ある魔法使いの半分が動けない状態にあったからだ。
ダブラマの魔法使いとの戦闘、そして西方の領地の貴族が他にも抱き込まれていたと想定した場合、近隣の国との力関係がひっくり返っていた可能性があった。
ヴァンはつい生徒達に目をやってしまう。
そうならなかったのは間違いなく今ミレルにいるアルム達がいたからであると知っているからこそ。
『ダブラマの魔法使いがしくじったせいで観測はできなかったが……それでも、当時のマナリルはダブラマだけでなく、周囲の国からの救援も望めなかったであろう?
見たかったのじゃよ。記録が積み重なった魔法はこの国すらも脅かせるという証明と……この国が真に危うくなった時、周りの国がどう動くのかをな』
「きゃっ!」
大百足の声の途中で、ずん、と地響きのようなものが湖から響き渡った。
地上にいるアルムとミスティの体はその衝撃でよろめく。
「何だ……?」
『もう忘れたか? さっき言ったであろう? 足りぬ魔力は霊脈から補うとな』
大百足から放たれる黒い魔力光。
それに突如、青が混ざり始める。
混ざっては黒になり、また青く輝いたかと思えば黒に。
大百足の体に巡る魔力光はそれを徐々に繰り返していく。
『ようやく接続できた……この魔力……! やはり睨んだ通り極上じゃ……!』
「魔力を……吸い上げてるのか……?」
『その通り。この地の霊脈こそこのミレルを選んだ最大の理由……! 逃げた餌など後で食えばよい。感じる……あの滝のような表層ではない、儂らの門となる真の霊脈……ああ、常世ノ国以来の感覚じゃ……!
戻っていく……! 失った魔力が、命が戻っていく……!』
艶めかしい女の声を上げながら大百足は天を仰ぐ。
歓喜に震える魔法の怪物。
赤黒い足はざわざわと喜びを表すように動いている。
湖にそびえる大百足のその姿は誰かを呼ぶ灯台のようだった。
『止めたくば止めるがよい。だが、その時は未だ町に残っているであろう餌共を巻き込むと思え』
「この性悪……!」
魔法を唱えようとしたヴァンは大百足の脅迫で変換を止める。
ミレルの住民はまだ湖畔から逃げただけ。
この大百足が暴れ始めればミレルの町だけでなく住人達もひとたまりもないだろう。
その声で今ミレルの住民を見逃してもらってる事でさえ幸福なのだとアルム達は思い出す。
大百足は計画的にミレルを襲っている。
確かに食らう人間の数は少なかっただろう、アルム達がこの町にいたのは誤算だっただろう。
だが、そんなものは本来の目的を考えれば些事なのだ。
魔法使いがいるのならミレルの住人を人質として盾に。
魔法使いがいなければ餌として食いつくすだけ。
どちらに転ぼうと大差はない。
現に大百足は霊脈から魔力を奪うという目的を達成し始めている。
今日この日。大百足に行動を許した時点でこの結果は必然だった。
『とはいえ、空腹は不快なもの……そなたら、朝日が顔を出すまでにひとまず百人の贄を湖畔に置いておけ。
でなければ……この町と住んでいた餌は明日消すことにしよう』
「そんな事が――」
『答えは聞いておらん。疾く立ち去れ。それとも……儂の水浴びが見たいのか? 助平共?』
冗談のような台詞を吐きながら大百足は触覚と赤黒い足を動かす。
もうこの場にいる者にはわかる。
大百足は間違いなく、選択肢の無い自分達を見て喜び、笑っていると。
「引こう。ミスティ! ヴァン先生!」
アルムの声にミスティは頷いてアルムのほうに走る。
大百足がそれに追撃しようとする様子は無い。
「ちょ、アルム!?」
「あいつの言う通りだ、撤退するぞ」
「でも……!」
「エルミラ」
やりきれないエルミラを諭すようにルクスが名前を呼ぶと、エルミラは口をきゅっと閉じる。
ヴァンに運ばれながらもエルミラは悔しそうに大百足を肩越しに睨んだ。
『ふふ、愛いやつよう……』
「最後にいいか?」
『む?』
引こうと最初に提案したにも関わらず、アルムは大百足をじっと見ていた。
『なんじゃ、まだ行っておらんかったのか。女の水浴びを見つめるとはいやらしい男児よのう』
大百足の寒気が走るような冗談を無視して、アルムは再び問う。
「あんたの悲願っていうのは絶対に人間を喰わないと駄目なのか? 他にも生き物はいるだろう?
他の生き物ならいいというわけでもないが……人間じゃなきゃ駄目なのか?」
『ああ、そうじゃ。言ったであろう? 人間を喰ってこそ……儂は儂でいられると』
「そうか……随分人間に執着してるんだな」
『……』
大百足は答えない。
その頭部から、笑みが消えた気がした。
『お主に何がわかる?』
「いや、あんたの事なんてわからない。ただそう思っただけだからな」
『では今の質問に何の意味がある?』
「意味なんて無い。知りたいと思ったから聞いただけだ。肉食の生き物でも人間しか食べないなんてやつは聞いた事が無いからな」
『ただの知識欲だと?』
「ああ、あんたみたいなのとは初めて会ったから話せるなら聞いてみないと損だろう?」
大百足は相変わらず恐怖の欠片も持たず自分を見るアルムに違和感を抱く。
自分が今まで出会ってきたどの餌とも違う反応だった。
『おかしなやつじゃ。人間を殺す儂に何も感じないとはな』
「ん? いや、待て待て。それとこれは話が別だ。俺もあんたに思うところはちゃんとある」
『ほう? じゃが、お主からは他の者のような怒りは感じぬが?』
「そりゃそうだ。怒る権利があるのはあんたに何かやられた人だ。この町にいた人やこの町を守っていた人達……そして殺された家族の人達だけなんだ。
俺は何もしてないし、何もできてない。この町に住んでないし、誰かを守っていたわけでもない、家族も友人も殺されてない……何もしていないし、されてない。そんな人間に怒る権利なんて無い。
だから……俺はまだ魔法使いには相応しくないんだと思う」
大百足がヤコウの姿のままならば訳が分からず首を傾げていたかもしれない。
自身の足りないものを自覚するアルムの姿はミスティ達が見れば寂しそうだと思っただろう。
大百足には目の前の餌が憂う姿が一体何なのかがわからなかった。
『ふむ……それで? 何もしてないそなたは儂に何を思っておるというのじゃ?』
「ああ、そうだな……何て言ったらいいかな……」
アルムは顔を上げ、少し考えると大百足の瞳を見据える。
うん、これかな、と自分の気持ちに納得したように頷いて。
わかりやすく、端的に、大百足への思いを告げた。
「お前は生きていちゃいけない生き物だ。だから、倒さなくちゃいけないなとは思うよ」
『ああ、よいよい……わかりやすくて何よりじゃ』
大百足に叩きつけられたのは怒りや憎しみなど無い、純粋で玲瓏な殺意。
大百足はそこで笑みを取り戻す。
得体の知れない生き物から見知った感情を感じたからか。
互いの殺意が交差し、その点においてアルムと大百足は通じ合っていた。
「じゃあとりあえず今はこれで」
友人の元から去るような気軽さでアルムは町の方向へと振り返る。
『ああ、儂を倒せるよう精々頑張るとよい。
それか儂を一人で殺せる……奴のような英傑でも連れてくるのじゃな』
どちらも無理か、背後に聞こえる大百足の呟きを耳にしながらアルムはミスティ達より遅れてミレルの町へと撤退する。
夜明けまで十時間。
月と星は平等に、ミレルと大百足を照らしている。
いつも読んでくださってありがとうございます。
今日はもう一本、短い幕間を上げます。