104.新生
救援に来たルクスとエルミラ、そしてヴァンはあろうことか宙に浮いていた。
例え魔法使いであってもその光景は驚くべきもの。
宙に浮くヴァンは同じく宙に浮いているルクスとエルミラと違って、その体勢には安定感があった。
ルクスとエルミラを浮かせているのがヴァンというのだけは一目でわかった。
いくらヴァンが風属性魔法の魔法使いだからといって、人間三人を自在に浮かせるほど高等な魔法は片手の指の数で足りるだろう。
加えて、ニヴァレ近くの山から五日でミレルまで駆け付けている事からそのスピードも相当なもの。
今三人が宙に浮いているのはヴァンの血統魔法によるものだという事はアルム達にも容易にわかった。
「……百足が喋ってる?」
「ヤコウはどこだ? それに……何だこの声は……?」
事態を理解していないルクスとエルミラ。
現役の魔法使いであるヴァンですら、五日前に山で見たヤコウがこの大百足に乗っ取られていたなどという結論には至ることはできない。
人々を守るように現れた巨人を盾にし、ミレルの人々はようやく湖畔から全員が避難した。
被害は大百足出現時に食われた十数人とシラツユが戦った際に大百足がどさくさに食った数人と巻き込まれて潰された二人の老人だけ。
被害を被った死者たちからすれば関係の無い話かもしれないが、大百足の存在を考えれば間違いなく軽微といえる。
ミレル湖の湖畔に残っているのは今や戦う意思のあるものだけだった。
『くく……』
大百足の口の奥から声がする。
裂けた口の端から生える巨大な顎肢と、口の中に見える剥き出しの牙が恐怖を煽る。
『ははははははははははははは!!!』
湖畔に響く大百足の笑い声。
気弱な者ならば大百足から発せられている鬼胎属性の重圧と脳に響くようなこの笑い声で意識を失うのではないかとおもうほどに、大百足が笑っている時間は心を騒めかせた。
それは百足の姿で人のように笑う歪さを感じているからか、それとも大百足の笑い声が楽しそうなものだったからか。
この場にいる者でもそれはわからなかった。
『逃げられた逃げられた……どうやら今回はお主たちの勝ちらしい』
「勝ち?」
アルムが大百足の言葉に声を上げる。
信じられない事に、笑った後の大百足からは本気で敵意を感じられなかった。
それは決して救援が到着して分が悪くなったからというわけではない。
ヴァンはマナリルでもトップクラスに位置づけられる魔法使いだ。
だが、そのヴァンが到着したからといってこの大百足からミレルの住人を守り切れるはずもない。
ミレルの住人は避難したとはいえ湖畔から逃げただけ。今大百足が町を襲えばそれだけでまた状況は振り出しに戻るのだ。
にも関わらず、この大百足はアルム達の勝利を自分から宣言した。
『そうじゃ。これだけの体躯の差がありながらそなたらは儂に立ち向かい続け、この湖畔から餌を逃がしきった……これを敗北と言わず何と言う?
勝利や敗北は命の生き死にだけにあるわけではない。生命とはそういうものじゃ。ただ生き残るだけで勝利する事もある。ただ生き残ったところで敗北する事はある。
真の勝敗とは突きつけられた現実を見た自身でしか下せぬもの。今儂は儂の襲撃を耐えきったそなたらに敗北したと感じておる。逆に……そなたらは勝利と感じること無く戸惑っておる。
当然逆もあろう。敗北を認めずになお足掻く場合もある。勝利を認めて歓喜する場合もある。
そなたらが勝利だと考えず、現実を敗北だというのなら……この場は痛み分けといったところかの?』
勝敗という点で、大切なことのように持論を声にする大百足。
人間を襲う怪物であるはずが、そこには一つの矜持があった。
圧倒的な強さと巨体を持っているにも関わらず、まるで勝利と敗北、どちらも体の芯まで味わったことがあるかのようなこだわり。
強者であるがゆえの余裕を見せながらも、この場で敗北宣言は決して驕っているわけではなく、自身のそのこだわりによるものだと感じさせる。
『報酬に、答えてやろう。そこの男児。何故ミレルを襲うかじゃったな?』
「意外だな、答えてくれるのか?」
『そのくらいは褒美として語ってやろう』
大百足はアルムを見下ろす。
アルムは大百足を見上げる。
その醜悪で怪物めいた頭部に正面から見られてなおアルムは下がらない。
自身を敗者と語ってなお大百足の態度はこの場の支配者そのものだった。
『特に縁があったわけではない。儂の悲願を果たす為、巨大な霊脈と健やかに暮らす人々が多かったここが最適じゃったというだけじゃよ』
「そうか」
大百足の答えにアルムは短く答える。
『最初に十数人、白い女子との戦いのどさくさに数人食わせてもらったが……ここの人間は美味じゃ。儂の美しさにも磨きがかかるというもの』
「……そうか」
『そなたらにとっては今の儂でも充分な脅威かもしれぬが、未だ元の姿には程遠い……。
足りぬ魔力は霊脈から奪えばよいが、それだけでは儂は儂たりえない。人間の悲鳴と助けを乞う声が飛び交う中、蹂躙し、殺し、喰ってこそ……儂は儂であれるのじゃ』
「……元の姿とやらに戻るのが目的なのか?」
『正確には違う。儂が元の姿に戻るのはあくまで通過点。真の目的は……』
そこで大百足の言葉は不自然に途切れる。
一瞬、その瞳はアルムから逸れ、天に向いていた気がした。
『いや……これを語るのは贅沢じゃな。意味もない。そなたら人間の命の先に我が悲願はある。なれば、そなたらのやるべき事は二つ……儂に立ち向かってその命を散らすか、誰かに助けを乞うかだけ。それは儂の前では例え神であっても同じである』
「そうか」
大百足の意思を聞いて尚、短く、淡白な返事をするアルム。
その表情は特に曇ってもいなければ、怒りに満ちているわけでもない。
この場を支配していながら自身のこだわりに従い、敗北を語る姿勢。
魔法というにはあまりに自己を感じる言葉の羅列。
間違いなく、この大百足には人とは違う意思があるのだとアルムは確信する。
だからといってこの大百足に友愛を感じることは無い。
この怪物はどうしようもなく人間の敵。
大百足の語る言葉は人間に明確な敵意を持っているという証明でもあった。
『満足か?』
「もう一つ。敗北を認めると言ったがミレルから引いてくれるという事か?」
『今回は、と言ったであろう? 逃げた餌共を今追いかけないのはそなたらへの報酬と……儂が優先すべきは餌ではないから追いかけぬというだけじゃ。
儂が乗っ取っているこのヤコウの妹……何と言ったか、まぁ、よい。あの白い女子も今は見逃すとしよう。
この場で敗北したからと言ってそなたらに従う理由があるわけでは無い。それに、悲願があると言ったであろう? 儂がこの町から消えるのは儂の命を奪い、そなたらが勝ち鬨を上げる時じゃ』
出来ればだがの、と意地の悪い声を残して大百足はアルムへの問いへの答えを終える。
アルムも本気でミレルから引くとは思っていなかったようで、なるほど、と小さく呟いた。
何に納得したのかはアルムにしかわからない。
「乗っ取ってるだって……?」
「どういう事……?」
事情の知らないルクスとエルミラが疑問を声にする。
ヴァンですら言葉の意味を計りかねて目を細めた。
大百足が宙に浮く三人に目を向ける。
にやりと、人間の表情であればその頭部は笑っていたような気がした。
『そのままの意味じゃよ、鳴神の男児と女子。そなたらと会った時はまだこの姿では無かったからの』
「まさか……あの時の大百足が本体だっていうの……?」
『そうじゃ。あのヤコウという男は魔法であった儂にとってただの巣に過ぎぬ。今こうして存在するこの姿こそが儂の姿。長きに渡ってあの魔法使いとして振舞っていたが……この地に着いた時点でその必要はもう無くなったからの。
こうして美しい姿をそなたらにも見せてやっているというわけじゃ、感謝せよ』
信じられないとエルミラは口を抑える。
魔法が魔法使いを乗っ取るなどという話は聞いたことがない。
それもそのはず。
この場でそんな事が起こると知っていた者など誰もいない。
だが、ヤコウの時とは違う大百足から発せられる女性のような声が事実だと受け入れさせた。
「なら、魔法の癖に命とやらを語ってたのか……唱えれば出てくるような存在が随分ご高説をたれてたもんだ」
ヴァンは長年の常識を覆されたような事実を知ってなお動揺することなく大百足を挑発する。
むしろその得体の知れなさの正体を知って吹っ切れたのか最初に遭遇した時よりもその姿は堂々としていた。
煙草があれば悠々と吸い始めていたかもしれない。
『ああ、そうじゃな……儂が本当にただの魔法だったとすれば……そなたの言うように命を語るのは滑稽かもしれぬな?』
だが、大百足はその挑発が案に的外れであるというようにヴァンの言葉に答える。
その声に怒りはない。
むしろ的外れの挑発をしたヴァンを哀れんでいるようだった。
「何だ? 自分は自我を持ったから違うっていうのか?」
『……かつて、山を七巻きする怪物がいた』
「あ?」
突如、昔話のように切り出す大百足にヴァンは少し苛立つ。
アルム達も何を話し始めたのかと、大百足の声に耳を傾けた。
『その怪物は近隣の湖に住む龍神の一族すらも食らい、その地に君臨していた。山に住む生き物は全て食われ、近隣の村は全てその怪物の餌食となった』
「何の……話だ?」
『ある時、龍神の一族であった娘がとある英傑に助力を乞うた。その英傑は娘の声を聞き入れ、その怪物を退治する事を請け負ったという』
ヴァンの背中に悪寒が走る。
こいつは何を言っているのか。
ヴァンは現役の魔法使い。自立した魔法を相手し、破壊する機会などいくらでもある。
だが何故か、大百足がその昔話を語る姿はどうしようもなく今までの経験の外にあると感じさせる。
もしや……この怪物は自分が考えているよりも遥かに異質な存在ではないのかと――!
『その英傑は怪物のいる山へと赴いた。英傑の放つ三本の矢によってその怪物は退治され、後世に語り継がれる伝説となったという……そなたらの知らぬ異界の話じゃ。よくできた英雄譚であろう?』
それはよく出来た昔話。
虚構のはずの英雄譚。
それどころか、この地に存在しない御伽噺。
遠い、あまりにも遠すぎる物語の一端だった。
『ああ、あの矢は痛かった……千年経とうとも――あの痛みは忘れることはない』
記憶から実感の籠った大百足の声。
アルムは胸に入れているミスティから借りた本につい手を当てる。
虚構のはずのその物語を語る姿がまるで――自分の事を語っているようだったから。
『ただの魔法? 命を知らない? 忘れることなき死の記憶を持ってその言葉を否定しよう。
儂こそはかつて一国を、そして神すら震え上がらせた"大百足"。
祭壇を築き火を灯せ、恐怖に震えて言祝ぐがいい。そなたらの知らぬ異界の怪異……天に近き者の新生を!!』
アルム達の目の前にいるのは敗北を味わい、再び命を支配する為にこの地に現れた異形。
魔法となって蘇ったかつての生命。
人を襲い、神を食らう、紛れもない怪物だった。
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