101.ミレルの誇り
『愚かじゃが、嫌いではない』
大百足の声には蔑みがあった。
シラツユの時とはまた別の含みを込めている。
『じゃが、追い詰められてなお……その虚勢を保てるか?』
大百足は再び、ラーディスに曳航肢で攻撃を仕掛けた。
曳航肢とは、百足の一番後方の体節に生えるもので、触覚を真似て振り回し、頭部をわかりにくくさせる偽装のようなものだ。
しかし、それはただの百足の話。
ラーディスが対峙しているのは二百メートルはあるであろう大百足。しかもそれはとぐろを巻いた状態での大きさだ。全長で数えれば二百メートルなど優に超えているだろう。この大きさでそんなものを振るわれればそれだけで脅威となる。
実際にラーディスの視界に映るのは向かってくる巨大な針。
研ぎ澄まされた鋼のように切っ先は光り、ラーディスを狙っている。
直撃すれば人間の体などいとも簡単に貫き、肉塊に変えるだろう。
「『流動の水面』!」
ラーディスは自分の体に強化をかける。
水のような魔力がラーディスを覆い、その効果でラーディスは横に勢いよく跳んだ。
輝くミレル湖の水を纏ったような青の魔力光が闇に輝く。
『鈍い』
その瞬間、針だった曳航肢が鞭へと変わった。
声一つで刺突を行ったはずのそれはラーディスという石ころを捉える。
「あが……!」
鋼との激突にラーディスから声が漏れ、ゴッ、と重い音と共にラーディスは地面に叩きつけられた。
「ぼ、坊ちゃん……」
「あ……うあ……!」
「ひっ……うわあああああああ!」
その光景が避難する住人の心にさらに恐怖をもたらす。
無茶なのは体躯の差を見れば明らか。
それでも魔法を使えるという一点だけでも貴族は平民よりも力のある存在である。
ラーディスが子供扱いされている事は今の一撃だけでわかってしまった。
シラツユの敗北だけでもミレルの人々にとっては恐ろしい光景だったが、自分達を守ってくれる領主、その息子がやられる様を目の当たりするのは絶望的といっていい。
この場にいて魔法が使える最後の砦、そしていずれこの地を治め、自分達を守ってくれる領主の息子。
その人が今殺されようとしているのだ。
足が止まる者、逆に足が動く者。反応は別れるが、はっきりしているのは
「げほ、ごほ……! いやいや……思ったよりも大したことが無くて助かるといったところか」
『ほう?』
「だが、服が、汚れてしまったな。せっかく祭りの為にと……着てきたのに」
地面に転がったラーディスはすぐに立ち上がった。
その場で服につく砂埃を払う余裕を見せるが、強化の魔法は衝撃で消えていて余裕を見せた発言を口にする声はたどたどしい。足は震えていて何とか立っているという状態。
大百足は鬼胎属性の魔力を持ち、人の恐怖に特に敏感だ。
ラーディスの状態を察知していないはずも無く、やせ我慢であるという事はばれている。
『早く血統魔法とやらを使ったほうがいいのではないか? そなたが普通に魔法を唱えても儂相手にはどうしようもできまい?』
「いや、逆だ。血統魔法など使う必要もないな」
『そうか。では』
もう一度、大百足は鞭を振るう。
そんな強がりでは自分の一部ですら攻略できないと避難する人々に見せつけるように二本の曳航肢だけを動かし、ラーディスの相手をする。
「『煌く水泡』!」
振るわれた鞭に対してラーディスが放つのは人間大の大きさの五つの水泡。
見る者が見れば滑稽だと笑うだろうか。
だが、ラーディスは本気でこの魔法を選択している。
五つの水泡はラーディスの盾になるように並んで連なった。
『ほう?』
そして振るわれた鞭は予想外にも五つの泡が滑らした事で軌道を変わる。
五つの泡は破壊されたが、盾としての役目はしっかりと果たした事でラーディスの魔法の選択が間違っていなかった事を証明している。
大百足もまた感心するような声を上げた。
軌道の変わった二本の鞭は勢いのまま空を切る。
「『流水の弩砲』!」
攻撃をかわした事によって生まれた時間でラーディスが反撃に移る。
水属性の中位魔法。
ラーディスの頭上に現れた巨大な水の矢は手の動きに合わせて大百足の頭部へと放たれた。
『ふむ、今のは少し驚いたぞ』
大百足の頭部にその矢は命中した。
だが、大百足の頭部を少し動かした程度で大百足がその魔法を気にする様子は無い。
トラペル家は歴史が浅く、魔法に関しては普通かそれ以下と評される家だ。
代々魔法使いとなる家の歴史は血統魔法の成立から数える。
血統魔法は魔法使いの戦いにおける切り札。
血統魔法の無い家はただ魔法が使えるだけの貴族であり、魔法使いとは呼べないとされるほどに重要視される要素だ。
トラペル家の血統魔法が成立したのはたった二百年前。魔法使いの家としては新しい。
魔法の練度が高いわけでもなく、ラーディスはたったの四代目。
未だ発展途上の家であり、現状飛び抜けた魔法の才はラーディスには無い。戦闘の能力でいえばシラツユのほうが高いだろう。
そんなラーディスの放つ魔法が大百足に通じるわけもない。
そして、切り札である血統魔法を使わないのにもとある理由があった。
「おが!」
ラーディスが再び地面に叩きつけられる。
自分を驚かせた褒美とでもいいたげにさっきよりも軽く、撫でるように鞭は振るわれたが強化のかかっていない体ではそれをかわすことすらできない。
「まだまだ! 全、然だ! 『強化』!」
ラーディスは立ち上がる。
足の震えはもう恐怖ではなく、体へのダメージから。
ラーディスは無属性魔法の強化を使って再び大百足の攻撃をかわし始める。
「ラーディス……さん……」
ラーディスの応戦によって未だ命の残るシラツユ。
だが、その目はラーディスが傷つけられる姿をただ見るだけとなってしまっている。
ラーディスが勢いよく名乗り出たのは自分を殺させない為だというのはシラツユもわかっている。
こんな自分を助ける為だとわかっていてなお、シラツユは立ち上がれなかった。
骨折や外傷はあるが、自分の家の実験によっていじられているこの体に痛みは無い。
闘志は折られ、もうシラツユには魔法を作る気すら起きなかった。
「……う……!」
それでもシラツユは何かを求めるように体を動かした。
大百足にもう魔法は向けられない。
向ける気すら起きない。
『ほれ、もういいじゃろ』
「ぐ……ああああ!」
それでも、ラーディスのやられる様を見てシラツユは地面を這い始めた。
ラーディスが地面に叩きつけられるのは今では三度目。
振るわれた曳航肢をラーディスはかわしきれず、鞭は左腕を捉え、地面と挟むように叩きつけられる。
大百足にとっては軽く振るっただけでも、人間にとっては充分な威力。
「ふっ……ふっ……!」
ラーディスは左腕をぶらんと力無くぶらさげながら立ち上がる。荒い呼吸は痛みを誤魔化す為か。
なおもラーディスの足は逃亡を選択しない。
『……食われたいのか?』
「そんなわけ……あるか……」
『そんな姿にしている儂が言うのもなんじゃが……足がある内に逃げ出した方が賢明だと思うが?』
「いやぁ、それだけは……できないな」
『何故じゃ?』
大百足の問い。
それはただの気まぐれか。
ラーディスは答える。
「俺が、この地を治めるトラペル家の人間だからだ……!」
ラーディスは大百足を睨む。
「ここはトラペル家が治める土地だ……この土地をお前は荒らそうとしている! なら俺はお前に立ち向かわないといけない……!」
ラーディスの眼は恐怖を抱きながらも決してその戦意を無くしていない。
その姿が地を這うシラツユには少し眩しかった。
『貴族としての使命感と言いたいのか?』
「ああ、そうだ! ここは父と民が作った土地だ! 例え歴史が浅くても、運が良かったと言われようとも! ここは父と民が作ったこれが俺達だと胸を張れる場所だ!
貴族と平民が手を取り合って作った場所だ! 貴族と平民、例え力や立場が違っても信頼で成り立つことを証明している土地なんだ!!
だから民より先に俺がここで退くことだけはできない! 他の貴族は知らない。力ある者が生き残るべきだと思う者もいるだろう……だが、トラペル家に生まれた俺だけはやってはいけない!
ここで逃げるという事は民を守る信頼を裏切ることだ! 俺は貴族だ! 民を守る者だからだ!
民無くして今のトラペル家は無い……互いが互いを救う恩人であり続ける為にも、ここで俺だけは退いてはいけない! 俺だけはお前に負けたと白旗を上げるわけにはいかない!!」
これがラーディスが血統魔法を使わなかった理由の一つ。
この土地の人間は今の領主であるダルキアとの開拓時にトラペル家の血統魔法を見ている。
貴族と平民の距離が近いがゆえに、血統魔法が魔法使いの切り札であるという事も知っている。
それが破壊されるという事はすなわち完全な敗北。
だからこそ使えない。
負けるとわかっている戦いで民の心が折れるかもしれないきっかけを作るわけにはいかない。
ラーディスは何を優先すべきかがわかっている。
今優先すべきは民の避難。
ほんの少しでも希望があれば、足が一歩動くかもしれない。
まだうちの坊ちゃんは切り札を使ってないんだぞと、仮初の期待を抱いてその足が恐怖に囚われなくなるのなら……それはきっと自分のやるべき事なのだとラーディスは確信していた。
「聞け化け物! そして羨め! 俺の名はラーディス・トラペル!
このマナリルで最も善き民を統べ! 最も美しい土地を継ぐ果報者だ!」
震える足でラーディスは吠える。
誇りだけで恐怖を制して前に立つ。
民が逃げる時間を一秒でも稼ぐ為に。
無駄だと囁く恐怖を捻じ伏せ、異界の呪いに立ち向かう。
大百足からすれば負け犬の遠吠えかもしれない。
だが、間違いなく聞いている民にとっては次代の領主の声だった。
『これは驚いた……この国では骸が土地を治められるのだな』
大百足から発せられる実質の処刑宣告。
遊びは終わりだと大百足はその体節を動かし始めた。
無数の赤黒い足一本一本が人を処刑できる断頭台。
曳航肢だけに苦戦していたラーディスにこれ以上の手数をどうこうできる魔法など無い。
そして何より体が動かない。
強化を使わずに受けてしまった二撃目がラーディスの体に多大なダメージを与えていた。
足の震えは力が入らず、膝を折る姿だけは見せまいと無理に立っているだけに過ぎない。
自分が死ねば、ぎりぎりで保ってるであろう民の心は不安と恐怖で一気に崩れるだろう。そうすれば避難どころではなくなる。
血統魔法を使えば数秒は延命できるだろう。ついに血統魔法の使い時かとラーディスは魔力を充填し始める。
『さらばじゃ。最後まで鳴き声が変わらぬ者よ』
だが、それすら遅い。
変換は先人の力を借りることで短縮される血統魔法だが、ラーディスの充填が間に合わない。
大百足の後ろにある体節が動物の尾のようにしなり、ラーディスへと振り下ろされる。
「ラーディスさん!」
ラーディスの名前を呼ぶシラツユの声は轟音によって無情にもかき消された。
地響きが湖畔に響く。
この場にいた最後の希望が潰れる瞬間。
それは大百足との戦いの余波と地形の変わった丘でたどたどしく避難していた女性と子供がようやく湖畔から避難できた瞬間でもあった。
自分達を守ってくれていた領主の息子が死んだと避難しきれていない民達がパニックになりかける。
「おい、あれ……!」
視線が集まり、ラーディスの死を脳が理解し始めようというその時。
男がラーディスのいた場所とは全く違うほうを指差した。
ミレルの住民の視線がその声に釣られてそちらを向く。
『ふむ……この町の祭りを魔法使いは敬遠するという話じゃったが……』
同じくして、大百足の木の幹のような触角が動く。
ぎょろりと大百足の眼は触覚の動いたほうを向いた。
その視線の先には――
「おいこの抱え方はやめろ……!」
何者かに体を横に抱えられたラーディスの姿。
自身が叩き潰すよりも速くラーディスを救出した者がいることを大百足の触覚は捉えていた。
「坊ちゃんだ!」
「坊ちゃん! 生きてる生きてるぞ!」
歓喜を上げる住民達。
恐怖と不安はラーディスが生きていた事への安堵へ変わる。
『その服……見覚えがあるのう?』
大百足にとっても見覚えのある格好はベラルタ魔法学院の制服。
その制服を纏った男は怪訝な顔で大百足を見ていた。
「何だあれ。百足か……?」
間の抜けた疑問を口にするその男の名はアルム。
異変を感じて宿を飛び出した男は今ミレル湖に到着した。
誤字報告してくださる方ありがとうございます。助かります。
ようやく主人公の到着ですね。