100.敗北の心
『完全にあの龍とリンクしているわけでもないのか、そなたは魔法も中途半端のようじゃな?』
全身から血を流し、地面に放り出されたシラツユの体。
白い龍の姿はもう無い。
真の姿を見せた大百足の前にその体は切り刻まれ、残っているのは切り刻まれた際に変わった地形のみ。
シラツユの切り札でもあった白い龍は魔力の残滓すら残さず消滅していた。
今場にあるのはミレル湖から放たれる魔力と大百足の鬼胎属性の魔力のみ。
シラツユと白い龍によってかろうじて影響が出ていなかった湖畔に再び恐怖が充満する。
「急げ急げ!」
「押すな! 押すなぁ!」
「女子供が先! 先だ!!」
湖畔から避難できたミレルの人々は半分にも至っていない。
シラツユが戦っている間はスムーズだった避難もシラツユの敗北によって再びパニックが訪れる。
希望を奪われた人間が我先にと動く光景を大百足はその瞳で見つめていた。
黒く濡れている宝石のような球体がこちらを向いて悲鳴を上げる人々全てを捉えている。
『見えるか? あれがそなたが守ろうとした人々じゃ』
大百足が話しかけたのは地面に伏すシラツユ。
生きているのはわかる。
大百足の触覚は命を捉えている。
例え、死んだふりをしたとしても、そんな悪あがきはこの大百足の前では通用しない。
「……」
シラツユの視界に入るミレルの人々。
そのほとんどが恐怖に駆られて動いている。
『いや、守る気など無いとそなたは言うかもしれぬが……断言しよう、そなたは守ろうとしておったよ。そうじゃろう? 本当にそなたの目的が兄を儂から解放しようというだけだったのなら……白い龍とともに儂を攻撃し続ければよかったのじゃからな』
脳に響くような大百足の声。
人間であるヤコウの声はもう無い。
人間であったはずの体はとうに大百足の中。
喋り方が同じなだけの女の声が湖畔を支配している。
『それとも、兄はどうでもよかったか?』
ぴくり、とシラツユの体が動いた。
それだけは聞き捨てならないと体が無意識に反応したのかもしれない。
『考えてみればそなたはこの馬鹿……ああ、今は儂の中でそなたらには見えぬか……まぁ、よい』
心底どうでもよさそうに大百足は呟く。
その呟きは巨大な姿とは裏腹に、細かな視点を持っているかのようだった。
『ヤコウの妹だとは名乗ったが、助けに来たとは言っておらんかったからな。
ああ、ああ、そうじゃな。儂の勘違いだったかもしれぬ。妹だと名乗るものだからヤコウを救いに来たのかと思えばそうではなかったのかもしれぬな。だとすればそなたの行動も納得がいくというもの』
大百足の言葉にシラツユの心が起き上がる。
力の無かった体が僅かに動く。
負傷した体とは反対に、魔力は許容量以上。
体さえ動けばまだ反撃することができる。
そんなことはない、と。
自分は兄を助けるために来たのだと――
『気分がよかったか? 儂の前に躍り出た時は』
いいわけがない。
『気分がよかったか? 儂の餌を守った時は』
いいわけがない。
『気分がよかったか? 儂の餌を背に自分が戦っている時は』
いい、わけがない……。
『気分がよかったか? 兄の為にと奮闘する振りをした自分は?』
いいわけがないのに――こいつの言葉を否定できない――!
シラツユの瞳に涙が溜まっていく。
そう、本当に人々を見捨てたというのなら。
本当に兄を助けたいと思うのなら。
この大百足の言う通りにするべきだったのだと思う自分自身がシラツユの中にいた。
ミレルの住人を見捨てて大百足の存在を黙っていたのに、戦い始めてからは何故ミレルの住人を見捨てなかったのかと、問われて答えられない自分がいる。
だから、言い返せない。
いいわけがない、そう胸を張って言える自分がどこにもいない。
「ふっ……ぐ……う……うう……!」
こらえきれない涙が落ちていく。
覚悟を決めたつもりになって中途半端な事しかしていない自分に気付いてしまった。
自分は何の為に避難する人達の前で名乗り出たのだろう。
何の為に、こいつを倒す為に使うはずの白い龍を住人の盾にしたのだろう。
自分でもわからない。
わかるのは、それは決して兄を助けたいが為の行動では無かったということ。
『そなたは兄を捨てたんじゃよ。自分が何かを救えるのだと勘違いしてな』
そして――この大百足の言葉を、否定できないこと。
シラツユの体は白い龍が引き裂かれた際に出来た傷によってボロボロだが、完全に動かないわけではない。魔力に至っては戦う前よりも満ちている。
魔法使いならば体を強化すればまだ戦えるかもしれない。
だが、その心に闘志はもう無かった。
シラツユの心は大百足に突きつけられた言葉によってずたずたに引き裂かれている。
魔法使いの精神力は魔法の構築に影響を及ぼす。
もう大百足に攻撃しようという気はシラツユにはもう無い。
あったとしても、その魔法の威力は子供にも劣るだろう。
『次に生まれる時は、そんな者はほんの一握りの英傑しかおらんと学んでから生まれるのじゃな』
大百足の話はそこで終わった。
死ぬ前に突きつけられた自分の愚かさ。
歯の隙間から声は漏れ、両目からは涙がとめどなく流れていく。
シラツユにはもうその涙が悔し涙なのかすらもわからない。
これ以上の言葉は不要と、大百足は頭部をシラツユへと近付けた。
「『流水の渦』!」
そんな大百足に横やりが入る。
渦巻く水は大百足の足のサイズにも満たず、放たれたその魔法は大百足の眼に当たった。
今の大百足からすれば少し勢いのある目薬程度にしかならない。
だがそれでも大百足は動きを止める。
一度はシラツユに近づいた大百足の頭部はその横槍によって地面から遠ざかった。
「誰かを忘れていないか? まだ俺がいるぞ!」
「ラー……ディ、ス……さん……」
魔法の主はラーディス。
ミレルの住人を守る為、今まで戦いに参加していなかったラーディスはこのタイミングで声を上げた。
大百足の巨体を見上げながらも、堂々と立っている。
いつの間に移動したのか、すでに避難してる住民からは距離をとっていた。
とはいえ、大百足はすでに二百メートルを超す巨体。
その気になればラーディスなど無視して避難する住民に襲い掛かれる大きさだ。
『今度はそなたが戦うか?』
「ああ、その通りだ!」
大百足の声に魔法を向けられた事への不快さは無い。
むしろその声には少しの喜びが含まれているように聞こえた。
人間の表情が残っていればにやりと笑うような。
そんな声だった。
「坊ちゃん! 無茶だ!」
「逃げろ! 逃げてくれ坊ちゃん!」
「こっちだでけえの! 俺が、俺が……!」
ラーディスの無謀に一部の住民も気付く。
すでに避難の列から遠く離れたラーディスに逃げるように言うが、ラーディスは動く様子が無い。
気を散らそうとしかける声もあるが、ラーディスのような勢いはない。
「我が名はラーディス・トラペル! この地の領主であるダルキア・トラペル家の息子だ!」
『ふむ、威勢はよくて何より。儂を見て逃げようとは思わなかったのか?』
「思ったさ。今にも逃げ出したい」
『そうか』
短く返し、大百足が動く。
その巨体にも関わらず、器用に体節を動かし、一番後ろの体節に生える尻尾のような曳航肢を針のようにラーディスのいる部分に突き刺した。
いや、正確にはラーディスが立つすぐ横。
地面を抉るような跡がそこにはあった。
直撃せずとも、近くにいればそれだけで衝撃が襲ったかもしれない。
ラーディスは後ろに飛び退いてその衝撃から逃れていた。
『もう一度問おう。逃げようとは思わなかったか?』
現役の魔法使いであっても裸足で逃げ出す状況。
地面を抉るほどの威力を出したその針は大百足の切り札などではない。
その気になれば体節から生えている無数の足でいくらでもこの結果を作り出せる。
例え逃げ出したとしても誰も責めない。
領主の息子だからといって責任など求めるはずがない。
敵は二百メートルの大百足。
こんなものは災害で、災害を止めろなどと無茶を言うものはいない。
「いいや、今のでならなくなったな!」
『……そうか。それはまこと……愚かじゃのう』
それでもこの男は立ち塞がる。
それは大百足にとって石ころかもしれない。
石ころは足を震えながら精一杯の強がりを言った。
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昨日更新できなかったので今日はもう一本更新します!