99.解放
「ふむ……じゃが、儂らに適合せぬものをどうこうする余裕は無かったはず……という事は……」
ヤコウは品定めするように牢のなかのシラツユを見つめる。
シラツユは幻視を振り払い、牢を爪と尻尾で切り裂いた。
腕に炎が纏わりつく映像が瞳に焼き付く。
だが、そんな事実はない。
これはただ人の恐怖を煽る悪趣味な幻影だ。
牢から解放されたシラツユの腕には火で焼かれた跡など無く、ただ白い龍が傷つけられた時に出来た傷痕が残っているだけ。
「そなたの一族は随分生き汚かったようじゃな?」
シラツユの家――コクナ家の血統魔法の本質は、受け継ぐ子そのものを神子に変えること。
それは、はい、と杖を振って変わるような生易しいものではない。
現実に生きる生き物の体を変質させる異質な所業。
それは魔法の変換のように体に現れる。
形を、性質を生きながら書き換えられる苦痛。
骨は砕けた後に形を作り、喉は焼かれながら声が魔法へと、人だった肉をぐちゃぐちゃにかき混ぜられながら神子へと変化していく。
マナリルでは数百年前に禁じられている非人間的な魔法形態。
そんな魔法を常世ノ国は数年前まで残し続けていた。
ただ木の葉を落とすだけだった声を、力ある魔法へと昇華する為に。
そしてコクナ家はその苦痛すらも丁度いいと家の力の為に取り込んだ。
常世ノ国で行われていた苦痛を魔力に変える体質を持つ人間の誕生実験。
元は小国である常世ノ国が死ぬまで戦える魔法使いを作る実験の副産物。
その副産物によって、コクナ家は苦痛を魔力に変化させる子供の誕生に成功した。
それこそが、このシラツユ・コクナ。
人を人とも思わぬ魔法使いの家の完成品。
滅ぶべくして滅び、今は跡形も無い愚かな家の末裔である。
「だからそれを……あんたが言うな!」
シラツユの体がヤコウ向けて弾ける。
地面に出来る三本のえぐれた跡。
両足と尻尾によって行われる真横への跳躍は白い軌跡を闇に残した。
ヤコウまでの距離は数メートル。
数秒もかからずに到達する距離。
狙うは胸部。
そこを貫いたとして兄を救える確信はシラツユには無い。
しかし、自分に植え付けられた魔法の核もまた胸部にある。ならば可能性は高い。
そして――例えその命を奪ってでも、シラツユはヤコウの解放を望んでいた。
「ほう、殺す覚悟ができているのか?」
ヤコウはそれを避けようともしない。
ただ棒立ちでシラツユの突進を待っている。
「舐めるな――!」
三本の爪はヤコウへと突き刺さる。
「ふむ、魔力が上がることで膂力が上がるのか……強化のようなものかの」
だが、三本の爪は胸に届かない。
ヤコウはただその腕を前に出し、その爪を受け止める。
白い服はその余波で破れ、隠れていた腕が露出した。
その腕はシラツユが纏っている白い鱗のように黒い甲殻が纏っており、その甲殻が魔力の爪を受け止めている。
「傷つくと魔力が上がるのか?」
「――!」
その声色には敵意すら無い。
ただ興味があるからと言いたげにヤコウはシラツユを観察する。
「気持ちが悪い……!」
腕を弾き、シラツユは爪を振るう。
爪を横に薙ぎ、尻尾で不規則な攻撃の軌道を作りながらヤコウを押していく。
「その爪では一生儂の甲殻は貫けぬよ」
「黙れ――!」
「そう邪険にするでない。そうじゃな、儂は寛大じゃ……手伝ってやろう」
瞬間、
「な……!」
シラツユの至る所から出血が始まる。
頬、腕、胸、右足から徐々に赤い液体が流れ始める。
「そんな――!」
シラツユは肩越しに背後を見る。
大百足と戦っていた白い龍。
戦闘を始めた時点ではほとんど互角だったはずの形勢は逆転していた。
避難するミレルの住人の盾になるように動く白い龍。
大きな動きをすることもできず、ただ頭部を振り回す大百足の猛攻を受け続けている。
その白い鱗によってある程度の攻撃は防いでいるが、大百足の頭部にある顎肢は徐々に白い龍の部位を噛みちぎってた。
「ほれ今なら儂を貫けるかもしれんぞ?」
「この下種……!」
「なら……見捨てればよかろう?」
住民を守っているのは白い龍の意志によるもの。
それでも、一応使い手であるシラツユが一声命令すれば白い龍は住民を見捨てて攻撃に転ずるだろう。
「――」
傷とともにシラツユの魔力は上昇していく。
だが、自分の体にみなぎる魔力とは裏腹に決断しきれない甘さがシラツユには残っていた。
ここまで色々なものを犠牲にした。
嘘を吐いてここまで到着し、この町に大百足が襲ってくる事も黙って見過ごしてきた。
"また見捨てるの?"
心が囁く。
兄の為に、そう言い聞かせてここまで来たのに。
今更迷っていいはずが無いというのに。
今更――兄以外の誰かを救いたいなんて、甘い考えを持つ資格などないというのに――!
「くく……どっちなんじゃ、そなたは」
笑い声混じりに、ヤコウはシラツユの腹部を蹴り上げた。
岩にすら蹴り跡をつけそうなその一撃でシラツユの体が宙に放り出される。
「か……!」
内臓と、ばきっ、と折れた骨へのダメージ。
ここまでされて、シラツユの体に痛みは無い。
危険を知らせる信号を無視して脳内で生まれる快楽物質。
そこから体内へと巡る多量の魔力。
衝撃で一瞬呼気こそ止まるも、シラツユの体はすぐさま体勢を立て直す。
本来脆い少女であるはずのシラツユは体から発せられる異音を無視して戦闘を続行する。
「馬鹿にしてるのか――お前は!」
シラツユは怒りと後悔で拳を握る。
その力が弱まっていることには気づくが、それでも再び肉薄する為にシラツユはヤコウへと飛び掛かる。
「いやいや、誤解させてしまったか? 別に馬鹿にしておるわけではない」
しかし、それがヤコウへと届くことはない。
ぞろぞろぞろぞろぞろ。
ヤコウを取り囲むように移動する体節。
ミレルの住民の盾となっていた白い龍を叩き伏せ、使い手の元に大百足が帰還する。
「"私は見える"」
ヤコウまでの道を阻まれたシラツユは再び、魔法の声で発音した。
魔法の使い手であるシラツユには白い龍がただ破壊されていない事がわかっている。
叩き伏せられても沈黙する事はありえない。
ならば、自分がやるべきことは憎き敵を目視する事。
闇と黒い甲殻に隠れたヤコウの本体。
宙に跳んだシラツユの瞳は無数の足の間に見える本体をしっかりと映している。
白い龍が大百足を再び抑えたその瞬間、今度こそ迷いがないようにとシラツユはその爪を振りかぶった。
「そなたは儂に怒りを向けるが……儂はそなたのような者は嫌いではない」
シラツユを逆撫でする声。
叩き伏せられた白い龍も大百足が住民の近くから離れた瞬間、息を吹き返したように突風のように飛び上がる。
シラツユの後方から大百足に迫る白い龍はその牙を剥き出しにした。
白い龍は宙を流れて大百足の頭部目掛けて。
大百足は一人と一匹を捉えた触覚をぶんぶんと振り回し、地面をえぐっていく。
白い龍と大百足が動く度にただの丘だった地形が変わっていく。
それが魔法の怪物の戦い。
見るものが見ればこの地の終わりともとれる光景だ。
「さて、これでどうじゃ?」
「!!」
ヤコウの目までいやらしく笑う姿をシラツユは捉える。
背中に走る悪寒。
そいつはただ向かってくるシラツユと白い龍を見ながら、
「こうすれば人は死ぬであろう?」
自分の首に黒塗りの短刀を当てていた。
「待――!」
待て、とシラツユは言い切らなかった。
それでも白い龍は勢いを失い失速する。
躊躇ってはいけないと散々この戦いで理解したはずなのに。
自分はさっき兄を殺してでも解放すると望んだはずなのに――たった一手で、兄を失う覚悟など本当はできていないのだと、見せつけられて心が軋む。
「自分で殺すのはいいが、自死させるのは嫌か?
ああ、やはり――愚かで愛い奴じゃ」
闇の中、今まで見せた中で最も邪悪な笑みをそいつは浮かべた。
大百足が、動く。
飛び掛かったシラツユが失速して着地する途中、大百足はその頭部を動かした。
シラツユを攻撃する為?
自身と同じほどの大きさを持つ白い龍に再び襲い掛かる為?
違う。
大百足の頭部が、口が捉えたのは、使い手であるヤコウ本人だった。
「なに……を……?」
その光景にシラツユは呆気にとられる。
何が起きているのかわからない。
救わんとする兄が今、大百足の口の中に消えた。
真意がわからない。
兄が死ねばそれはそれで終わりなのだ。ただこちらの目的を潰す為かとシラツユは立ち尽くす。
『生き物とは生き汚くあるべきじゃ。そういう意味ではそなたも儂と同じよのう?』
先程までと同じ口調。
だが、その声は男の声ではない。
脳に響くようなそれは女の声。
艶めかしく、そして毒々しい。
いや――
「何……それ……」
だが――
「そんな……知らない……」
それ以上の変化が、シラツユの目の前で起きている。
「そんなの知らない……!」
ミレル湖の輝きともう一つ。シラツユの目の前で黒い魔力が輝いていた。
シラツユはその光景を目の当たりにして地面に膝をつく。
軋む心に見せつけられた現実。
恐怖に勝てなかった。
見捨てる覚悟などできていなかった。
兄を解放する決意など口だけで。
今まで自分がやっていたのはお遊びで中途半端な旅路なのだと、全てを否定しながら大百足は真の姿を見せる――
「今までのは……手加減してたの……?」
黒い魔力光で輝きながら、その大百足はシラツユの前で変化を見せた。
めきめき、と音を立てながら体は膨らみ、目の前に現れたのは先程までとは比べ物にならない大きさの怪物。
今までの十倍以上の巨躯を持ってシラツユの前で蠢いている。
対峙する白い龍などもはや大百足にとっては玩具同然。
とぐろを巻いていた大百足は体を起こす。
その頭部も先程のようなただの百足ではなく、巨大な瞳と龍のような牙を携え、シラツユと白い龍を見下していた。
無数の足のどれか一つでも動かせば八つ裂きにされそうな、そんな絶望的な体躯の差。
『手加減……? そなた、小魚を捌くのにわざわざ剣を使うのか? 儂はただ単に用途に合った使い方をしていただけじゃよ。これはそうじゃな……生き汚くここまで辿り着いたそなたへの褒美のようなものじゃ』
つまり、自分は敵でもなんでもない、ただの魚以下だったのだ。
シラツユは悟って戦意を無くす。
何もできない。
どれだけの霊脈を喰えばこんな姿になるのかシラツユには想像もつかない。
自身に植え付けられた白い龍でさえ、この数年でガザスにある十の霊脈を食いつぶした。
ならこいつは、この虫は、一体どれだけの地を蹂躙してきたのだろう。
『窮屈な体に潜む必要ももう無さそうじゃからの。最後に拝ませてやったというわけじゃ。元の姿に至るまでもう少し……この巨大な霊脈ならば、儂の悲願を叶えられるじゃろうて』
「……」
『おやおや、嬉しくて声も出ないか。やはり……愛い奴よのう』
無数の赤黒い足が白い龍を蹂躙するのに、時間はかからなかった。
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