98.龍と百足
シラツユはヤコウと対峙しながら肩越しに後ろを確認する。
避難は始まったものの、そのペースは決して早いとは言えない。
だたでさえミレルは丘陵地帯。
この町で生活している人々とは言え、女性や子供の足で移動するには平地よりも時間がかかる。
普段ならともかく、すぐ横に大百足がいる状況だ。魔法であるという脅威に加え、その見た目に生理的な嫌悪を持つ者も多いだろう。
そんな怪物が明確な殺意を持って襲い掛かってきたのだ。その足は恐怖でさらに遅くなるに違いない。
"だから馬を……!"
目の前にいる兄の姿をした何かへの不快度がさらに増し、シラツユは表情をこわばらせる。
移動する為の足がある。
これだけでも住民の恐怖はましになっただろう。心強かったであろう。
それは理解しているからこそ、目の前の敵は馬を殺したのだ。
繋がれていた馬だけが殺され、馬車の荷台や乗客席だけが傷一つ無く残っている様はまさに空虚と言える。
さらにシラツユの懸念はもう一つ。
「仲間が近くにいるな……!」
「ほう、よくわかったの。安心せい、手出しはせぬよ。やつも巻き込まれたくはなかろうて」
一声一声がシラツユの苛立ちを加速させる。
馬がいた場所と、大百足が姿を現した場所は違う。ならば大百足の出現に合わせて殺した誰かがいるという事だ。
事前に殺そうとすれば異変に気付く者が現れるだろうが、大百足の出現時に馬を見ていたものなどいなかったに違いない。馬車を置く場所は決まっていた為、魔法使いなら簡単に遂行できる。
徹底的といっていい。
祭りというイベントを利用し、ミレル湖は完全に餌場へと作りかえられていた。
この状況で幸いなのはただ一つ。
領主の息子であり、本人も町の住人から慕われているラーディスがいた事だけ。
ラーディスがいなければ統率がとれず、住人はパニックのまま被害は拡大していたに違いない。
突如襲われたミレルの住民にとっては今こうして避難を始められているだけでもましと言える。
「勝手だ……私」
だからといってシラツユの心が軽くなっていいはずが無い……無いはずだが、内心で安堵する自分にシラツユは気付いてしまった。
兄を助けられる状況を作る為に、ミレルの住民を見捨てた事実は変わらない。
それでも、こうして少しでも状況が好転した事にほっとしたのだった。
罪悪感に蝕まれながらも、その心は少し、ほんの少しだけ軽くし、シラツユの動きを和らげる。
「"私は跳べる"」
魔法によって作られた尻尾でシラツユは高く飛び上がる。
シラツユのもう一つの魔法。
【言の葉の神子】によって魔法へと変わった言葉はシラツユに力を与えた。
「はああああ!」
闇に回る魔力光の軌跡。
シラツユは飛び上がった勢いで体を縦に回転させ、勢いのままその尻尾をヤコウへ叩きつけようと振り下ろす。
「『鬼気五髪』」
ヤコウが足で地を鳴らす。
呼応するように黒い髪の塊のような物体が地面から五つ生え、尻尾を振り下ろそうとするシラツユへと襲い掛かった。
「っ!」
五方向から襲い掛かる魔法相手でもシラツユは勢いを止めない。
絡みつく黒い魔力。
粘りつくように流れてくる感情の炎。
シラツユはそれら全てを意に介さず、鞭となった尻尾をヤコウへと振り下ろした。
「ふむ、やるのう」
「く……!」
ゴギイン、と鋼が何かを弾いた音がした。
ヤコウは特別な事は何もしていない。
ただその左手で尻尾を払っただけ。
ただそれだけで人間大の鞭となったシラツユをいとも簡単に弾き、湖畔に鈍い音を響かせた。
簡単な動きだが、響く音が叩きつけた尻尾の威力を物語る。そしてヤコウの左腕の異常な防御力も。
尻尾を払われたことでシラツユのバランスが空中で崩れるが、すぐに立て直す。
立て直しながら、襲ってくる魔力の髪を腕の白い爪で引き裂いていく。
「『狂水面屍人踊』」
シラツユが着地する瞬間、ヤコウは間髪入れずに次の魔法を唱える。
地面は水面へ。
水面には皮と骨だけの無数の亡者。
自分達と同じ場所に引きずり込まんとその手をシラツユに伸ばす。
「餓鬼のつもりか!!」
そんな亡者達の腕をシラツユは爪と尻尾で容赦なく払いのける。
皮と骨の見た目通り、その腕に強度などない。何度伸びてもシラツユの手足にその腕が絡みつく事は無かった。
"鬼胎属性"は恐怖によって現実への影響力が増幅する属性。
逆を返せば、恐怖しなければ威力が増幅することはない。
魔法による精神攻撃を覚悟すれば、それだけで魔法の効力を増幅させないように立ち回ることができるとシラツユは知っている。
「いやいや、そんな亡者で餓鬼などとは口が裂けても言えぬ」
だが、それ以上にこの使い手は知っている。
「『無食牢炎鬼』」
恐怖とは人と切っても切れぬものであることを。
「これは……!」
「こっちがそうじゃ、精々楽しめ」
シラツユを取り囲むように地面から現れる鉄の棒。
それは湖畔に現れた鉄の牢獄だった。
出現と同時に切り開こうとシラツユは三本の爪を拳のように突き出すが、
「ひっ……!」
檻に爪が触れた途端、その腕が炎に包まれる。
反射でシラツユはその腕を引いてしまった。
だが、腕に今見えた炎は引いた瞬間跡形もなくなっていた。
それも当然。ヤコウは火属性の使い手ではない。ゆえに炎など、出せるはずが無い。
魔法の知識が少しあればわかる変換の基本。
だが、咄嗟に見せられた炎がただの幻視だと一瞬で判断し、躊躇わずにいられるものがどこにいようか。
「八つ裂きとゆこう」
その躊躇いがさらなる隙を生む。
ヤコウの後方で動きを見せる大百足。白い龍と絡み合ったまま、牢のシラツユ向けてその後方の体節を振り下ろす。
体節に生える赤黒い足はさながら空気を裂く剣。
シラツユの体をばらばらにするには十分すぎる程の処刑道具だった。
「防いで!」
シラツユの声とともに体節は牢の直前で止まる。
体節に絡みつくは白龍の尾。
二匹の怪物の全長はほぼ同じ。大百足の体節が届くのなら、この白い龍の尾が届くのは道理である。
そして大百足の気がシラツユ本体に向かったその一瞬で、白龍の顎は刃のような赤黒い足の一本に食らいつく。
「引っこ抜け!」
シラツユの命令通り、そのまま引きちぎるようにして白い龍は顎を引く。
噛みつかれていた赤黒い足は白い龍によって引きちぎられ、大百足から血のような青い液体が噴き出す。
その瞬間、キチキチキチキチキチキチキチ、と耳障りな音が辺りに響いた。
音は大百足の顎肢から。
痛みによるものか。
それとも怒りによるものか。
仕切りに鳴らされたその音は威嚇音にも聞こえた。
「ならば、こうしよう」
ヤコウの声が嬉々と弾む。
闇夜に輝く怪光。
その正体は大百足の眼。
巨大な触覚は素早く動き、命を感知する。
耳障りな音を鳴らしていた頭部は避難するミレルの人々の列に襲い掛かる為、白い龍から離れて地を這い始めた。
無数の足が丘に突き刺さり、地形を変えていく。
「させない!!」
すぐさま白い龍が頭部を抑えつけようと飛び掛かる。
鋭い爪を持った前足が狙うは大百足の眼。
小さいが、甲殻に爪は通らない。
少しでもダメージになるであろう眼目掛けてその前足は動いた。
「まぁ、そうするじゃろうな」
その動きを察知していたかのように、大百足の頭部は軌道を変えて飛び掛かってきた白い龍に向けて動き出す。
無数の足と体節が生み出す不気味ながらも滑らかな軌道が丘を這う。
飛び掛かる白い龍の前足に合わせるように、大百足の頭部も前足向けて発条のように弾けた。
大百足の顎は白い龍の前足へと食らいつく。
「――っ!」
「互いに足を一本ずつじゃな、公平で何より」
ダメージを受けたのは魔法であるはずの白い龍。
しかし、まるでその龍と繋がっているかのように、牢の中にいるシラツユの右腕にも刃物で刺されたような傷ができていた。
その様子をころころと笑うヤコウ。
「うるさい……」
「む……?」
だが、すぐに異変に気付き、ヤコウの笑みが消える。
牢の中にいるシラツユは腕に傷ができてはいるものの、その表情には苦痛が無かった。
傷は浅くない。腕からはぽたぽたと赤い血が流れ、地面を濡らしている。
だというのに、苦痛どころか――
「何を笑っておる?」
「そりゃ笑うでしょう? 勝手に盛り上がってる馬鹿を見たら」
シラツユは笑みを浮かべていた。
その表情はただの強がりなどでは無い。
「魔力が……?」
異変はシラツユ本人だけでなく、その魔力にも。
何が起きているのかヤコウにはわからない。
だが、思い出す。
目の前のシラツユという女は妹を名乗っていた。
ならばこの女は自分が乗っ取っている男と同郷。
それはつまり、常世ノ国の人間であるという事――
「そなた……体をいじられておるな?」
「今頃気付いたの?」
読んで頂きありがとうございます。
新年でもペースは落とさないように書ければと思います。