97.ミレルの異変
ミレル湖の湖畔にいた人々の視線が集中する。
突如現れた大百足。
そしてそれに立ち向かう少女と白龍。
物語のような構図は魔法の戦いの始まりを人々に告げていた。
激昂するシラツユと歓喜に震えるヤコウ。
月夜に曝け出された二人。
先に動いたのは少女だった。
「喰い殺せ!!」
シラツユの怒りとともに大百足に向かう白い龍。
背に生えるたてがみを揺らし。三つ指の先に伸びる鋭い爪と、大きく開いた顎が大百足を食らわんと突進する。
光を反射する鱗は朝日を浴びた露のように白く輝いていた。
そんな幻想の具現のような存在がこの場の恐怖を和らげる。
突如自分達を襲ってきた捕食者と戦わんとする敵対者。
その存在が湖畔にいたミレルの人々の心に一つまみの余裕を作る。
「今のうちに町の方へ!」
そうして領民の心に一瞬生まれた安堵をラーディスは見逃さない。
大百足に釘付けとなっていた人々の視線が、声を張り上げ、指示を出し始めるラーディスのほうへと集まっていく。
「女子供それに老人を優先して馬車に乗せて逃げよ! あの白い龍は味方だ! あれが戦ってくれている間がチャンスだ! 今のうちにここから避難しろ!」
ラーディスの指示で住民は動く。
丘の上の門番であった大百足は白い龍と戦闘を始めて不在。
恐怖で固まった人々の足はラーディスの指示で再び動き始めた。
しかし――
「坊ちゃん! 馬が全部殺されてます!」
「何!?」
住民の一人の報告にラーディスの顔が歪む。
すぐに、自分の家の馬がいなくなっていたのを連想した。
ここに集まった馬車の馬は殺され、自分の家の馬は失踪……無関係という事はないだろう。
恐らくは祭りの騒ぎに乗じてこの町の馬は全て殺されている。
あの大百足の使い手は計画的にミレルを襲い始めたのだとラーディスは確信した。
「くっ……!」
忌々しそうに舌打ちし、ラーディスは決断する。
「女子供を優先して湖畔から避難させろ! 噴水広場……いや、準備を整え町の外まで逃げよ! ある程度の人数で固まって動け! 近隣の村に逃げると同時に伝達! ミレルに敵魔法使い出現!」
ぎゅっとラーディスは拳を強く握る。
そう、ラーディスは先程の指示から老人を抜いた。
一番近い村でも馬で半日はかかる。闇夜となればさらにだろう。
ラーディスも魔法使い。
あの大百足の全貌は理解できないまでも、どれほどの脅威であるかというのは充分わかる。
あの化け物に追われながら女子供、そして老人までを庇いながら逃げては逃げ遅れる者が多くなる可能性が高い。
被害が大きくなるのならば……庇護されるべき者は選ばなくてはならない。
全てを救えるような余裕は無い。
ラーディスはミレルの未来の為、今までミレルを支えてきた老人を優先しない選択をとった。
握った手からは爪が食い込み血が滲む。
この判断はあっていたのか?
反感でせっかく収まったパニックを再燃させないか?
今人々を動かせるほどの支持が自分にはあるのか?
ミレルを作った父は今ここにいない。
ただトラペル家の子息であるというだけの自分の決断に従ってくれるのか?
胸の中で鳴る心臓は今のラーディスにとっては不快な爆音でしかなかった。
だが――
「よしきたぁ!」
「ほらほら! 若いの先に行けぇ!!」
「俺達だって逃げたいんだ! 早く女房とガキ連れて逃げろぉ!」
その心臓の音を止めるのは、優先しなかった老人達の声だった。
見捨てたと受け止めてもおかしくない指示の撤回。
それを彼らは平然と受け入れる。
「で、でも――」
「躊躇ってる暇あったら足動かせぇ!! あんなのに襲われたら終わりだぞ!!」
老人達の声が人々を後押しし、群衆は動き始める。
女性と子供を優先し、町への道を上り始める。
動きにくい服を脱ぎすて、大百足に恐がる子供を父が抱き、母もまた子供の手を引く。
少女はより小さい少年とともに。
少年はより小さい少女とともに。
パニックが収まった住民はいまだ恐怖に足をとられながらも確実に一人ずつ逃げていく。
「お前ら……」
「坊ちゃん! 坊ちゃんも早く逃げなさい!」
「トラペル家がいてくれりゃあまだミレルはミレルでいられる! あんたが一番先に逃げなきゃ駄目だ!」
あまつさえ自分の心配をし始める老人達にラーディスは笑顔を見せる。
握った拳はいつの間にかほどけていた。
「はっ! 馬鹿言うな! 俺がいなくなったら魔法使いに対抗できるやつがいなくなるだろうが! 俺の心配をする暇があったらお前らはしっかり他の者を誘導しろ!!」
「だがよう……」
「安心しろ! 予定外の味方もいるんだ、死ぬまで戦うなんて事はしない! てきとうなとこで逃げる! 俺は貴族だ! お前ら平民と違って魔法で逃げられる!」
「本当だな!? 坊ちゃんが死んだら俺ら領主様に顔向けできねえ!」
本当だとも、と聞いてきた住民の顔を見ずにラーディスは答えた。
ラーディスの視線は大百足と白い龍に向けられる。
二匹の魔法はその長い体を絡ませ、互いの爪や足を突き刺し合っていた。
本来ならば加勢するべき状況だとラーディスも理解している。だが、手を出そうとはしない。
ラーディスは優先すべきものを理解している。
今自分が優先するべきは第一に領民の安全。
不意の攻撃に対応する為にもラーディスが人々の近くを離れるわけにはいかなかった。
大百足をどうにかできるような魔法を使えるわけではない。
それでも、防げるものは防ごうとラーディスは備えていた。
「ふむ……」
そんなラーディスの視線を感じ取っているのかヤコウもまたラーディスの姿を確認する。
領主が不在である事はすでにヴァレノが調査済みだった。
「あれは息子か……随分青臭い茶番を見せてくれるのう」
そのヤコウに、頭上から爪が振り下ろされる。
突き刺すように爪を振るうのは手足に白い魔力の鱗を纏ったシラツユ。
尻尾を足のように地面に立たせて頭上から笑うヤコウへと強襲を仕掛けるが、一見何の強化もしていないヤコウの左腕に防がれた。
「お前もそうは思わんか?」
「思わない! そして……お前と私に笑う資格などない!!」
ヤコウの問いかけにシラツユは唾を吐くように答える。
相容れない事を確認するだけのわかりきっていた時間が流れ、異国の二人は衝突する。
祭りによってほとんど人のいなくなったミレルの町の宿。
「何だ……?」
その一室でアルムは呟く。
夜も近付き、シラツユの捜索を一度切り上げたアルム達は宿の一室で休息をとっていた。
「アルム、どうされました?」
ベッドの上でベネッタに膝枕をしているミスティがその呟きに気付いた。
だるそうに寝ていたベネッタもゆっくりと体を起こす。
「ベネッタ、大丈夫ですの?」
「うんー……」
ベネッタは目をしばしばさせ、手で少し擦る。
「無理なさらないでくださいね。昼の間ずっと血統魔法を使ってたのですから……」
「大丈夫ー……ごめんね……」
ベネッタの様子は普段よりも暗く、その原因はただ魔力を使いすぎたからではない。
シラツユとはぐれた責任をずっと感じているのか、一日中ずっとこの様子でいた。
いくらミスティが全員の責任だと諭しても納得せずに抱え込んでいる。
「あなたの責任ではないと言いましたでしょう?」
「うん……でも……」
「自分で納得できないのはわかります。けれど、自分のせいだと思ってるのは自分だけだという事は覚えておいてくださいね」
「はい……」
ミスティはそれだけ伝えてベネッタの髪を撫でる。
ベネッタが落ち込んでいるのは自戒ゆえ。
シラツユが見つかるか、時間が経つか、はたまたそれを払拭できるほどの手柄か。
自分の中で納得できる事が起きる以外に解決策はない。それをわかっているからか、ミスティも上手く励ませないでいた。
「……?」
そんな二人を他所に、アルムは落ち着かない様子で窓を開ける。
二階の部屋から見下ろすミレルの町に変化はない。
夕陽も落ち、夜となった町には火の明かりは無い。
「何だ……?」
肌に伝わる微かな淀み。
日が落ちたからでは片づけられない空気の変化。
「――!」
「!!」
風に乗って人の声が聞こえた気がした。
アルムは窓から上半身を乗り出し、ミレル湖のほうに目を向ける。
すでに日は落ちている。星と月の明かりが見せるのは丘陵地帯の影だけのはず。
だが違う。
目に付いたのは白と黒の魔力光。
祭りの会場に灯された明かりよりも巨大な二つの魔力の光が、ミレル湖の丘で争っている。
「長い……何だ……!?」
アルムは一度シラツユを探しにミレル湖に行っている。
その時ミレル湖の湖畔にあったのは多くの松明と簡易な屋台の数々。
ここからでも見えるような巨大なものは無かったと断言できる。
夜闇もあって何なのかを判断する事は出来ないが、その巨大な二つが異常事態だという事は明白だった。
「『強化』!」
「アルム!?」
気付けば、アルムは窓から飛び出していた。
驚くミスティが追うように窓から顔を出す。
「ミスティ! ベネッタ! ミレル湖で何か起きてる!」
先に行く、そう言い残してアルムはミレル湖へと急行する。
星明かりを頼りに、アルムは跳ぶように道を走った。