あの日見た灰のドレス5
「んん……寝ちゃった……」
よだれを垂らしながらシュニーカは体を起こす。
場所はテーブルの上。本を枕にして眠ってしまったらしい。
シュニーカは前までも熱心に魔術を学んでいたつもりだったが、今はのめり込んでいると言える。
自分の腕前がこの数日でどんどん上がっているのを実感しているからだった。
もちろん飛躍的に向上したわけではない。だが、エルミラの指導によって彼女は見えるようになった。
何をすればどうなるか、これを続けたらここが伸びる。
反復した基礎の中にこれから魔術を使う上での意味を感じ取れるよう成長した。
「ベッドで寝なきゃ……」
よだれを拭いて、立ち上がる。
ベッドの前にお手洗いにと部屋を出た。
「ふぁ……」
シュニーカがお手洗いを済ませると、ふと人の気配がする。父の執務室のほうからだ。
父がこんな夜中にまだ仕事をしているのかとシュニーカは執務室を覗きに行く。
「私が乗った時には絶対に起こらんのだ。恐らく乗員に合図を出しているスパイがいるのだろうが、そ突き止める間にも被害は続く。そしてスパイを捕まえたところでまた別のスパイが送り込まれれば……」
「結局のとこ被害は続くってわけね」
「そうだ、だから根本から解決したい。キャンドラ海に賊がいるというのはルルカトンとしても業腹だったのだろう。向こうからもいい返事をもらっている」
執務室ではシュニーカの父ディーマとエルミラが話をしていた。
恐らくは、最近ダンロード領から出発する輸送船が襲われ積み荷が強奪されている事件の話だろう。
ダンロード家当主であるディーマが最近忙しいのもその事件のせいだ。
南部はダンロードの庭という独自の制度があり、商いに関してはほぼ国から独立しているため他の地域よりも儲けはいいが……その分こういった事態の時に国を頼る事もできない。
狙いすましたように襲われる海賊被害にダンロード家はここ最近難儀していた。
「討伐でオッケーって事ね?」
「捕縛のほうが助かるが……」
「善処してあげる」
「すまないな。君の顔はまだキャンドラ大陸ではまだ有名ではないので適任なのだ」
「災難だったわね、ディーマさんなら賊くらい余裕でしょうに」
「相手にされなければそれまでというわけだ。本当ならば輸送船を襲うなどという非道な輩はこの海中を探し回って私自身の手で燃やしてやりたいが、そうするには立場と責任が重すぎる」
シュニーカは執務室の扉をほんの少し開けて、執務室の中を覗く。
ディーマはソファに座り、酒の入ったグラスを一気に呷った。
からん、とグラスの中で踊る氷を見てディーマは寂しそうに笑う。
見たことのない父の表情に、一緒にいるエルミラに少し嫉妬した。大人と子供の壁があるようで。
「それじゃあ明日の船の乗ればいいのね?」
「ああ、君にはイヤリング型の通信用魔石と記録用魔石を持たせた部下を一緒に乗船させる。私の部下でもか弱い女性であれば……いや、君がか弱いは無理があるのは百も承知なんだが……」
「無理ある?」
「と、ともかく記録用魔石で襲撃してきた賊の情報をルルカトンと共有できれば海上捜査も捗るはずだ。明日の船には貴族向けの装身具を積むという情報をかなり前に流してある。間違いなく狙ってくるはずだ」
「オッケー、任せて」
二人の会話を覗いていたシュニーカは部屋の外で不満そうに頬を膨らませた。
父に魔術を教われていないどころか、最近はろくに話もできていない。
シュニーカはまだ父親に甘えてもいい歳だ。魔術の勉強に対する興味が今だけ嫉妬が上回る。
「そういえば、シュニーカはどうかね。君の目から見て」
ディーマがそんな事をエルミラに聞くと、部屋の外にいるシュニーカも緊張し始めた。
シュニーカ自身はエルミラに教われてよかったと思っているが、実際エルミラという先生からシュニーカという生徒への評価がどんなものか気になる。
どきどきしながら耳を澄ますと、
「今んとこは普通かしら」
「普通、か」
「――――」
聞こえてきたエルミラの言葉にシュニーカはがつんと強く殴られたようだった。
四大貴族ダンロード家の娘が……普通。それはあってはならない。
シュニーカの足に力が入らなくなって、体がよろける。
今日はこのまま自分の才能のなさに絶望して眠りにつくのかとシュニーカは最悪の気分でいたが、その最悪な気分を作ったのがエルミラの言葉なら救うのもエルミラだった。
「けど、安心しなさい。数年後はぶっちぎりよ」
エルミラはディーマに向かってにやりと笑った。
シュニーカもまた、後ろに支えがあるかのように持ち直す。
「この数日であの子にはじみーな基礎練を叩き込んだわ。シュニーカは真面目だからずっとそれをやり続ける……九歳とか一番派手な魔術に憧れるような時期だろうに、あの子は文句言いながらもしっかり基礎練こなしてんのよ? 魔術学院に入る頃には同年代なんて突き放すわ。そういう教え方をしたもの」
「ずいぶんと丁寧に教えてくれたようだな」
「あったりまえよ。あの子自身が望んだのよ。火属性の魔法使いの一番になりたいってね……そんで私は本気で鍛えるって言ったわ。たった一週間でも、シュニーカの目標を達成できる最善を尽くしたつもりよ」
シュニーカの目に涙が溜まる。本気で接してくれたエルミラに対しての。
貴族としてのプライドが、あくびをしたからだと心を誤魔化した。
「そりゃ今は普通よ。基礎練しかやらせてないから当然ね。もしかしたら同年代の集まりで魔術のレパートリーが少なくてちょっと恥をかくこともあるかもしれない……でも十六歳になるまであの子が頑張れたら、魔術学院では絶対にシュニーカがトップに立つ。他の生徒の付け焼刃なんて圧倒的に蹂躙するわ」
自信満々にそう言うエルミラの声は、シュニーカの事を一切疑っていない。
まだ九歳の子供が、十六歳になるまで地味な基礎練をずっと続けると確信しているようだった。
その信頼に、シュニーカの目からはついに涙が零れる。
今さっき大人と子供の壁を感じた自分の器の小ささが恨めしい。
「そうなったら後は自分の使いたい魔術をあれこれ極めればいいって寸法よ! どの火属性の魔法を教えて貰っても手足のように扱うに違いないわ! 学院での三年間トップの重圧なんて関係なしに、確かな実力で自由に学べるはずよ! 将来のシュニーカを楽しみにしてなさい。ディーマさんもあっという間に追い越すわよあの子」
「それはいいな。子に超えられる事ほど嬉しい事は他にない。人生の楽しみが増えたよ……そうなった時に改めて礼を言うとしようエルミラ先生」
二人の会話をそこまで聞いて、シュニーカは静かにその場を去った。
寝間着の袖でごしごしと目元を拭いて、鼻水をすすりながら部屋へと戻る。
鼻をかんで、ベッドに潜り込んだ。泣いたせいかすぐに睡魔がシュニーカを包む。
きっと今日は、今までで一番よく眠れるだろう。
◆
「ごめんシュニーカ! 私は今日教えられないの! その代わり、訓練のポイントとか書いた紙渡すから自主練しといて!」
「わかりました。いってらっしゃい」
翌日の朝、シュニーカの前に現れたエルミラは一枚の紙を手渡す。
そこには色々と魔力の扱いについてが書かれていた。今日も基礎的な内容だ。
シュニーカが大人しく紙を受け取って、そう言ってくれた事にエルミラは驚く。
「……? な、なんかやけに素直ね……一週間教えてくれる約束なのに放放り出して行く気ですの!? とか言われると思ったのに……」
「いけませんの? お仕事なんでしょう? 大人の人がお仕事ばかりなのはわかっていますわ……お父様だって、そうですから……」
寂しそうにそう言うシュニーカの頭をエルミラは撫で回す。
「な、なにするんですの!?」
「寂しがっちゃってー」
「寂しくなんかありませんわ! 早く行ってくださいまし!」
「なによこんくらいいいじゃない……まぁ、いいわ。とっとと仕事終わらせてくるから! 明日は一緒に練習しましょうねー!」
エルミラがダンロードの屋敷を出ていくと、シュニーカはすぐ執務室に向かう。
「シュニーカ……どうした?」
「お父様、お願いがあって参りました」
シュニーカの神妙な様子に、ディーマも顔が険しくなる。
「エルミラ先生のお仕事を私にも拝見させてくださいまし」
「どうしてそれを……」
「この目で見たいのです。私が目指す頂にいる方の実力を」
「……」
ディーマは少し考えると、引き出しから魔石を取り出す。
恐らくは映像を介して通信できる記録用魔石だろう。
「もう一度来なさい。始まったら必ず呼ぶ」
「はい!」
「何もない可能性もあるがその時は我慢するんだよ」
「はい!!」




