94.ミレル湖へ
外を見ればそこは目が覚めるような夕暮れ。
ミレル湖付近に辿り着いたはいいものの、アルムさんが一度ミレル湖まで探しに来たので私はこの時間になるまで隠れていた。
まだ湖に動きはない。
ベッドのシーツなどが置かれている宿の倉庫から私は出る。
荷物も一応確認。
肩からかけられたバッグの中には買ったワインが六本。量は充分。
「そろそろだ……」
私の血統魔法は多分世界一器用だ。
血統魔法【言の葉の神子】。
"神子"である私"シラツユ・コクナ"の口にした言葉で世界に影響を及ぼす"常時放出型"の信仰属性の魔法。
コクナ家の記録によれば、この魔法を創ったコクナ家の祖はどれだけ喋っても木の葉を一枚落とせるくらいの事しかできなかったらしい。
そんな魔法を後世の人間が様々な制約と代価、そして数百年の歴史の積み上げをかけて今私が使っている力になるにまで押し上げたのだ。
こんな体質にまでされて、そこまで家を存続させたかったのだろうか。
とはいえ、三世代前までは魔法使いの家とすら見られてなかったコクナ家の先祖の苦労は認めるべきだろう。
……まぁ、今は私しかいないのだけど。
私が使っている力になるまでとは言ってもこの魔法は様々な制約がある。
この魔法の本質はただの子供を"神子"にすること。
人そのものを現実への影響力をもたらす存在へと昇華し、特定の魔法名を唱えなくても、その言葉を魔法に変える血統魔法だ。
神子の言葉は神が告げる現実への神託。
コクナ家の魔法はそんな伝承を形にした魔法だ。
喋った言葉が何でも魔法になるのは一見万能に見えるが、実際には様々な制約のせいで思っていたより普通だ。
例えば今私を隠しているこの状態は隠れた対象が生き物に干渉しようとしたり、使う時に持っていなかったものを持ったりしただけでもすぐに効果を失ったりする。
簡単に言うと、姿を隠したからといって暗殺やら泥棒などはすることはできず、本当に隠れるだけ。
屋根に跳んだ時のも、本当に跳べるようになるだけで強化の魔法のように走るのが速くなったりしない。
この血統魔法ほど便利な魔法を私は見たことがないが、この魔法にしかできないことがほとんど無いただ器用なだけの魔法だ。
だが、その器用さに救われて私はここまで来れている。
ガザスの書類に書いてあった研究員の名前を全て私の名前に変えるのはちょっと魔力が必要だったけれど、それでもしばらくの間は騙せただろう。今頃は元の研究員の名前に戻ってるはずだ。
「アルムさんの声は……聞こえない……」
きょろきょろと辺りを見回すが、さっきまで町をひたすら駆け回っていた追手の姿はない。
アルムさんどころか人もいない。ただ、騒ぐ声は聞こえてきた。
私はミレル湖まで走る。
流石にこんな時間までベネッタさんも魔法を発動し続けてはいないだろう。
それにあの町から湖までは流石に距離がある。町から湖までを見れるほど範囲が広ければいくら血統魔法といえどその魔力消費は凄まじいはず。
だが、念のため姿は隠したままだ。あの魔法を使える分の魔力はある。
霊脈の影響か、魔力消費も思ったより少ない。
それなら割り切ってしまおう。
「はっ……はっ……!」
隠れていた宿から少し走って私はミレル湖に着いた。
人々の声はさっきよりも近い。
傾いた日は世界を赤く染めていく。
夜の到来が近い。
世界が赤く染まってもなお、ミレル湖は出番を待つ月のように輝いている。
だが、私の視線を奪ったのはミレル湖よりもその湖畔に集まる人々だった。
私は一瞬呆気にとられる。
凄い人の数だ。
ミレルは居住区で考えれば決して大きな町じゃないのに、それでもこれだけ人が集まったんだと驚愕する。
前日に訪れた時など比べ物にならない。湖畔の緑を埋め尽くすほどに人と店が湖畔に集まっていた。
夕暮れを浴びながら、この祭りは夜が本番なんだと言いたげに盛り上がっている。
「すごい……」
考えてみればこんなに人が集まるところを私は見たことが無い。
だからこそ、ぼーっとしてしまったのだろう。
「おっと、何……人!?」
「きゃん!」
後ろから走ってくる人に私は気付かなかったのだ。
向こうは私がいたとわからないからか、走った勢いのまま肩にぶつかってしまったようだ。
思いっきり地面に叩きつけられてこんな声を出してしまう自分の体質が恨めしい。
「これはすまない! 大丈……し、シラツユ殿ではないですか?」
名前を呼ばれてつい顔をそちらに向ける。
しまった、という顔が表に出ていなかっただろうか。
よりによってぶつかってしまったのはこの領地の貴族であるラーディスさんだった。
「これはこれは一人でどうされました? ミスティ殿は?」
アルムさんとベネッタさんの名前を呼ばない辺りぶれない人だなと思った。
でも、この様子を見るとあの三人が私を捜索している事は伝わっていないようだ。
「その、お祭りに興味があって……ミスティさん達とは少し別行動を……」
「ふむ……」
我ながら苦しい。
ラーディスさんは私がガザスの研究員だと思っている。
ならミスティさん達が私達の護衛だという事は想像がついているはずだ。
それなのに一人というのはおかしな話。
……拘束される事だけは回避したい。
こんなに人が多い所で攻撃魔法を使うことはないだろうが、そういった魔法を使ってくる可能性はある。
考えるように顎に手を当てるラーディスさんに、私は喉に魔力を込めて対応できるよう備えた。
「なるほど、そういう時もありましょう」
「ひゃえ?」
予想外の反応で私の口から魔力が漏れる。
魔力に何らかの音があれば、ぽひゅ、と間抜けな音が出ただろう。
「私も小さい頃、勉強を抜け出して町に行ったものです……他国の魔法使いとはいえずっと見張られていると息抜きしたくなる気持ちはよくわかります」
「え? あ、はい……」
「ですが、他国のお客様を一人で歩かせるわけにはいきません。息抜きになるはどうかわかりませんが、私にエスコートさせて頂けませんか?」
そう言ってラーディスさんは私に手を差し伸べてくる。
ここで断ってミスティさん達に私の居場所を伝えられに行かれるよりは……このお誘いを受けたほうが自然かもしれない。
「とはいっても、ただ騒ぐだけの祭りなのでエスコートしても優雅ではありませんがね」
ラーディスさんは笑う。
その表情は優雅では無いと言いつつも期待に満ちていて。
不思議なことに、私は本当に自然とその手をとっていた。
「あの、ラーディスさんは何故その……徒歩で……?」
立ち上がりながら、素朴な疑問をラーディスさんにぶつけてみる。
「いや、それが……恥をさらすようで恥ずかしいのですが、馬がいなくなっていて……仕方なく歩いてきたんですよ」
「……馬が?」
「ええ、あっちに私の家の邸宅があるのですが……」
そう言ってラーディスさんはここから見える丘の上にある少し大きめの建物を指差す。
「逃げたのか知りませんが、どこかへ消えまして……町の馬車も全てここに集まっていますから歩いてこざるを得なかったんですよ、いやいやお恥ずかしい」
胸がざわついた。
何故か無関係ではない気がして。
「それよりもどうぞ」
ラーディスさんは私に左腕を差し出してきた。
私は意味がわからず困惑する。
そんな私の様子を察してくれたのか
「お手をこちらに。シラツユ殿の美貌の前ではこの着飾った服も霞みますが一時ゆえお許しを」
なるほど、と小さく呟き、作法に疎い私はラーディスさんの腕に手を置く。
昨日会った時とは違ってラーディスさんの服は黒を基調とした服に金色の刺繍があしらわれていた。その金色の髪と合わせて黒い服に生えている。
きっちりとしていて制服とはだいぶ印象が違っていた。
その口から出る言葉もお世辞だとわかっていても受け入れてしまいそうな爽やかさがあった。
「ベラルタで手合わせして頂いた時はこのような役得にありつけるとは思いもよりませんでした」
「役得だなんて……お上手ですね」
「本心ですよ。あ、ただうちの領民に見られると色々言われてしまいますのでご理解を……決して悪気は無く、私をからかう材料を見つけて喜んでいるだけなのです」
本当に申し訳なさそうな顔でラーディスさんは私に謝ってくる。
確かに昨日見たあの様子を見れば容易に想像がつく。
「領民の気安さを咎めないのですか?」
「ははは、いずれ私が領主になるまでの我慢ですよ」
本当は我慢なんてしていない。
それくらいは私にもわかった。
隣でこれだけ誇らしい顔をされれば誰にだってわかってしまうというのに。
ラーディスさんの瞳は、ここから見える町の人々が集まった湖畔を映している。
ずきり、と。
胸の中が痛む。
心が痛むとでも伝えたいのかこの体は。
嘘を吐くな。
だって心が痛むのなら、湖までの道中に何もかも打ち明ければよかったんだから。
お正月は流石に更新できませんが大晦日までは更新できそうです。
予定がない暇な人で本当によかった……よかったのでしょうか……?