31.その咆哮は誰が為に5
「もうすぐ卒業だな」
「あ、ああ……そうだな」
そんなはずがないというのにネロエラは違和感を感じ取れないまま答える。
イリーナが土壇場で使ったのは九尾の能力その真髄。
他者の記憶を読み取り、そうならなかった別の未来まで見せる幻。
それはもはや現実に目覚めたくない夢の中……他者の望む異界の創造に等しい。
ネロエラは自分が学生時代に戻っている事も、イリーナと戦っていた事も覚えていない。
ベラルタ魔法学院に通っていた頃にあったかもしれない三年生の日々。
完璧なる幻覚にて創られた日常の続きにネロエラは閉じ込められる。
今のネロエラにとってこれは十年前の出来事ではなく、十八歳の自分が過ごしている心地の良い時間そのものだった。
「ネロエラは卒業したら王都だったか」
「ああ、正式に、輸送部隊アミクスの隊長、として任命される予定だ」
「正式化する前から大活躍だったもんな」
「そ、そんな事はない……!」
ついネロエラの口元が緩む。
一番楽しかった時間。初恋の人と友達に囲まれて毎日を過ごしていた日々。
辛く苦しい戦いの傷痕が癒えた頃、卒業までのなんてことない一ページ。
「前置きが長くて悪い、呼び出した理由なんだが……」
「あ、ああ、魔法儀式でも、するのか? 私は、その、構わないが」
アルムは魔法が好きでこの三年誰よりも魔法儀式をこなしていた。
勿論、平民だからとカモにしたい貴族達に標的にされていたのだが……本人はむしろ喜んでいたようで、どれだけ狙われても受ける所か他人の魔法儀式をどうにかして見学できないかと学院に六つある実技棟を順番に回っていたくらいだ。
アルムが実技棟に呼び出すというのなら、それは魔法儀式の申し出くらいしか思いつかない。
「ああ、いや、今日は違うんだ。ルクスやエルミラ、ベネッタにも相談したんだが……二人になりやすい場所は、ここくらいだし、何より俺らしいと思ったから」
「え?」
ネロエラが不思議に思っていると、アルムは意を決したようにネロエラを見つめた。
その熱い視線にネロエラは体を強張らせる。
「俺は、ネロエラが好きなんだ」
「――――」
「その、ミスティには悪いが……俺がずっと好きだったのは、お前なんだよ」
そんな血統魔法級の言葉がアルムの口から飛び出す。
ほんの少し紅潮した頬、精悍な顔つきは少しの照れが印象を変えていて普段のアルムよりも可愛らしく映る。
突如訪れた叶うかもしれない初恋の機会。それはとても甘く、蕩けるような時間。
「…………」
ネロエラは口元に手を伸ばす。そこには黒いフェイスベールがあった。
ネロエラは目を見開いて、フェイスベールを外す。
「……ああ、なんて」
しばらく見つめたかと思うと、ネロエラはアルムに笑い掛けた。
いい返事を期待するようなアルムを前に、ネロエラは困ったように眉を下げて。
「――最悪の夢」
『グオアアアアアアア!!』
【が、はっ――!? ぐ、ぎいあああああ!!】
鬼胎属性の魔力を食い破り、ネロエラの牙がイリーナの首に食らいつく。
ネロエラが見ていたのは現実時間にして一秒にも満たない瞬きの間だけの幻覚。
術中に囚われかけたネロエラの精神は九尾の誘惑に打ち勝ち、その牙を突き立てる。
首と牙の間にあるのは九尾の魔力で作られたイリーナの咄嗟の防護術。
そんなもの知ったことかとネロエラは食らいつき続ける。
【馬、鹿な――! 彼の神の幻覚を、破って……!?】
『ああ、怒りで頭が沸騰しそうだ! こんな屈辱他にない! よくも……よくもこんな出来の悪い茶番を見せてくれたな!!』
【アナタが、望む最高の世界を見せた、ハズ……ナノニ!】
『望む!? 私を馬鹿にするな! お前に抱いてたほんの少しの敬意も今失せた! あの人がミスティ様を裏切るはずがない! それを! 私が! 望んでいるはずがない!!』
九尾の幻覚は途中まではネロエラに違和感を抱かせなかった。
もしかすれば、ただベラルタ魔法学院で過ごすだけの幻覚だけならもう少し囚われていたかもしれない。
――けれど、本物だったんだよ。
あの人に何も与える事ができなくて、何もせずにみっともないまま終わってしまったけれど……この胸に抱いた想いは確かに本物だったから。
どれだけ精巧に作られて、甘い言葉を吐いたとしても――自分がアルムを間違えるはずがない。
あれは違う。似ても似つかない完全なる別人。
私が恋した人なんかじゃない。私を、救ってくれた人じゃない。
『呪いごときが人の初恋に土足で踏み込んで……! ただですむと思うなあああ!!』
想いに"現実への影響力"が呼応する。
白い牙が九尾の魔力を砕く。噛み砕いていく。
イリーナを守っていた魔力が全て、全てネロエラの想いを前に砕け散る。
その牙の輝きは星の如く。
黒き呪いが見せる夢などでは決して侵されぬ思い出。
牙はついにイリーナの首まで届いて――!
【嫌! 嫌嫌嫌!! ワタシが! 彼の神が! どう、して!?】
『決まってる。お前は、人の意思を軽んじすぎた』
勝敗を分けたのは他者への思い。
それがたとえ苦い思い出だったとしても、抱いた恋慕は確かに熱へと。
ネロエラの籠めた強い感情が魔力に乗って迸る。
銀色の魔力はネロエラの体を駆け巡って最後の一撃のために集結した。
【ば、が……な……! こんな、ごんな! 魔力の怪物でもない、野良犬にいいいい!!】
『犬じゃない! 私は、誇り高い狼だ!!』
ネロエラの白い牙がイリーナの首元を食い千切る。
絶叫は消え、鮮血が舞う。
イリーナが纏っていた九尾の魔力はゆっくりと消えていき、ネロエラとイリーナは支えを失くしたようにそのまま地面に落とされた。
『ぐっ……!』
ネロエラは地面に叩きつけられた体を起こし、イリーナのほうに視線をやる。
血統魔法の限界が近い。イリーナの姿はすでに人間とは違う。今の一撃を食らってなお立ち上がる可能性も無くはないと。
「わ、だしは……わた、し、は……!!」
……しかしネロエラの心配は杞憂に終わる。
一言一言が自らの最後、静寂までのカウントダウン。
崩れていく四つの尾。噛み砕かれしは呪いの欠片。
空へと消えていく黒い魔力を見て、イリーナは自分から九尾の力が完全に抜けていくのを悟った。
九尾の魔力が消えると同時……イリーナの金の瞳は涙が零れ、その色は澄んだ水色へと変わっていく。
「母、様……私の、頭を、撫で……て……」
最後の最後、本当の望みを血と共に口にしてイリーナはその場に倒れる。
狐のものへと変わっていたイリーナの四肢も元の人間のものに。
マナリルを襲う未曾有の災厄としてではなく、人間としてイリーナはその人生を終えた。
『はっ……。はっ……。はぁ……」
九尾の力が完全に消えたからか、空を覆っていた雲が晴れる。
空は元の晴天へ。爽やかな空気がどこからか戻ってきて風が吹く。
ネロエラの血統魔法は解除されて人間の姿へと。
呼び出されたエリュテマの魂達も日差しを浴びながら消えていく。
「私は……私が……!」
残されたのはたった一人の魔法使い。荒れた大地に立つ勝者の姿。
空を仰いで彼女は吠える。
「私が……ネロエラ・タンズークだああああああああああああ!!」
その姿を、その名を、その生を乗せて。
白き牙は何者も侵す事はできず、この場に誰かを縛る呪いはどこにもない。
ここに立つのは血と汗に塗れた美しき者。剥き出しの牙は友との絆。
その咆哮は誰が為に。……決まっている。全てを乗り越え走り始めた自分の為に。
ネロエラは初めて周囲を気にせず、自分の生と勝利を吠えた。
お読み頂きありがとうございます。
これにて決着です。次からエピローグに向けての更新となります。
長かった番外長編ももうすぐ終わりとなります。




