28.その咆哮は誰が為に2
何故イリーナに過剰に恐怖を抱いたのかようやくわかった。
あれは自分がずっとなれなかったもの。
善悪ではなく、その在り方。
どんな姿であろうとも目の前の敵は自分の姿を、在り方を誇っている。
大して、こちらは自分から目を背けている愚か者。
"現実への影響力"が、じゃない。魔法生命だから、じゃない。
ずっと自分から目を背けていた自分では敵わないと無意識に思ってしまっていたから。こんな風に過去から逃げるしか方法を知らないから。
だって、そうやってずっと逃げてきたから。
「ああ、私、馬鹿だ……」
周りの環境が変わっただけで自分は何も変わっていなかった。
変わったつもりでいただけの子供のまま。
男装して、誰も信用していなかった頃と変わらない。
変わったと勘違いしたのは、周りの人が優しくしてくれていたから。
気付いていたのに気付いていない振りをして、ずっと弱いままだった。
"ばけものじゃん!!"
もう誰かも思い出せないこんな声なんかにずっと、ずっと。
走ると誓ったはずの道で自分はずっと止まっていたままで、一歩も前に進めていない。
一緒にいたい人達との未来に向けて、走ると決めたのに。
燃え盛る黒炎を躱しながら、エリュテマ達の戦う姿を思い浮かべる
幼い頃からずっと一緒の、自分に最も近い友人の雄姿。
ずっと一緒に走ってきてくれた仲間。大事な友。
「ばけもの、なわけあるか……!」
子供の頃に打ち込まれたトラウマに、ネロエラは初めて怒りを覚える。
今の自分は顔もわからない誰かに描き殴られた自画像のよう。
子供の頃から大好きだったはずだ。いつも一緒にいてくれるあの子達が。
それなのに、なんで私はこの牙をいつまでも恥じている?
この牙は、私の大切な記憶が詰まってる。子供の頃に言われた言葉に囚われるにはもったいないほどの大好きなみんなの記憶が。
【アハぁ、泣いてるの?】
イリーナの嘲笑混じりの声で、滲む自分の視界に気付いた。
ボロボロと零れる透明な雫。温かい涙が目に入った血を洗い流して視界がクリアになる。
目の前には倒すべき敵。自分の好きな人達が住んでいる国を脅かす敵。
なら、やるべき事は一つしかない。
「後は頼む、じゃない……!」
いつまで気付かない振りをしているつもりだ嘘つき。
支えられている事に慣れるな卑怯者。
勇気の出ない弱虫がいつまで小狡いハリボテで自分を守ってる。
誰かに任せる、じゃない。誰かがやる、じゃない。
【……止まったぁ? なんのつもり?】
攻撃の間を見切り、ネロエラはイリーナを見つめながらゆっくりと止まる。
ボロボロの体に弱弱しい呼吸、それでもイリーナはネロエラへの警戒を緩めない。
雲に雷鳴を、九尾の口に炎を、爪に風を蓄えて、次の瞬間にはネロエラを三度殺せる技を備える。
それはネロエラもわかっている。それでもネロエラは恐怖一つ表情に出さずに前を見据えた。
「もう、いいの。ここで変われなかったら同じだから」
【へぇ? ヨウヤク、彼の神の最初の生贄にナル覚悟ができたの?】
「いいえ? 吹っ切る覚悟」
歩み寄ってくる死が近い。同時に鼓動が大きくなる。
今走れなかったら結局死んでいるのも同じ。
それなら、長く走れるように前を見よう。
足枷? そんなもの、最初からついていなかった。
「私は、あの日救われた」
その人を襲った馬車の中、怒りのまま牙を剥き出しにして……それで自分は救われた。
初めて言われた綺麗という褒め言葉に舞い上がって、喜んで、笑って、恋をして。
あの言葉を貰った瞬間世界が変わった。でも肝心の私が……何も。
みんなも、フロリアも、アルムも私の事をちゃんと見続けてくれたのに、私だけが一人自分の姿から目を背けていた。
「あの日に、自分の事を好きになれるはずだったんだ……」
アルムはありのままを認めてくれていたのに、その言葉を本当の意味で受け止める事が出来ていなかった。
"魔法使い"が救ってくれていたのに、私はそこで時間を止めたまま。
そう……何を恥じる事がある。
この牙を褒めてくれた人がいる。こんな私は可愛いと言ってくれた人がいる。
何よりこの牙は――私の大切な友人と同じなんだから!
三年生の時にやったグレースの舞台。アルムの呪いを解く演劇。
私は本当の意味で舞台に上がる事ができなかった。その理由が今になってようやくわかるなんて。
「ミスティ様は、恐がりながら立ったのに」
二人の邪魔をしたくないなんてもっともらしい言い訳だけして……逃げていた。
フロリアが何で自分にあの舞台で告白するように薦めたのか。
……そうしないと、自分は前に進めなかった。
いつまでもトラウマを恐がって、自分の心だけを守ろうとしたまんま。
自分を誤魔化した言い訳で逃げた結果、こんな所まで引きずってしまって。
「ほんと、馬鹿だなぁ……私」
私の初恋は、本物だったのに。
【笑、った……?】
私の笑顔に面食らったようにイリーナが止まる。
絶望的な状況で笑っておかしくなったと思われたのか、そんな事はどっちでもいい。
理由はどうあれ私も驚いた。鏡の中だけに見えていた過去の私がイリーナの向こうに見えたから。
"ねえネロエラ?"
過去が語り掛けてくる。
男装していた時の私、閉じこもっていた時の私が。
"今の自分の事、好き?"
今日はいつもの私を責める言葉じゃなくて、問いかけだった。
そんな風に問われて私は迷わずに頷く。今なら、頷ける。
「うん」
だって、友達とお揃いだから。
だって、友達が可愛いって言ってくれたから。
……初恋の人が綺麗だって言ってくれたから。
この姿も。この牙も。ああ、よかった。今なら心からそう言い切れる。
みんなとの記憶に囲まれて、今の自分はとっくの昔に幸福だった。
そう伝えずとも、その一言で過去は嬉しそうに頷いて。
"あはは、よかった。ずっと、そう言える自分になりたかった"
過去は歯を見せて、今に向かって嬉しそうに笑った。
そして役目を終えたように消えていく。
――待たせちゃってごめん。
心の中で謝って、私は黒いフェイスベールを口元から外す。
大切な親友からのプレゼント。これにずっと守られてきた。
「次は、違うプレゼントを貰うよ、フロリア」
さあ、もう足踏みは十分だ。
私は今疾走する。本当の意味で未来へと。
ここにいるのは誰だ。ここに立っているのは誰だ。ここに生きているのは誰だ。
時間稼ぎが出来れば上出来? 違う! 違う違う違う!!
今こそ証明しろ。カーラが守ってくれた私という人間を。
命を懸けるに相応しい誇れる友であれるように。
このままじゃ……みんなとこの先も一緒に走る事なんて出来ない!
「これが、最後だ」
思考を自分から現実に。
目の前には九尾の魔力を纏った敵。
どれだけ意識を変えても、ネロエラがこれを越えなければ未来は無い。
【最後……?】
「ああ、もう、何度も唱えられる魔力は、無いからな」
ネロエラが見せる清々しい笑顔にイリーナの背筋に悪寒が走る。
こんなボロボロの女に何かを感じた。
今すぐ葬らなくてはとイリーナは力を解放する。九尾の口から放たれる灼熱。
ネロエラを血と肉を焼く黒炎が迫る。
相対するネロエラの表情に何故か恐怖の色は無い。
「"変換式……接続"」
荒れた大地に一人立つ魔法使い。
けれど彼女は決して一人ではない。その傍らには常に彼女と共にいる友人の記憶。
タンズーク家の始祖の願いと同じく友人達を誇り、相応しく在ろうと堂々と。
ゆえに、この魔法の名は――。
「――【気高き友人】」
それは己を恥じたままでは決して開かぬ歴史の扉。
魔法の名は今こそ彼女に相応しく。
宙に届くほど高らかに。
思い出の輝きを浴びて自らの姿に真の誇りを宿す。
友との絆を乗せて、ネロエラ・タンズークは踏み入った。
【燃え尽きヨ"魔獣令嬢"! カンパトーレの礎とナルガイイ!!】
黒炎に飲み込まれるネロエラ。
血肉を燃え焦がし骨まで焼き尽くす。
空へと上がる煙は文字通り、カンパトーレの反撃への狼煙へと……
【なに……!?】
……なる事はなかった。
黒炎が消え、煙が晴れる。
そこには、銀色の魔力を纏ったエリュテマの姿があった。




