27.その咆哮は誰が為に
恐くて仕方がない。あのまま町で避難誘導をしていたらどれだけ幸福だったか。
それでも、こんな自分にも動かなければいけない時くらいはわかる。
「あ、あれ!? スリマ……だよな!? ネロエラ隊長は!?」
「……ゥーン……」
敵の魔法使いが迫ってきているという情報を現地の警備に伝えて避難誘導の手伝い。
自分にはこれが精一杯の出来る事だと思っていたから迅速にかつ焦らせないように……町の人間があらかた危険意識を持って行動し始めてくれた頃、自分の前に一体のエリュテマが現れた。
半分自信は無かったが、スリマと呼んで怒られなかったという事はしっかり当たっていたようだ。この一か月、虫を見るような目をされていた事を考えたら大きな進歩だ。
そう、この一か月のスリマを見ていたからこそスリマの様子がおかしい事に気付いた。
自分にはエリュテマの言葉などわからないし、意志疎通などもってのほか。
けど、あのスリマが。こちらを虫のように見ていたあのスリマが助けを求めに自分の下に走ってくるような異常事態。
自分に出来る事などたかが知れている。血統魔法にも大した戦闘能力は無い。
――それでも、応えたい。
どれだけの緊急事態でも、経験も無ければ弱くて大したことないこんな自分をスリマが頼ってくれた。同じ部隊の仲間として認識してくれた。
「よし何も言わなくていい! 【闘志燃やす古代戦車】!!」
「ワオオオ!!」
「いくぞおおおおおおお!」
これに応えないのなら俺は魔法使いどころか男じゃない。
ああ、自分の血統魔法が走るのが得意な魔法で本当によかった。
【火属性……話にならない、ワネ】
燃え盛る戦闘用馬車でこちらに向かってくるジェイフを見て、イリーナは脅威ではないと判断する。
九尾の魔力が蔓延するこの場に現れる事が出来る強者かと思えば、死にに来たただの馬鹿だ。九尾どころかイリーナだけが相手しても圧倒できるだろう。
イリーナは興が削がれたと言いたげにため息をついて、九尾の口から黒い炎をジェイフに放った。
「んぎいいいいいいいい!」
一直線に向かってくる黒い炎からジェイフは瞬時に死を感じた。
火の手綱を必死に操り、隣で走るスリマの手伝いもあって何とか回避する。
幸か不幸か、あまりの差に恐怖心が麻痺しているようでジェイフはそのままネロエラのいる場所まで突っ切る。
「隊……長……っ!」
駆け付けたジェイフが見たネロエラの姿はあまりに痛々しい。
軍服は所々破け、血と土に汚れて白い所のほうが遥かに少ない。
腕の動きはおかしく、フェイスベールでわかりにくいが顔も腫れていて、頭から流れる血で赤くなっていた。
大丈夫ですか、と出掛かった声を引っ込める。大丈夫なはずがない。
民を安全な場所に送る避難誘導の裏で、民のためにその命を懸けていたのがわかる姿だった。
「命令違反申し訳ありません!!」
「いやよく来た! カーラを……! カーラを頼む!」
「か、カーラさん……!」
ジェイフが駆け付けたとて状況は変わらない。ネロエラならともかくジェイフが百人いたとしてもただ食われて餌になるだけだろう。
しかし今のネロエラが最も望むのはカーラの救出。
自分を庇って倒れた友人をネロエラはジェイフに託す。
カーラを戦闘用馬車に乗せると、ジェイフはネロエラに向けて手を伸ばす。
「隊長も!」
「いや、私は、ここまでだ」
伸ばした手に向けてネロエラが首を横に振る。
それを見たジェイフの表情が青褪める。
目の前のネロエラが限界だなんて誰でもわかる。それでもネロエラはここに残る事を選んだ。
「元々、あの姿になってから、時間稼ぎする気だった」
悠長に会話していてもイリーナの攻撃が来ない理由は待っていてくれているからではなく、イリーナの姿が再び変化しているからだ。
九尾の魔力の中で溺れるようにもがくイリーナの右足が獣の姿へと変わっていくのが見える。ここで逃げても、あの変化が終わればイリーナはこちらを追ってくる。
……逃げ切れるはずがない。このまま医者の所に行ったとしても、追い付いたイリーナに医者ごと全員殺されて終わり。カーラを助けるためにはこの場でイリーナを食い止める誰かが必要なのだ。
「来てくれてありがとうジェイフ、お前のお陰で、一番の友達が助かるかもしれないのが、嬉しい」
「あ……ぁ……!」
違う。違うと叫びたいジェイフは声が出なかった。
こちらに向けられるボロボロな笑顔が今まで見た中で一番綺麗だった。
こんな形でお礼を言われたかったわけじゃない。
――あなたを助けたかった。物語の魔法使いのように。
でも自分はそんな存在じゃなくて、そこらにいる貴族の一人だってわかってる。
このまま駄々をこねても足手纏い。イリーナが動き出せばそれこそネロエラの足を引っ張るだけの愚か者になる。
だから、その笑顔に応えられるように――自分の出来る事から逃げない為にジェイフは手綱を操った。
「任せてください! カーラさんは必ず! このジェイフが必ず!!」
「ああ、頼んだ……スリマ、ジェイフとカーラを頼んだぞ、守り切れるとしたら、お前しかいない」
最後にスリマに笑い掛けて、ネロエラの表情に戦意が戻る。
カーラが倒れて訪れた絶望がほんの少しだけ晴れた。
状況は好転してないが、ネロエラはそれだけで満足だった。
視線の先のイリーナの右脚の変化が終わった。ジェイフが走り去る音を横に、改めて覚悟を決める。
「ですがネロエラ隊長! これだけは聞いてください!」
「え?」
「ずっと……! ずっと言いたかった事があります!!」
「は、はい!?」
その覚悟の隙を縫うかのように放たれるジェイフの言葉。
こんな時に何を? ネロエラが変に緊張しながらジェイフのほうを向くと、ジェイフは走り去りながら叫ぶ。
「お友達のプレゼントにこんな事を言ったら気を悪くされるかもしれませんが!
口元の布! それがあると隊長の綺麗な顔が隠れてしまうので! 無いほうが自分は好きですぅううう!!」
カーラを乗せたジェイフはそんな事を叫びながらその場から離れていく。
出せなかった他の声に変わって、さらけ出せる自分の欲望を言葉にしながらジェイフは走り去った。
「あ……うん……ありがと……」
残されたネロエラはぽかんとしながら届かないお礼を呟く。
最後に言う事がそれか、とその正直さに思わず笑ってしまいそうになった。
【はぁ……! はぁ……! あらぁ、男に逃げられたノ? ザンネンね?】
ほんの少しだけ弛緩した空気がその声で元に戻る。
右足の変化が終わり、また一つ狐の姿に近付いたイリーナはその"現実への影響力"が上がっている。
九尾の魔力は逆立つ毛のように揺らめき、頭上の曇天はゴロゴロと雷鳴を鳴らす。
「いや? 今の私には、最高だったさ」
【男に最後まで、貢がせる事がデキナイなんて……美しくないわね】
「結構だ。貢いで、欲しいなんて、思ってない」
【欲しいと思わなくても、イイ女には男がこぞって貢ぐものよぉ? お金も、時間も、命も、人生丸ごと、ね】
「趣味が、悪い」
【趣味かどうかは関係無いわぁ。アナタが、負け犬になっているからでしょう?】
九尾の魔力が動く。前足をネロエラ向けて振り抜いて風の斬撃が荒野を裂く。
ネロエラは横に跳んで躱す。攻撃が止み、ほんの少し息をつく事が出来たおかげで動きがほんの少しだけ戻った。
もう少し、ほんの少しだけ動ける。
カーラに拾われた命、ジェイフに助けられた時間。
どちらも無駄にせずに使い切るとネロエラは走る。
これでいい。これが最善。命の使いどころはここだと。
……。
…………そのはずなのに。
カーラに助けられるまではそう思えていたはずなのに、今は何故だが妙に引っ掛かる。
【最後まで、つまんないオンナだったわねえ! "魔獣令嬢"!】
「っ……!」
上からは黒い雷。下は地面を這う黒い炎。
イリーナの叫びと共に放たれる鬼胎属性の攻撃がネロエラの体と心を砕きにかかる。
イリーナにとってアルム世代であるネロエラの死はカンパトーレの反撃の狼煙。
九尾の力と共にネロエラの死体を持ち返れば、カンパトーレ全体を動かすきっかけにもなる。
イリーナが望むカンパトーレの態勢……聖王女として、本当の意味で伝承の子として玉座に座るための最初の一歩。十年前カンパトーレに屈辱を味合わせたアルム世代の一角を崩すというのはそれだけの価値がある。
【担ぎ上げられたコノ人生を本物に! ワタシは選ばれた! いいえチガウワ! 蛇に屈せず、ワタシが選んだ! アナタの死を彼の神への貢ぎ物に! この美しきワタシの手で! アッハッハッハッハ!!】
逃げ回るネロエラに対して自分の力を試すかのようにイリーナは九尾の魔力を操る。
先程までより攻撃は苛烈になり、ネロエラの状況は悪化した。
息をつく暇もない攻撃。自然を操り、イリーナは神の如く振舞う。
神獣の力に相応しく、自分という在り方を示すかのように。
……そんなイリーナを目にしながら、集中すべきネロエラの思考は何故か他の事に捉われていた。
(集中……しなければいけない、はずなのに……)
二人の視線が一瞬だけ交わる。
"ワオオオオオオオオオオオオ!!"
頭の中で再生される光景と声。
幼い頃から何度も見続けたエリュテマ達が走る姿。
"な、なんだよその歯……! ば、ばけものじゃん!!"
今度は初めて町に下りた時の出来事が記憶の中で蘇る。
もう顔もわからない、たまたま出会った同年代の子供。
笑い掛けられて、言われた言葉だけが残り続けて。
"あなたは可愛くて綺麗よ。あなたは自分の事そう思ってないかもだけど、私はそう言い続けて、あなたの事を何度も抱きしめられる"
何故この時の事を思い出すのだろう。
学生時代、三年生の時にやった舞台の前……フロリアに言われた言葉。初めて出来た人間の親友の温もりと優しい声は今でも耳に届いていて。
"口元の布! それがあると隊長の綺麗な顔が隠れてしまうので! 無いほうが自分は好きですぅううう!!"
今度は先程のジェイフの叫び。
あまりに馬鹿正直で気持ちいいくらいの些細な欲望と好意。
声が大きくて、真っ直ぐで疑う余地もない。
――あ、れ?
そこまで記憶を辿って、ネロエラはようやく自分を見た。
逃れられない死地に瀕して、駆け巡った走馬灯が自分の矛盾に気付かせる。
"ほら……何も変わってないじゃない"
鏡の中にいる過去が今の自分に突きつける辛辣な声。
漠然とした不快感としてではなく、その言葉が今ようやく針となって心を刺す。
――私、何で。
最後に再生される記憶を待たずして、ネロエラの中に疑問が生まれる。
それは自分自身に対する問い。
何度でもあった。何度でも機会はあった。
何度も、何度も、貰っていたはずなのに。
それなのに――
"綺麗な白い歯だと思うが……"
――私、何でまだ口元を隠しているの?




