25.九尾絢爛6
【あなたの力が流れ込んでグル! ワタシに相応しい力! 彼の神がここにいる実感! ああ、ワタシ……ワタジ! 今まで生きてきた中で! イチバン充実していますわぁ!】
『……っ!』
――理解が、できない。
ネロエラは九尾の力にではなく、愉悦を抱くイリーナに恐怖する。
恐らく本人もああなると知らなかっただろうに、狼狽えるのではなく喜べるあの精神性は一体どこから来ているのか。
"な、なんだよその歯……! ば、ばけものじゃん!!"
幼い頃に聞いた拭えぬ声が過去から耳へと届く。
同時に聞こえるイリーナの笑い声が自分を塗りつぶしていくかのよう。
それはあまりに致命的な精神の揺れ。
魔法使いの戦いで最も大切なのはイメージで魔法を作り上げる揺るがぬ精神。
あろう事か、ネロエラはこの世のものではない化け物の力ではなく、イリーナ本人に対して恐怖を抱いてしまった。
【あら……どうされたの? "魔獣令嬢"?】
「……ぁ!」
そんなネロエラの精神の綻びをイリーナはいとも簡単に見抜く。
九尾の力によるものではない。エリュテマとなっている今でさえネロエラの表情に弱さが見えた。
イリーナは即座に四本の尾を振るう。
ネロエラの頭上に出来る四本の巨大な影はその一本一本が命を刈り取る断頭台。
逃げる。逃げる。
相手の攻撃を躱して時間を稼ぐ……その事実は変わっていない。
しかしネロエラの意識は先程までと全く違う。
――恐い。
綻びた心に容赦なく侵入してくる鬼胎属性の魔力。
強靭だった意思に亀裂が入り、蝕まれていく様を狐が笑う。
『く……ああああああ!!』
恐怖に抗うように反撃に転じる。
地面に叩きつけられた尾に向かって牙を立てる。
……結果は言うまでもない。
魔力の塊には傷すらつかず、ネロエラの脳内に九尾の記録が流れ込む。
『う、ぎ……!? きゃあああああああああああ!!』
ネロエラの全身に走る雷を浴びたかのような激痛。
先程の一撃の時は信仰属性によって防げていたが、意志ではなく恐怖が上回った結果……九尾の記録が鬼胎属性の魔力を通じてネロエラへとねじ込まれる。
腐肉と骨が散らばる荒れ地、血に塗れた人間の命乞い、笑いながら人間を潰していく呪いの声。
耳に、鼻に、目に。九尾が人間に与えた苦痛と光景が駆け巡り、悲鳴と共に体が軋む。
『うぶ、おえ……!』
【へぇ……? そのままなら、ラクになれたのにねぇ?】
それでも体を決死で動かし、ネロエラは頭上に迫っていた尾を躱す。
地響きと揺れの中、弱音を押し殺して吐きながら必死に走る。
ネロエラの心を支えるのは魔法使いとしての矜持。
勝てないと自分で勝負を決してしまった情けなさと恐怖によって蝕まれる心。そんなボロボロの精神を抱えながら、次の一秒を稼ぐために足を動かす。
わかっている。自分はもうこの化け物に遊ばれる玩具だ。
それでもマナリルの魔法使いとして――。
『アルム達の、友人として――!』
この国に生まれたからこそ貰えた一番自分が幸せだった記憶だけを拠り所に走る。
たとえすでに負けているとしても、ここで果たすべき役目だけは魔法使いとしてなんとしても。力の入らない足をその思いだけで何とか動かす。
【立派だわねぇ、マナリルの、お犬さんは?】
イリーナはそんなネロエラの姿を馬鹿にするように笑う。
同時に雲から雷鳴。降り注ぐ黒い魔力がネロエラの走る大地を焦がす。
すでに美しい丘への道はどこにも無く、砕けた大地と衝撃でへこむクレーターばかり。枯れてしまった草原は焼かれ、灰となってどこかへ吹かれている。
(魔力より先に、体が……!)
息をつかせぬイリーナの攻撃にネロエラの体が悲鳴を上げる。
魔力切れまで粘るつもりだったが、先に体へのダメージが深刻になっていった。
先程、魔力を流された事による精神攻撃で次の血統魔法を唱えられるかもわからない。
解除してしまえばそこで遊ばれているこの時間すら終わる。
どれだけ辛くても走り続けろとネロエラは自分の言い聞かせた。
【ほらほら、ワンワン。ワーンワン。アッハッハ!!】
「――っ!!」
計画通り、九尾の力を操れているのがよほど嬉しいのだろう。
イリーナは子供のように魔力の塊の中ではしゃいでいる。
馬鹿にされている事がわかっていてもネロエラは言い返せない。
歯を喰いしばり、逃げ回るしか今の自分にはこの場での最善が思い付かない――!
【ほらほら、アナタを見捨てたお仲間ノヨウニ無様に逃げ回りなさぁい? 聖王女の遊び相手ニナレルヨウ、に、頑張らないと、ねぇ?】
『こ、の――!』
エリュテマ達を侮辱した怒りが恐怖を塗り替える。
ネロエラはイリーナを睨みつけて――
【はい、いい子】
『……ぁ』
何とか平静を保とうとしていた心が怒りによって判断を狂わせる。
いつの間にか目前まで迫っている一本の尾。
イリーナに怒りを込めて視線を向けたその一瞬を狙われ、側面から巨大な尾が。
尾の形をした魔力は容赦なくネロエラの体に叩きつけられ、ネロエラの体は横に吹き飛ぶ。
叩きつけられた衝撃でネロエラの体は地面を跳ね、やがて滑るように体が投げ出される。
「か……うぶっ……! うおえ……!」
血統魔法が解除され、人間の体へと戻ったネロエラはフェイスベールの下から血を吐く。
……ネロエラは自分で思っているよりもギリギリで逃げていた。
崩された精神をたった一本の細い糸で繋ぎ止めながら逃げの一手で時間を稼いだところに、再びネロエラの心を揺らすような言葉で隙を作らされてしまう。
普通ならば無視できただろうが、相手は鬼胎属性。
その魔力を乗せた声は彼女を知らない内に蝕み、その心に届いてしまった。
(ここまで、か……馬鹿な、女にはお似合いの結末だな……)
震える細腕で自分の体を起こしながら、ネロエラは自分の最後を悟る。
どれだけの時間を稼げたのかはわからない。
先程逃がしたジェイフや町の警備の避難誘導で今頃、オルリック領の人間は逃げ出しているはず。
避難の態勢が整うくらいの時間は稼げただろうか。
考えながら、ネロエラの視界が赤く染まる。頭からの流血が目まで落ちてきた。
だが、まだ立てはする。鍛えていた甲斐はあったなと自嘲気味にネロエラは笑った。
【エット? 遺言はもう伝えたんダッタワヨね?】
こちらまで九尾の魔力が歩いてくる。その中からこちらを見下ろしているイリーナの声はネロエラの最後を告げていた。
「ああ……」
その声にネロエラは短く答える。
これが自分の出来る精一杯。ネロエラは受け入れたかのように立ち上がる。
【さようなら"魔獣……ああ、もうただの令嬢ですわね。さようなら、ただの令嬢。ワタシの前に立つのは、ただの犬には荷が重かったですわね?】
九尾の魔力が前足をネロエラに向かって引き裂くように振るう。
空気は震え、魔力で見えぬ爪の一撃に。
ネロエラはその霞む視界でその一撃を待っていると――
"ワオオオオオオオオオ!!"
咆哮と共にイリーナとネロエラの間に飛び込む白い影。
九尾の一撃はその白い影を引き裂き、飛び込んできた白い影は地面に倒れる。
ネロエラは目の前で起きたその光景を見届けてしまう。
霞む視界は一気に広がって、倒れた白い影にネロエラはゆっくりと視線を落とした。
「…………カー……ラ……?」
目の前で力無く倒れたのは最も長く連れ添った友の体。
ネロエラが視線をやると一人と一体の目が合う。カーラの瞳には体に走る苦痛も怪物に対する恐怖も無く、ただネロエラへの慈愛を湛えていた。




