18.過去に置き忘れたもの
「カーラ……珍しいな……」
ジェイフと今後の予定を確認し合ったネロエラは湯浴みも終えて、用意された客室で休む所だった。
珍しく詩的な友人の遠吠えに耳を澄まして、鏡の前で髪を拭く。
結局……水浴びの時に感じた嫌な予感はあれから感じ取る事はなかった。
それともロードピス領の異変があの嫌な予感の正体だったのだろうか。
流石オルリック家というべきか客室の豪華さはタンズーク家と比べ物にはならない。置かれた調度品はどれも高級そうで、壁には黒髪の女性の肖像画が掛かっている。
今座る椅子もソファも、用意されたベッドも何もかもが柔らかく、飛び込めばどこであろうと寝られそうだ。客車の中で揺られていたネロエラ達には特に嬉しい。
残った執事と使用人にまるで屋敷の主のように扱われており、ルクスからの信頼と申し訳なさで恐縮してしまうくらいだった。なんとか風呂の世話だけは遠慮して貰えたのがネロエラにとっては救いだろうか。
「余計に気を遣わせてしまったな……」
置かれてあるランプの温かい光がネロエラの真っ白な肌を照らしている。
濡れた白い髪をゆっくりと拭きながら、ネロエラは外から聞こえてくる遠吠えに耳をすませた。
幼い頃から聞いている友人の声。感傷に浸っているような感情が伝わってくる。
まるで母の子守歌のように、はたまた父が読み聞かせてくれる絵本の朗読のように心地よく。
無論どちらもしてもらったことの無いネロエラの想像でしかないのだが。
「……」
そんな友の遠吠えの心地よさを台無しにするものが鏡の中に映る。
鏡の中にいるのは湯浴みを終えた自分ではなく、男装していた時の姿の過去。
ネロエラが一人になった時にしか現れないこれは、きっとただの幻影なのだろう。
頭の中ではそうわかっていても、ネロエラはそんな過去を直視することは出来なかった。
"嘘つき"
鏡の中にいる過去のネロエラが今のネロエラを睨みつける。
過去の自分が今の私の何がそんなに気に入らないのか、ネロエラにはわからない。
"卑怯者"
何も卑怯な事はしていない。
昔の自分が今の自分を妬んでいる?
――いや、きっとそうじゃない。
恐らくは、ネロエラにとって無視してはいけない過去からの言葉が聞こえ続ける。
耳を塞ごうとして、ネロエラはその手を止めた。
"あなたが狼?"
笑わせるわ、と言わんばかりに鏡の中の自分が鼻で笑う。
昔の自分は周囲全体を敵視していて刺々しい人間だった自覚はあるが、ここまでひどいものだっただろうか。
"小狡いだけの野良犬が、ハリボテを演じているだけでしょう?"
ずきり、とその言葉はネロエラの胸の奥に突き刺さる。
過去の自分から届く残響が何かを訴えている。
こんなのは自分の創り出した空想だ。自分の中の無意識な違和感がそうさせているだけ。
……だとしたら、ハリボテとは一体何の事だろう。
何が不満なのか。何に違和感を抱いているのか。
鏡の中に過去という形で映し出される何かに心当たりが全くなかった。
"馬鹿な女。目を逸らしているだけなのに変わった気でいる"
過去の自分が牙を剥き出しにして今の自分を嘲笑ってくる。
鏡の中にしか現れない過去は一体今の自分に何が言いたいのか。
自分は間違いなく変わったはずだ、とネロエラは思う。
今は親友のフロリアすら利用していた殺伐としていた頃に比べれば、友人と呼べる人達がいて、その友人達に信頼されて、誰かを信頼できる自分がいる。
こんなにも幸福な未来を想像する事は出来ていなかった。
ずっとずっと、醜いと言い続けられると思っていた子供の頃。自分を守るために男装までしていた頃には想像も出来なかった世界がここにはある。
そんな風に今を思い返すネロエラに呆れたように鏡の中の過去がため息をつく。
今を軽蔑する過去の瞳が鏡の中からネロエラを射抜くように見つめて――
"せっかく貰った大切な思い出も恋も全部……台無しだ"
自分にとって何よりも大切な記憶すらも持ちだして今を馬鹿にした。
その怒りからか、がたん、と椅子を蹴り飛ばすようにしてネロエラは立ち上がる。
睨む先の鏡の中からは過去の自分はすでに消えていて、怒りを露わにするように牙を剥く今の自分しかいなかった。
「はぁっ……! はぁっ……!」
有り得ない。有り得ない。有り得ない。頭の中で繰り返す。
いくら殺伐とした過去であっても自分が、ネロエラ・タンズークが一番大切にしている記憶を持ちだして今を批難するなど有り得ない。
一体自分は何を取りこぼしてしまったのか?
幸福だと思う日々の中に、何かが足りないと考えているのだろうか?
幻影を生み出して自分を悩ませるほどに、空っぽにしてはいけない何かがあるのか?
ネロエラが答えを求めて鏡を見ても、過去の自分はもういない。
今の自分に突きつけるだけ突き付けて消えていく。
「――卑怯者め」
ぱっと口に出た言葉が鏡の中の過去が今に向けて言っていた言葉と重なる。
それは偶然でしかなかったが、今と過去の発する言葉が重なって……ようやく自分が何かから逃げている事を自覚した。
自分が一体何から逃げたのか、それとも今も逃げているのか。
「オオオオオン」
「……流石に、やめさせないとな」
歌うように響き渡るエリュテマの遠吠え。
夜ももう少しで深くなる。ネロエラにとっては珍しく詩的になっている友の遠吠えだが、この屋敷にいる使用人にとってはあくまで魔獣は魔獣……こう何度も聞かされていては気が気でないだろう。
ネロエラは用意された寝間着を纏って庭園に入りエリュテマ達の下へと向かう。
友の遠吠えも牙を照らす夜の月も、ネロエラの疑問には決して答えてはくれない。
……否。ネロエラ自身が気付いていないだけだった。




