15.変わりゆく空気
「あはは、ヒルドルやめろ! 水浴びをしていいとは言ったが私に飛ばすな!」
「ワオオ! オオ!」
「フロックも悪ノリするんじゃない!」
「キャフ! キャフ!」
ドラーナを発ち、オルリック領に向かう途中の川で四匹のエリュテマが水浴びに興じていた。
隣国ガザスとマナリルを隔てる山から流れる川であり、季節を考えれば水温はかなり冷たいが……雪国暮らしのエリュテマにとっては適温のようなもの。
エリュテマを纏めるネロエラも近くで見守っているが、一部のエリュテマは水を冷たがるネロエラをからかうように体を震わせてわざと水を飛ばす遊びをしていた。
(可憐だ……)
客車の脇に腰を落としてジェイフはそんなネロエラ達を眺める。
彼の最大の不運はネロエラが彼の好みである小柄でかつ年上の女性であった事だろう。
最初のほうこそ牙が気になったが、この一か月で慣れたせいか全く気にならなくなっていた所に先日のアルムへの恋心を吐露する姿を見て、彼は完全に虜にされてしまった。
上司として頼りがいのある仕事中の姿に話す時のたどたどしい口調は可愛らしいギャップに映り、エリュテマと生足をさらけ出してはしゃぐ姿など今の彼にとってはたまらない。
「あー……相手が悪いとはこういう事を言うのかぁ……」
そんな意中の相手の矢印がよりによって救国の英雄に向けられているのか。
いや、ジェイフとて不思議がっているわけではない。ネロエラはその救国の英雄と同級生でその上友人なのだからむしろおかしくない立ち位置だ。
だがそれでも先日、自覚してしまった身としては恨み言の一つや二つ……いやいくらでも言いたくなる。
――アルム・カエシウス。
十年前、カンパトーレの計略によって都市一つに匹敵する大規模な"自立した魔法"の侵攻を食い止めたマナリルの英雄。学生時代から築いた功績によって平民でありながらマナリルの頂点カエシウス家に婿入りし、今はベラルタ魔法学院の特別講師となって優秀な魔法使いを数えきれないほど世に送り出している魔法使い。
現実離れした功績と経歴にプロパガンダを疑われそうだが……その実力と功績から敵国カンパトーレからは"魔力の怪物"という危険指定に、友好国であるガザス王家からは専用の勲章を与えられているなど他国の評価と当時の人間と記録がそれら全てが真実だと物語っている。
(これに誰が勝てるっていうんだ!? 四大貴族にでもなれというのか!?)
ジェイフは内心で叫びながら頭を抱える。
こんな馬鹿みたいな経歴を持った男から振り向かせるなど、どうしたらいいか見当がつかない。
片やマナリルの英雄、片や平均的な一般魔法使い。
実力や経歴では敵うはずもない……が、先日ネロエラに語られた人物像から人間としても怪しい。
唯一にして最大の救いはアルムが既婚者という点のみだ。相手とくっつかれて何もできずに失恋というパターンだけは無い。
「こんなの物語の人物と戦うようなものじゃないか……」
ジェイフ・キャステレが初めてアルム世代の話を聞いたのは十一歳の時だった。
南部の若い貴族の間では有名な美談……まだアルム世代などと呼ばれてもいない十年以上前、ローチェント魔法学院で起きた事件の際に彼はローチェント魔法学院に通っている姉に会うためにダンロード領を訪れていた。
当時、十一歳だった彼が見たのは遠くに見える炎と灰に黒が渦巻く魔力の柱。
自分が行くはずだった方角で起きている超常の戦闘の余波を見て、当時の彼は恐怖で泣きだした。
幼いながらも、見える黒い魔力から圧倒的な力と恐怖を無意識に感じ取っていたのだろう。
全てが終わった後、姉は無事だった。
泥と血、灰で制服は汚れていたが大きな怪我はない。
だが幼い彼にもローチェント魔法学院でどれほどの事が起こったかは理解できた。
なにせ校舎は半壊していて……文字通り半分崩れ落ちているのだ。
姉を含めた生徒達の半分以上も怪我をしていて、まるで災害でも起きたかのよう。
どんな戦いがここで起きていたのか幼い彼には想像する事も出来なかった。
「助けてくれたの。ベラルタ魔法学院から来た女子生徒が。あれで同い年だってんだからすっごいわ」
しばらくして、姉が帰省した時にしてもらったその話を聞いてジェイフはその場でしかめっ面をしてしまった。
ジェイフは元々ベラルタ魔法学院にいい印象を抱いていなかった。
顔を合わせる機会の多かった同い年の友人達に、姉がローチェント魔法学院に行った事を馬鹿にされていたのが気に食わなかった。
――去年は平民も入学できたくらいなのにな。
そう言われて、大好きな姉を馬鹿にされたのが許せなかった。
ベラルタ魔法学院を恨むのは間違いだったが、まだ十一歳だった彼は引き合いに出されるベラルタ魔法学院も敵視してしまっていた。
「ジェイフ……私の友達がね、すごい変わったのよ」
姉が嬉しそうにそう言ったのをジェイフは今でも覚えている。
「本格的に治癒魔導士を目指すんだって……夢が出来たの。ずっと暗めで落ち着いた子だと思ってたのに、今は暗くなる暇すら無いってくらい。あの人の事を支えられるようになるんだって、あんな事があって死にかけたのにむしろ今のほうが元気なくらいなの。凄くない?」
ローチェント魔法学院はベラルタ魔法学院に落ちた奴等の集まり。
心無い南部以外の貴族からそう囁かれるローチェント魔法学院……そんな悪意ある評判を聞いて、生徒達の中には貴族としての将来を悲観してしまう者もいる。姉の友人もその一人だった。
「私達はあんな"魔法使い"にはなれないかもしれない……でもね、そんな私達でもやれる事があるんじゃないかって、ね。はは、私の柄じゃあないけどさ?
当たり前の事だけど、くさってたってなーんも変わらない。あの日震える体を必死に動かして私はようやくこう思えるようになった。結果的には何もできなかったけど、それだけは間違いない。
…………だから、だからねジェイフ?」
ジェイフを見る姉はそこで言葉を止めた。何かを思い出しているようだった。
きっと自分を助けてくれた誰かを思い出していたんだろうと、当時の彼でも容易に理解できた。
それだけ、ローチェント魔法学院を救ったベラルタの女子生徒は姉にとっても鮮烈だったのだろうと。
「大勢を救う立派な魔法使いに、なんて言わない。けど……自分の出来る事からだけは逃げない男になりなさいね」
晴れ晴れとした顔で頭を撫でてくる姉を見て彼は唇を噛んだ。
それはどうやっても晴らせなかった、大好きな姉の心の底からの笑顔だったから。
姉から差し出された小指と指切りをして……その約束を守り続けるためか、ジェイフ・キャステレは何事にも全力で臨もうとする青年へと成長した。
「臨時補佐の期間中にせめて……舞台に上がれるくらいには……!」
ジェイフが今回の任務で魔獣輸送部隊アミクスの臨時補佐に選ばれたのもその姿勢が評価されたからこそ。周辺調査という分野においても彼の人柄は向いている。
ジェイフにとっての最大の幸運は愚直に守り続けてきた結果、こうして臨時補佐という機会を得られた事であろう。
しかし……この一か月で打ち解けはしたが現状は仕事上の関係でしかなく、勝負の舞台にも上がれていない事に自覚はジェイフにもあった。異性として意識されるなど程遠いという事も勿論承知だ。
なんとか、なんとか臨時補佐として自然と近くに入れるこの任務中に出来るだけ距離を詰めなければとジェイフは固く決意した。
「ジェイフ……?」
「はいいいいいいいいいいいい!?」
そんな決意に拳を握り締めていると、ネロエラが顔を覗き込んできてジェイフは勢いよく立ち上がってしまう。
その過剰すぎる反応にネロエラはびっくりしたのか目を見開いており、水浴びを続けているエリュテマ達もジェイフのほうに目を向けていた。
「ど、どうした、お、驚かせた、か……?」
「いえ! なんでもありません!! 少し気合いが入り過ぎていたみたいでして!!」
「そ、そうか……やる気があるのは、いい事、だが……。休憩の時は、しっかり休まないと駄目、だぞ」
「了解です!!」
つい背筋を伸ばし、部下としての反応をしてしまったのを悔いる。
いくら上司とはいえ、関係性を変えるならばもう少しフランクな雑談のように受け答えしてもよかったのでは、ともう遅い後悔がジェイフの胸の中で渦巻いた。
「ふふ、お前はいつでも、馬鹿みたいに真面目、だな」
その後悔もネロエラが小さく微笑むだけで吹っ飛んだ。
フェイスベール越しではあるが、その笑い声にジェイフの表情が少し緩む。
「……ネロエラ隊長」
「なん、だ?」
「その……」
だから、つい――踏み込んだ事を提案してしまいそうになって。
「……!」
「……? ね、ネロエラ……隊長?」
ジェイフの喉から言葉が出かかった時、ネロエラの空気が一変した。
休憩時間での緩みはすぐに消えて、その表情は何かを感じ取ったのか緊張感が伝わってくる。
(なんだ……? 空気が変わったような……?)
しかし周辺に異変は無い。ネロエラは水浴びしているエリュテマ達のほうにも目を向ける。
カーラとスリマはネロエラの変化に気付いて周囲を警戒しているが何も嗅ぎ取っておらず、他二体に至っては追いかけっこを続けていた。
過敏になりすぎか、とネロエラは自分の中で結論を出して一先ず置いておく。
「ジェイフ、支度しろ」
「はい!」
ネロエラはタオルで足の水気を拭き取り、急いで靴下と靴を履く。
ただの気のせいならいいが、今向かっている場所に万が一何か起きていたら急がなければいけない。
「オルリック領、へと、急ぐぞ」
水浴びしているエリュテマ達にも合図を出すとすぐに水浴びをやめてネロエラの前へと集まってくる。
ジェイフがエリュテマ達の体を軽く拭いて、国章が刻まれたスカーフを四匹の首に巻かせると客車は再び走り始めた。
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