7.伽藍堂の聖王女
カンパトーレ首都フォビドゥン。
フルート宮殿の凍り付いたような水晶の大広間に人々は集まっていた。
このような場所に平民が集まるのは貴族の地位が特に強いカンパトーレでは特に珍しい。
理由はともかく、何の集まりかは明白だった。
その大広間に集まった人々は蛇を模したタトゥーを入れていたり、蛇を模した装身具を付けていたり……とある魔法生命を崇めていた名残がどこかにある。
十年前、神となって全てを支配しようとしていた大蛇の"現実への影響力"を上げるべく、カンパトーレが国全体を挙げて蛇神信仰を布教させた名残が今もなおこの国には残っていた。
もうこの世界からは消滅した大蛇を模した偶像に縋り、カンパトーレの栄光を望む民はまだまだ多くいる。
この一か月、マナリル北部に送られた偵察員も全員蛇神信仰の残党であるくらいだ。
今この宮殿にも五十人近くのまだ蛇神信仰を信じる者達が集まっている。
「イリーナ様からのお話とは一体何だろうか」
「こんな宮殿に俺達が入っていいんだろうか……」
「私達の信仰が実を結んだのかもしれないわ」
集められた理由には一切心当たりの無い平民達。
しかし、貴族のパーティで使われるような宮殿にいても物怖じしている者は少ない。
それは信仰を同じくする仲間と一緒に集まり、自分達を集めた貴族もまた同じものを信仰しているという身分を超えた信頼があるからだった。
……自分達が信仰していたもののおぞましさを知っているかどうかはともかく、信ずるという行為そのものは良くも悪くも純粋と言えよう。
「いらしたぞ!」
宮殿の扉が開き、青いドレスを纏った女性とその一歩後ろを歩く着物を着た男性が現れた。
ざわざわと騒がしかった宮殿の大広間はその二人の登場で一気に静かになる。
「後ろの方は誰だ?」
「おい、静かにしろ。イリーナ様の御前だ」
現れた女性はイリーナ・ペレーフト。この宮殿に平民を集めたカンパトーレの上級貴族である。
潤んだように艶のある金の瞳に神秘的な白髪を揺らし、その楚々とした佇まいに見惚れる者も少なくない。
艶やかなドレスですらその無垢さを飾るためのものでしかなく、自分達を統率するのがこのような美しい貴族である事に集まった者達は胸の奥に湧き立つ者を感じていた。
「よくぞ集まって下さいました、同胞の皆さん」
集められた平民達の前に立つと、イリーナは笑みを浮かべる。
大きく手を広げ、集まった全員を抱擁するかのような声が耳に染みていく。
同胞。今この御方は平民である自分達を同胞と呼んだのか。
身分ではなく信じるものが同じという一点に寄り添うようなイリーナの言葉につい目を潤ませてしまう者までいた。
氷を模した宮殿だというのに、あまりにも温かい時間がこの場には流れている。
「私達は身分こそ違えど、神となる超常を信じる者……この場にいる私達は紛れもない同胞と言えるでしょう」
もう集まった五十人以上の平民達の中からは邪魔をするような声も上がらない。
イリーナの話す一語、一声、一呼吸を聞くために耳を傾けている。
カンパトーレは他国よりも貴族が絶対という考えが強く、平民に寄り添う者などほぼいない。
だからこそ、身分よりも同じものを信じるという一点を重視するイリーナの声は彼等を一瞬で虜にした。
「かつてカンパトーレを支配していた大蛇様はその姿を隠されました……大蛇様の力を宿す楔であり、器でもあった魔法使いがその力に耐え切れなかったがゆえに、マナリルで再び眠りについてしまったのです」
その言葉に平民達の中から驚愕と落胆の声が上がる。
一瞬だけ陰鬱とした空気が広がりかける前に、イリーナはつづけた。
「数年前、器の選定として大蛇様は私達に疑似核を植え付けていらっしゃいました。他六人は力に呑まれ、一人は大蛇様が姿を隠された際に絶命していまいましたが……この私は違います! 今なおあなた達を導くため、彼の神を再び蘇らせる者としてここに生きている!!」
平民達の空気がイリーナの笑顔と共に一変する。
落胆はすぐに期待へ。羨望の眼差しが向けられた。
「そしてあなた達だけではありません! カンパトーレを! 大蛇様がお隠れになってから腑抜けてしまったこのカンパトーレを真の姿に! 私が! 彼の神と共に導く! 互いにけん制し、自らの今の地位だけを守るだけの貴族達を排斥して!!」
「ああ、大蛇様の聖なる力を宿せる御方……!」
「聖女……いや聖王女……」
「聖王女イリーナ様! あなたこそ! あなたこそ!!」
イリーナを讃える声が上がる。
平民の身から見ても堕落した祖国の貴族……その現状を憂い、前へと進む言葉をくれる唯一の存在が目の前にいる。
その事実に高揚した平民達は口々に繰り返す。
聖王女! 聖王女!
隣国で聖女と呼ばれる魔法使いのさらに上を行く存在にならんと願って。
そんな平民達をイリーナは手で制止すると、ぴたりと声が止んだ。
「ですが、私だけでは彼の神をここに呼ぶ力はありませんでした……私は器として彼の神を宿す事はできても、かつての巫女のようにお呼びする事だけはできなかったのです」
一筋の涙を流すイリーナに同情の表情と声。
信じるものが同じと親近感を植え付け、聞く者に欲しい言葉を与え、感情を煽る……この場の空気はもはやイリーナの思い通りだった。
「私の力の及ばなさに嘆いておりましたが……人は一人ではありません。器である私の役目とは他の呼ぶ役目たる方もいらっしゃるという事。それに気付かせるための試練だったのでしょう。
そこで、常世ノ国から同じように今の世を憂いている魔法使い……彼の神をお呼びする事の出来る協力者を招き入れたのです!!」
「初めまして同胞達。今回の大役のためイリーナ様に迎え入れて貰ったキヨツラ・ヤコノと申す。同胞達の願いを叶えられる役目を頂き光栄だ」
イリーナの後ろにいた着物の男は濃い青髪を揺らしながら堂々と名を名乗る。
当然、その協力者の紹介に平民達は湧き立った。
男の名はキヨツラ・ヤコノ。数十年前から魔法生命の組織コノエの運営に携わっていたヤコウ家を遠縁に持つ常世ノ国の貴族であり、先日常世ノ国で失踪したとされているヤコノ家の当主。
未だ常世ノ国国内で捜索がなされている中、本人は海路を使って秘密裏にカンパトーレに到着していた。妻子と共に平和に暮らす現状にすら満足できずに。
「さあ、共に祈りましょう。彼の神の復活の為、より一層の信仰を捧げるために」
イリーナはキヨツラに視線を向ける。
キヨツラは頷いて、自身の血統魔法を唱えた。
「【阿倉空暗】」
水晶の宮殿に響き渡る重なる声。反響する魔法の名。
渦巻く魔力が召喚の魔法式を描いて、キヨツラの背後に巨大な建造物が現れる。ここがカンパトーレ屈指の宮殿だからこそ収まっていて、天井に届きそうなほどの大きさだ。
その建造物は常世ノ国の様式で作られた強固な倉そのものであり、両開きの扉が魔法である事を証明するかのようにひとりでに開いた。
「さあ私に続いてください同胞達。共に届けようではありませんか」
イリーナが率先してその倉の中へと入っていく。
平民からすれば魔法は身近なものではなく、真っ暗で中の見えない空間に恐がって躊躇するのだろうが……イリーナが先に入っていったのもあって集まった平民達は続々と続いていく。
五十人以上集まった平民達が全員倉の中に入ったのを確認してキヨツラは手を叩く。すると、倉の扉はゆっくりと閉じていった。
水晶の宮殿にそびえ立つ異国の建造物。傍らには黙って立っている着物姿の男。
何ともミスマッチな光景だ。光を反射して煌びやかな水晶の宮殿が先程とは打って変わってしんと静まり返る。
そしてしばらくすると――その倉の扉が開かれた。
「……終わったか」
「ええ、終わったわ」
倉の中から返ってくるイリーナの声。
開かれた扉から歩いてくるイリーナは白い髪が真っ赤に染まり、青いドレスは赤黒く変わっていた。
イリーナが歩くと宮殿の床には赤い跡がついて、水晶の煌びやかさを怪我していくかのよう。
「やっぱり、首都は人が多くて助かるわぁ。一気に五十二人も……ここ数年の苦労が嘘のようよ」
血に濡れた靴でイリーナは軽やかにステップを踏む。
上機嫌に鼻歌を歌いながら回って、濡れたドレスは重たく翻った。
その頬の紅潮は上機嫌だからか、はたまた浴びた返り血のせいか。
「解除」
キヨツラが血統魔法を解除すると倉が消滅する。
その瞬間、中でブラッドバスとなっていた倉から大量の赤い液体が床にぶちまけられた。
五十人を超える平民達の血が流れ、引きちぎられたような肉片がその流れに乗って転がっていく。
カンパトーレの誇る煌びやかな水晶の宮殿は一瞬にして猟奇的な血の海に変わった。
「後何人かね?」
「もう二十人ほど……もうここまで来れば消化試合。ああ、本当に長かったぁ……十年前に血統魔法を継承してからずっとずっと、色んな人に生贄になってもらって……懐かしさすら覚えるわ。ようやく報われるのね、ようやく彼の神をこの身に迎え入れる事ができるのね……!」
十年前、イリーナは両親の推薦で大蛇の疑似核を植え付けられた。
他の者のように精神汚染される事無く、大蛇に支配される事も無く今日まで在り続けた生き残り。
彼女には魔法生命の楔たる宿主の器が確かにあった。
「ではこの国でもう十人ほど……後は移動しながらでよいだろう」
「ええキヨツラ。しっかりとこの私を支えなさい」
「無論だ。自分も貴様に賭けている。我が国、常世ノ国の現状が許せぬ。あまりに腹立たしい。約束は覚えているな」
「あの常世ノ国の王を名乗る魔法生命を殺す、でしょう?」
この二人の間に結ばれた契約は単純だった。
イリーナは魔法生命を呼ぶことを望み、キヨツラはその力で魔法生命でありながら常世ノ国を統治しているモルドレッドの排除。
共に祖国の現状に不満を抱き嘆いた結果、歪んだ凶行に走らせる。
「相手は"最初の四柱"……本当に出来るのだな」
「できるわ」
イリーナは断言する。
その確信にキヨツラも賭けていた。
「彼の神なら必ずやこの国を、あなたの国を、そしてマナリルを……この世界を変えてくださる……! 紛い物でも亡霊でもない、本物の力で」
イリーナは恍惚の表情を浮かべ、血塗れのまま天を仰ぐ。
血塗れでなければその女の美しさは舞い降りた天女のようだったかもしれない。
よく見れば、その女には蛇を模したタトゥーも装身具も身に着けてはいなかった。
ちなみにこの世界にバレンタインはないです。