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朝日がアスパラの中まで染み込んでくると、天井は緑色の天蓋になった。かつてどんな空も一度だってこんな色に染まったことはない。「街」を歩く人間は活気に溢れていた。建設作業員だらけの時代はとっくに終わっていたらしい。ハンマースは朝食を食べる習慣はなかったが、せっかく用意されているので食べることにした。机をかついで下に降りると市長とユボットは先に来ていて、テーブルの上は皿の置き場に困るほどだ。三人はフライトに備えてアスパラ内部のホテルに先乗りしていた。机は泥を落として汚れをふいてやり前より綺麗になっていたが、相変わらず反応がない。
アスパラの発展は充分堪能した。地上とほとんど変わらず、地上以上になっていくのだろう。それがよかったかどうかは次の世代が検証することで、三人は興味を失っていた。
「明日出発か。これ飛んだらもう思い残すこともないな。」市長が静かに言った。
「まだ宇宙が残ってますよ。それまで長生きしなきゃ」
「さすがにそれは無理だろう」ユボットの冷やかしに三人は笑ったが、市長の顔は若々しさを取り戻していた。「机はもうしゃべらないかもしれないな」ユボットもすっかりおだやかになっていた。
顔見知りになってしまった案内係りが足音を消して三人のテーブルにやってきた。「ちょっとご相談が」
「なんだ? 悪い知らせか? ずいぶん深刻そうだな」
三人はうながされてホテルの一室へ移動した。朝から悪い知らせを持ってくるバカがいるだろうかという気持ちである。案内係りは怒っているようにも見えたが、三人ともまったく心当たりがない。
「実はですね、港は大混乱になっているのです。」案内係りは鍵のかかった部屋に入ってなお声を一段潜めて言った
「なに、何があった?」市長は立場を思い出したように返事をした。
「大量のですね、蟹がですね、発生しているらしく」
「蟹? そんなのよくある話だろ。たまには大量発生もするさ。港からしたらありがたいぐらいだ! 漁業制限ってやつだろ?」ユボットが声あげた。
「ほんとにそうだ。私もこの前机助けたとき蟹みたよ。あの山の斜面で」ハンマースは言い終わってから自分が失敗したことに気づいた。案内係りの目はすでに罪のない人間を縛り上げる色に変わっていた。攻撃対象を決めたのである。
「もう、そんな、笑い話のレベルではないのです。蟹で家が埋もれているのです。」
「大量発生だからな」市長があざけるように言った。
「これをみたら言葉を失うと思いますよ。」そう言って案内係りが用意した映像を見ると、一軒どころの話ではなかった。蟹がつもっているのだ。あたかも、この冬つもった雪と同じぐらいの高さである。空から休みなく蟹がふってもこうはならないだろうという量だ。赤い小石を積み上げたようでもあるが、その一つ一つが生きているのだ。たまに色が濃かったり薄かったりするのもあるが、そのすべてが顫動している。
「これじゃドアも開けられない」市長が呆然として言った。
「そうです。港の人間は外にも出られません。閉じ込められた状態です。しかも、どうやらまだまだ増えている様子です」
「車で蹴散らすとかショベルカーとかダンプカーとか港にだって一台くらいあるだろ? なんならガソリンまいて火をつけるとか」ユボットの弱々しい声は作戦負けを悟っている。
「車や重機は敗走しています。ガソリンだってこの量が相手では焼け石に水です」
「なんと」市長は絶句した。ハンマースはもう何もしゃべらないと心に決めていた。自分はいつもかしこいつもりで、誰よりも要点を押さえて話をすることができると思っていたが、どうやらそれは勘違いだったらしい、ずいぶん長い間勘違いしていたものだ、沈黙は無敵である。「フライトは明日だよな。予定通り飛ぶんだろ? それでよそに助けを求めるしかない」市長は気を取り戻して力強く言った。
「我々もそのつもりです。そこでひとつご相談が」
「なんだ、早く言えよ」ユボットの物言いは完全に勝負づけが終わったかのようだった。十年たっても百年たっても差が埋まらないというやつだ。悪気がなくても口が悪いのは直しようがない。
「あなた方が持っているその机、我々はその机の処分を求めます。嫌だというなら力づくになってしまう。理由はあなた方三人ならわかるはずです」
「すまんがさっぱりわからん」市長が言った。
「この港で起こるさまざまな奇妙なことはその机が始まりだと考えます。その机が処分されれば蟹の問題も解決されると我々は思っています。根拠はないが、気分の問題です。おそらく、そうすれば蟹も海に帰るでしょう。」
三人は黙って聞いていた。笑い飛ばさず視線を合わせず考えていた。
「できれば返事は今すぐほしいです」
「今すぐは無理だよ」三人は声を合わせた。「いくらなんでも少しは考えさせてくれ。明日のフライト前に返事する。蟹だって明日になれば海に帰るかもしれんだろ」ユボットが三人を代表して言った。
「今すぐじゃだめですか?」ユボットの意見は一定の効果をみせたが、案内係りはなかなかしぶとい所をみせた。手柄が欲しいのか急かされているのか分からない。あるいはもっと事態は深刻なのかもしれなかった。「だめだ。明日だ」市長はこれ以上交渉しないという決意を見せると案内係りは帰って行った。
「さて、どう思う?」かつて市長に意見を求められてこんな重苦しいことはなかった。
「あの連中の頭の悪さには吐き気がする」ユボットの悪口にも冴えがなかった。これがちょっと前なら三人は即座に追い返したことだろう。横っ面ひとつひっぱたくぐらいのこともしたかもしれない。微妙な変化を一番感じているのはハンマースだった。
「こいつがもう一度口を口をきいてくれたらいんですがね」ハンマースはあきらめきれなかった。「蟹は人間を襲ったりはしないでしょう? なら別に」
「今夜のうちに逃げるか?」
「市長、俺たちゃ何も悪いことしてないですよ。堂々といきましょう。ハンマース、まさかとは思うが、奴ら襲ってくるかもしれん。気をつけてな。」
「鍵を閉めることぐらいしかできないさ」
三人は肩を落として歩いた。少しでも下に降りて港の様子を見に行きたかったが、厳重に封鎖されていた。モニター前では、アスパラの住人達が群がって、映し出された港の様子を見ていた。
「バッタでこういうのはあったが…」
「自然は多産であるが、これは病的だね」
「あいつらは共食いしないんだな、たいしたもんだ」
集まっている人間はほとんどが港の外から来た連中らしかった。彼らの表情は貴重なものを見ている喜びと興奮がはっきり浮かんでいて、お互いの表情を確認する喜びはほとんど淫らと言ってよかった。三人とも自分が港にいれなかったことが恥ずかしく、悔しく思った。




