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星空のビーチコーミング  作者: 上高田志郎
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 男が市長になってから三十五年の月日が流れていた。彼は第二の、いや第三の人生を考えていた。

「わたしはそろそろ市長をやめるよ」

「別にもうちょっとやってくれてもいいんですよ、いやになりましたか?」

「いやになんてなるもんか。ただ三十五年も市長であり続けたことにはほんとうに感謝してるんだ。この仕事がどれだけ素晴らしいか、若い人に譲りたくなっても不思議じゃないだろ。おかげさまで十分貯金もたまったよ、ほとんど使うひまもなかったからね。ゆっくりするんだ、これからは、しばらく」そういって彼は質素な五階建ての市庁舎の屋上に上がっていった。階段の踊り場から見える山の斜面の緑色に彼は満足していた。昔はあの斜面に入り浸っていたものだ。エスカレーターもエレベーターも必要ないよなと心の中で笑いながら、しかし、実際、この歳になると、考えていることは表情に表れてしまうのだ。

「市長、どうしたんですか? なんかいいことありました?」階段を下りてくる職員が笑いながら声をかけてくる。

「なんで? どうした?」

「だって市長、笑ってますよ」

「ああ、ちょっとな」

 みんな働き者でいい奴らだ。実際、今ここで働いている人間の誰かが自分に向かって市長をやらせてほしいと言えば、喜んで返事をするだろう。礼儀正しい彼らは、市長から指名するという伝統を尊重してくれているのだ。そうしてみると、たまたま自分に声をかけてくれた前の市長はずいぶん思い切ったことをしたものだ。

 階段をゆっくり歩きながら上に上がっていくと、人気もなくて、影ができている場所は思いのほかひんやりとしている。改めて太陽の偉大さを感じながら彼はドアを開けた。

 ドアを開けると風の吹きこむ音それ自体が羽ばたいているようだ。薄目になりながら空の青さに手をかざした。

「なんだ先客か? あんまり仕事をさぼってちゃだめだよ」

「市長、まさか! ちゃんと休憩中ですよ。」

「そうか! それならいいんだ!」柵に近づきながら彼は次の市長をこの男にやらせようと決めていた。

「どうですか景気は?」

「まずまずだな。良くもなく悪くもなく。それがい一番いいんだ。安定というやつだ。そもそも市長に景気を訊く奴があるか! それも部下がよ!」

「いやぁ、天気のあいさつみたいなもんです。」

 そう言って笑う男はまったく悪びれる様子もなく柵に持たれて町を眺めている。

「なんかあったか、かわったことでも?」

「そうですね…特に何も、しかし、何か大事なことを忘れている気がする。もうちょっとで思い出せそうなんだが、気のせいかな。まぁ、わたしも歳です。最近はこんなのばっかりでやんなる」

「何を言ってるんだ! それじゃ、わしはどうなる!」

「市長は若いですよ、わたしなんかよりずっとわかいでしょう。肉なんざ私より食うじゃないですか。歳を取るたびに若返ってるみたいだ。よく、食って、よく働いて、よく寝る、と。まったくいい人生ですよ。」

「おまえはいい人生じゃないのか?」

「いや、私もじゅうぶんいい人生です。これ以上望みはないですね。とにかく平和が一番ですよ。平和だったら、それだけでほかに望みはないです。後は風邪をひかないぐらいかな。市長はまだまだ現役でしょう、いろいろ噂がでてますけど、近くにいる人間が一番知ってますよ、まだまだ働けるって」

「さぁそれだ! おまえ市長やってみないか?」

「冗談でしょう? 勘弁してくださいよ。まったく、何を言い出すかと思えば、ひょっとしてボケちまったんですか? そんだけ元気なくせに引退しようったってそうはいきませんよ。まだまだ働いてください」

「もうそろそろ休ませてくれよ」

「何言ってんだが。まだまだ全然です。そういや、市長は何歳になったんです?」

「65だ」

「あぁ、それならあと10年は働ける」

「勘弁してくれよ! 殺す気か! おめぇ!」

「ほんとにほんとに。私が保障します」

「保障ったってなぁ…。それはそうと、おめぇ、結婚しないのか? いいかげん一人じゃどうもならんだろう! 結婚しろよ結婚! そろそろ潮時だろ」

「潮時ってなにが潮時ですか。だいたい相手がいませんよ相手が。朝から晩まで働いていつ結婚するんですか?」

「そんなのはいくらでもどうにでもなる。」

「だからどうにでもなりませんよ。」

「相手がいたら結婚するのか? 相手いねぇのか相手は! どっかにいんだろ相手ぐらい」

「まぁどっかにはいるでしょうねどっかには。いたらいいですね。市長、ボケてないですよね?」

「もうボケてるよ。耳は遠くなったし、しょっちゅう体のどっかの具合が悪い。何時間も病院で待たされて診察は三十秒ぐらいなもんでさ。医者が言うには歳だからしょうがないとよ。目の調子も悪いしな、もうどーもなんねーよ」

「歳だからで片づけられるのはたまらんですね。ま、しょうがないんでしょうが。」

 彼は市長に何かを言おうとしていた、会話のさなかにわすれていたことがなんだったのか頭に浮かんできて安心していたのだが、それを再び取り逃がしたことに気が付き始めていた。

「何か言おうとしてたんだが、何だっけ。最近はこんなのばっかりだ。ほんとに市長より私の方が歳ですよ、あれ、何を言おうとしたんだっけかな?」

「ま、そういうことはよくあるさ。そのうち思い出すだろう」

「前にも市長とこんな話をした気がする。というか、市長と私、いつも同じ話してません? 年寄りはなんでみんな同じ話を何回もするんだろう?」

「そうか? 初めてじゃないか?」

「いや、絶対、初めてじゃないですよ。まぁ、それに付き合う私も年寄りなんでしょうが。」

「ところで、おめぇ何歳になる?」

「何歳だろう? 25過ぎたら数えなくなっちゃって、31か2ぐらいだと思いますけど」

「そろそろだな。」

「何がですか。毎日、仕事仕事でそんなヒマないですよ」

「そこまで忙しい仕事じゃないだろおめぇ!」市長はそういって笑顔をみせた。男もつられて一緒に笑った。

「座りましょうか」

「ああ。あー風が気持ちいいな」

「強すぎず弱すぎずですね」

「ほんとそれだよ、強いときはバカみたいに強いからな」

 この港は一年を通じて何回か風の強い日がある。海が近いからしょうがない。どんなに長くても三日とは続かないが、よそから来た人がびっくりするぐらいの風ではある。花たちが首を曲げたように直角に真横を向くさまは風が止んでもしばらく治らないのだが、そんな景色もなかなか悪くないものだ。

「あの花、首がもげそうですよ」

「あれ! ほんとだ、ひでぇもんだな! でもあれもそのうちまともに戻るからな! たいしたもんだよ自然ってのは!」

「そろそろ仕事に戻らなきゃ。」

「ま、考えてみろよ! 悪くないぞ。これ以上の仕事なんてなかなかないと思うな。いい仕事だぞ、何といっても水仕事でも力仕事でもないしさ、俺もお前も体力ある方じゃねぇからな。きれいな仕事だよ、誰にも後ろ指さされない、いい仕事だほんとに」

「後ろ指はさされることはあるんじゃないんですか? 仕事柄。」

「ほかの所に比べたら、ここは静かなもんだよ。よその激しさ見てみろ、よそを、考えられねぇぞ、とてもじゃないけど、俺もよそじゃやれねぇよ」

「確かにそうですね、ほかのところだったら考えられないな」

「今からもう一回よその町で一から働くってことはないだろう? 何かほかにやりたい仕事があるのか?」

「いや、それはないですね、もうありえないですよ、もう、そんな歳じゃないです」

 男がそれを言う頃には体はもうドアに半分かくれていた。市長はベンチに座って手を振っていた。

「ハンマース!」

 彼はドアの向こうで市長が自分の名前を呼んでいるのが耳に届いたが戻ろうとはしなかった。

 ハンマースは頭を下げて階段を降りながら、湧き上がってくる高揚感を認めないわけにはいかなかった。まったくやるつもりなんてなかったのに。後任の市長の話題の最中、自分が市長になるのを想像するのは難しかった。もっとも、それは市長になる想像に限ったことではない。男は年齢とともに、何かを空想、妄想して自分を楽しませる能力が体力の衰えのようになくなっていくのを感じていたからだ。それなのに、自分が市長になることを考えると、まるで子供のころにもどったかのように空想がふくらんでいくのだ。この感覚は懐かしいものだった。

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