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波の音はどこからも聞こえてこない。この満点の星空の下で、さえぎるもののない海上で。波はこの星の呼吸ならば、穏やかに繰り返していなければおかしい。呼吸が止まる、すなわち死である。
馬たちはおとなしかった。あまりのおとなしさに剥製と勘違いする者もいたし、薬を使っているのかと訊く者もいた。車に乗ることが好きな犬や猫がいるように、船に乗ることが好きな馬もいるかもしれない。思い出したようにしっぽを動かすと、逆に作り物に見えてくる。
海面は鉄板のように固そうだった。馬の瞳もまた湖のように静かだった。今にも涙が零れ落ちそうなぐらいの瞳で月に照らされた海面を満足そうに見つめていた。
レース当日、十八頭の馬はすでに島についていた。おだやかな天気はまさに天からのギフトである。観衆は大入りで島からあふれ出そうなほどだった。
「ここまで人間が多いと虫みたいだな。虫とかわらん実際」軽蔑というより感心で市長は言った。「よく分からんが、おれたちが胴元になってるらしい」
「そんな立派な交渉ができるやつがこの港にいるとは思えません」ハンマースも市長もそんな人物に心当たりはなかったが、それが誰なのかは気にしていなかった。
「いちおう、あっちも気をつかっているんだろう。島はわしらのものなのにぶんどった形になっているからな。世間体というやつじゃないか?」
「どれくらいうちらにはいるのかわかりませんでしたよ。パーセントなんていわれてもね。数字が書かれていると、とたんに思考がにぶくなるんです、耳のきこえもよくわからなくなるし、書面にピントもよくあわない」ハンマースはすっかり自信を失くしていた。これが港の中の話なら笑って気にもしないのだが、外の連中と付き合うと途端に自分の愚かさが身に染みてきた。だが、いつもならば、外の連中相手でも港の連中を相手にするようにあしらっていたものだった。
「ないよりはマシさ。少なくたっていいんだよ。もともとなかった金だろ?」市長は心底気にしてない様子だった。ハンマースはそれが羨ましかった。それは市長の個性によるものなのか、年齢のなせるわざなのか、そして、ハンマースは自分が誰かをうらやむのは当たり前のことだが、自分は他人からうらやまれたことがあるだろうかと考えてみて悲しくなっていた。
市長とハンマースはお上の連中が集まっている観覧席でレースを見るつもりだった。それぐらいの図々しさはなくしていなかった。みな立派なスーツを着ていて、上流階級、貴族の集まりといった雰囲気だった。市長は肌着の上に半袖のシャツをはおって近所を徘徊している老人そのものだった。ハンマースはスーツを着ているもののネクタイをしめたことはなく、スーツもお上とくらべると冗談みたいにみえた。お上の連中は来年までに巨大なスタンドを作ること、レースは毎週5レースはやることなど次から次へと利益をだす方法を話していた。ふたりは聞こえてるでも聞こえてないでもような顔をして座っていたが、口を出す機会をずっとうかがっていた。連中があまりにも二人のことをないものとして会話しているので、むしろさそっているのかと思ったのだ。あるいは、それが連中の作法なのかもしれなかった。そんな訳で、ふたりは結局意地でも口を開かなかった。言葉を交わさずとも、目を合わせなくとも、心の動きは似たものである。
十八頭の馬たちはスタート地点にそれぞれ向かっていた。馬券は三日前から発売されて売上はン十億を超えたらしい。港の人間全員が全財産はたいても届かない額だ。
「だいたい地元の馬が出走してないですからね。肩入れできなきゃアツくなるのも難しい。こうなると来年までにうちらも馬を育てなきゃなりません」ハンマースは目を輝かせて言った。「やりますか?市長?」
「無論だ」市長は、競馬用語でいうところのイレ込んでいる状態だった。目の色が変わってきているのだ。
ゆるやかな坂をあえぎながら上ってきている男の登場で周囲に緊張が走った。お上の連中は病気もちの野犬に襲われるのを恐れるように道や席をゆずったが、男は全く気にしていない様子で近づいてきた。
「やっぱりここにいた!二人なら高そうなところにいるとおもったんだ。その後元気かい?」ユボットは預言者のようなあご髭を伸ばしていた。
「久しぶりだな!それにしてもひどい顔だ!これでよだれでもたらしてたら通報されても文句は言えないぞ!」市長は支持者と握手でもするかのようにユボットの手を握った。
「だけど市長がそういうのも無理ないぜ。あんた目の下のくまだってすごいことになってるじゃないか!五分後に死んでてもおかしくない顔しとるぞ。メシくってんのか?ちゃんと寝てる?よく通報されなかったな」ハンマースも続けて握手した。落ち着いた雰囲気を出してはみたが、握手をするのもためらわれた。だがいざ手を握ると熱い気持ちが甦えってきた。再会を喜び、お互い力強かった。
「ただ歩いてるだけでか?確かに人垣は割れる。こんなごった返してるときはちょうどいいんだ」ヒヒヒとぞっとするような声でユボットは笑った。それから、「これよ、これ」と脇に抱えた机を太鼓をたたくように手のひらで叩いた。三人はその場を離れながら会話を交わした。
「また、かついできたのか。一心同体だな」ハンマースも拳を軽くにぎって二回叩いた。この仲間たちと船に乗って月明かりの下でこの島をみたことがはるか遠い昔のように感じられた。それはほとんど青春を思い出すのに似ていた。あの夜の船旅はハンマースの人生で一番の青春だったのだ。




