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この港は代々現職の市長が次の市長を任命することができる。歴史を振り返ってみても、市長の任命を不服として港の人間が対立の候補者をたてたことは過去に一度もなかった。次の市長候補は円滑に引き継ぎをするために在職中から一緒に仕事をすることになる。最低でも三年は欲しいところだ。ところが今回の市長はなかなか次の市長候補を発表しなかった。彼の身の回りを注意してみても新しい人材は見当たらない。それならそれで仕事を続けてくれてかまわないのだが、市長はちょくちょく自分は引退するということを冗談とも本気ともといった感じで漏らしていた。
こうなるとそわそわしてしまうのが人間の常であった。港の人々はいつ自分が市長からお呼びがかかるかと気になって町を歩いていてもどこか気取って歩いているようにさえ見えたものである。夜な夜なテーブルではそれぞれがめいめい他人の歩き方をからかっていたものだ。
「おめえが市長になるってタマかよ? ああ?」
しかし港の人間は知っていた。誰が市長になってもおかしくはないのだ。今の、現職の市長が決まったときのことを、港の人間なら誰もが覚えている。彼は、ちょうど今のように、次の市長が誰になるか港全体が秘密の話をささやいているような時期、町を歩く一人に過ぎなかった。彼は悪い男ではなかったが、周りから重く見られるような男でもなかった。それでも、他の誰彼と同じように、心の中では市長になってみたかったのである。そんなことを漏らしでもしたら笑われただろうか? しかし、彼は漏らす相手すらいなかったのだ。近所からは年老いた両親の面倒をみている孝行息子と思われていたが、彼から若さを奪っていったのは決して年老いた両親だけではなかったはずだ。
そんな彼に何か傑出した個性が、才能が埋もれていたのだろうか、いや、ない。彼は一人ではまともに外で食事を取ることもできないような男だったのだ。頼んだ料理がまともに出てきたことは一度としてない。
そんな彼が山の斜面から港を見下ろして、キノコをつんでいる時だった。その場所は穴場であり、発見はまさに彼の日々の孤独の賜物だった。あいにくその日は他にも数人の人影があり、彼は、他の者も自分と同じような心の動きをしてこの穴場にたどり着いたのだろうかと考えていた。
彼が前の市長から声をかけられたのは、まさにその斜面でのことだった。あの土と草の匂い、自分の周りで一瞬小さな子供の声が風の中に聞こえたような懐かしさ、二度と戻らない尊い日々、斜面を駆け下りて泣いて叫んで全てをなかったことにしたい衝動が体を駆け巡った時だった。
「きのこはよく取れますか? これは食べても平気なんですか? いや、自分は港にばっかりたむろして、山を見上げるばかりだったもので、今日初めてきたんですが、ずいぶんと綺麗なところですね。ここはどこも美しいところばかりで、実際、ほんとのところ全部美しいですな、美しくないところがないというぐらいだ。」
男は大きな体に汗をかいていた。大きな男のわりには汗の量が少ないらしい、他人を不快にさせるような容貌ではなかった。
この美しい港こそが彼の心を虐待しているとはとても打ち明けられなかった。この美しい港、それこそが、四六時中彼の心を傷つけているのだ。悪いのは何一つもない、悪いものはただひとつ、自分だけなのだ! 自分の魂だけなのだ! 己の神経を守るすべはない、この港の原子の粒は、あらゆる場所、空間、時間を貫いているのだ。二十四時間彼の神経を貫通し循環している。そのたびに声にならない悲鳴を押さえ込んで、憔悴しきった顔は何度も塗りなおされ、もはや自分でも原型をとどめていないのに気づいたほどだ。だが、いったいどうすればいいのだ?
「風が気持ちいいですね。あぁ涼しい」
彼は他人から話しかけられるのは得意ではなかったが、今回ばかりは困らなかった。事実風は涼しく吹いていて、これ以外の事実は存在しないかと思ったぐらいだ。そのとき、このたった一つの事実が自分を満たしていることに気づいた。いったい何年ぶりかわからないぐらいの心の平穏を感じ始めていた。それがにわかには信じられない気持ちだった。
「見てほら! こんなにいい眺めなんてそうそうないよ。と、あなたはここからの眺めを知ってるんですね? ここに来るのは初めてじゃないでしょう?」
斜面に立っていた者全てが港を見下ろしていた。鮮やかな緑と生き物のように揺れている黒い影、呼吸をしている腹のような蒼い海。空の青さと海の蒼さに見とれながら、彼は耳に入って来る自然の音が体を駆け巡って自分の心身を浄化するイメージに夢中だった。「こんなに綺麗なところがあるなんて知らなかった。」
男は話しかけるとも独り言ともとれるように言った。
「あなたの後を付いてきたかいがありましたよ。あなたはずっとこの景色を知っていたんですね。この場所にたどり着くまでにきっとずいぶん歩いたことでしょう。他にも何人かいますが、そんなに多くは無い。そして、みなさんにたぶん共通していることだと思うけど、この場所は秘密の穴場とか、いや、秘密というと、この美しい景色を下げてしまう気がするな。おそらく、あなたがたはそんなにおしゃべりなほうではないんでしょう。しかしこれは、実際、たくさん歩いていた人へのご褒美みたいなもんです。わたしはあなたの後を付けて歩いてきたという裏技みたいなもんで、この眺めを手に入れたんだから、実にラッキー」
男はしゃがんで胸を反らせていた。傍らに置いた麦わらの帽子は新品のようにきれいで、斜面に置いたら風に飛ばされるのではないかと心配になった。海のような深くて濃い紺色のスーツも新品のように光っていたが、気さくに腰をおろしていた。一つだけ不思議な点はスーツにスニーカーを履いていることだった。
そういえば、今日は天気がいい。彼は雨男であることを自分の人生でいやというほど自覚させられていて、それはたいがいなけなしの休日によく起こることだった。
彼は確かにおしゃべりなほうではなかったが、この場所を秘密の場所にするつもりもなかった。この男はよく分かっている。想像の中では、友人や恋人と楽しそうにこの場所について語り合ったりいっしょに歩いていたりしたものだった。さて、この場合自分はこの男の話にどうやって返事をしていけばいいのだろう? なんせ久しぶりの他人との会話である。しかもシチュエーションはなかなか難しい。話そうと思い、心の中で実際に起こるであろうことを想像する、それは何秒か先のたわいもない未来のことなのだ。そしてすぐにその何秒は訪れて過ぎ去っていく。後に残ったのは沈黙の山だ。一瞬一瞬の沈黙が音もなく目の前で消え去っていく。
彼が沈黙を苦痛と感じるのは何年ぶりのことだろう? 男が親切に話しかけてくれたからこそだ。それに応えたいと思う彼はまさに何年かぶりに人間の感情を取り戻したといっていい。が、体がついてこないのだ。イメージは完璧、だが口が動かない。イメージは問題なし、だが口が動かない。イメージは最高、だが口が動かない? いったいこんなことがあるものだろうか? 彼は正気であることは自覚していたが、突然自分は不治の病にかかったと思い、実は生まれついての病がここにいたって現れたと思った。男は帽子で風をあおいでいた。
「今日は天気がいい」
彼は、思い切って独り言とも会話に応じたとも取れるようなことを、聞こえるか聞こえないかぐらいの声でつぶやいた。
「え、? 何ですか?…」
やっぱり言わなければよかったと彼は心の底から後悔した。それどころか、こんな反応をする男が実のところたいした人物ではないような気がした。これだけ自分かってにしゃべっておいてこちらがしゃべったらこの反応ではたかがしれたものだ。これははっきり逆恨みも極まることだとは彼もわかってはいたが、それだけ、突然現れたこの男に期待してしまっている自分を恥じた。これも今までの自分の人生の彩りの貧しさからなるものだ。もし、違う場所で違う誰かに何かを話しかけられたりしたら、自分はあっさり涙を流したり金を貸してやったりするのだろう。自分の情けなさに涙があふれそうだ。
「いや、ほんとに、今日はいい天気ですね」
聞こえているではないか! それなのにさっきの反応! これだから嫌なんだと彼は思ったが、今のはこちらの言葉が聞こえていた訳ではなく、つまり、自分への返事としてではなく、単純にこの男は最初の【サーブ】のつもりで話しているのかもしれなかった。彼は反省した。そもそも自分の声が小さかったのが問題である。そして、どう返事をしていいか困るような内容だったのも事実だ、なにより、実際、この男に話しかけたのかといえば、客観的に見てもそれは微妙だった。
「あの(あの)」
「あの、はい、なんです? あぁどうぞお先に、なんでしょう」
初対面の人との会話の正面衝突、出会いがしらの事故はさけたいものである。彼は、自分の間の悪さを自覚した。そして、こんな時は譲られるとかえって迷惑だなとかってに腹の中で不満だった。「いや…」という返事と薄笑いを残したきり、しばらく男の方を見なかった。それでも、時間が過ぎていく中で、目の端で、男が一応自分のことをまったく気にかけてない訳ではなさそうだと確認していた。
「私は市長なんですよ」男が口を開いた。「あなた、次の市長やってみますか?」
「お願いします。ぜひやらせてください。いっしょうけんめいがんばります」
まるで用意していたみたいに、よどみなく、それでいて事務的ではなく、つまり、しっかりと言葉に自分の意志を込めて、それでいて押し付けがましくなく、彼は返事をした。自分の人生の中で、かつてこんなにも完璧に返事をしたことはなかった。生涯最高の返事だった。




