湯浅真紀のケース②
中川沙希。その名前が湯浅真紀の口から出た瞬間、再び平島が素っ頓狂な声を漏らした。湯浅は平島の動揺ぶりに対し、疑るような視線を向けてきた。
「あの、もしかして沙希のこと知ってるんですか?」
「は、はい。詳しい事情は言えないんですけど、その人のことは少しだけ知ってます。まさか自殺してたなんて……」
俺は平島を遮るようにして湯浅真紀に尋ねた。
「さっき、湯浅さんは一年前に中川沙希が自殺したって言ってたよね。具体的には何月何日なのかって覚えてます」
「それはもちろん覚えてます。友達の命日だったんですもん。去年の×月×日です。その日の放課後に、沙希は突然屋上から飛び降り自殺をしたんです」
「×月×日……ですか」
俺は絞り出すような声でその日付を繰り返した。平島は俺の様子を不審に思ったのか、俺の右のわき腹を指でつつきながらひそひそと聞いてきた。
「どうしたんですか、ママタビくん。その日に一体どんな意味が……」
俺は平島に向き直ることもなく、湯浅真紀には聞こえない音量で答えた。
「一年前の×月×日。確か、加賀なつみが町岡聡に告白しようとしていた日と同じなんだ」
平島は小さく「えっ?」と問い返した。俺は間違いないと平島に念押しした後で、半ばほったらかしにしていた湯浅真紀の表情をじっと見つめる。
「少しだけ、その事件について興味が出てきました。もしよければ、詳しく聞かせてくれませんか」
「詳しくって言われても……。正直、さっき言ったことくらいしか私も知らないですし……」
そう言いつつも、湯浅真紀はポツリポツリとその時の出来事について語り出した。
十月十九日の放課後。二年D組中川沙希が突然飛び降り自殺を行った。飛び降りた場所は本校舎ではなく、第二科学室、第二音楽室がある別館の屋上。別館の屋上は今時珍しく解放されており、出入りは基本的に自由。さらに別館はその立地から授業を除いてあまり生徒が出入りせず、中は閑散としている。そのためか、事件当日に中川沙希を別館で見たものは誰もいなかった。
中川沙希は屋上の片隅から、本館とは反対側の、雑木林が生い茂る裏庭へと飛び降りた。雑木林は別館とほぼ隣り合う形で存在しており、飛び降りる際、中川沙希の身体はその木々の中へ突っ込む形となった。そのためか、噂話によると中川沙希の死体は木々の枝で全身を傷つけられていて、見るも無残な形になっていたらしい。
中川沙希に動機は存在せず、屋上にも遺書らしきものも存在しなかったが、現場の状況などから警察や学校は早急に自殺と断定し、中川沙希周辺からもその判断に対して激しい抗議も起こらなかった。中川沙希はクラスの中心人物ではあったものの、普段の素行や、時折垣間見せていた情緒不安定さが自殺を断定する決め手となったのだと湯浅真紀は言った。
「だけど、やっぱり私は沙希が自殺したなんて考えられなくって……。確かに、沙希はみんなから好かれるようなタイプの人間じゃなかったけど、それでも私の友達なんだ。それに、ここだけの話、沙希はその当時彼氏ができたばっかりだった。精神的にも以前よりずっと落ち着いていたし、何より毎日がめちゃくちゃ楽しそうだったんだ。だから、自殺なんて絶対におかしいと思う」
湯浅はそこで話し疲れてしまったのか、目の前のお茶の残りを飲み干すと、唐突にトイレを借りたいと言った。俺がトイレの場所を教え、湯浅が一旦席を外すと、待ってましたと言わんばかりの勢いで平島が話しかけてきた。
「マタタビくん。湯浅さんの話って本当なんですかね?」
「本当かどうかって……。お前、さっきの話を疑ってんのか?」
平島は顔をしかめる。
「だって、この前マタタビくんから聞いた限りでは、その中川沙希って子が自殺するような子だとは思えませんよ」
「だけどなぁ、人の気持ちなんて他人がわかるもんでもないし。何か突然自殺するようなことが起きたのかもしれないぞ」
「あっ! そういえば」
平島は何かを思い出したかのように声をあげ、言葉を続けた。
「もしかして、中川沙希さん。町岡君が約束を破って、加賀なつみさんの告白をうけちゃったことにショックを受けて自殺したんじゃないでしょうか? たとえ振ったとしても、中川さんにとってはすごく屈辱的なことだと思いますし」
「待て、平島。お前、勘違いしてるぞ。町岡が告白を受けたってのは、あくまで俺が作った虚構の中の話だ。実際、町岡は加賀なつみの告白を受けてはいない」
「じゃ、じゃあ。告白を受けなかったとしても、待ち合わせ場所に町岡君が行ったってことが悲しかったとか」
町岡聡がその当日、加賀なつみが指定した待ち合わせ場所に向かったかどうかはわからない。しかし、当日の朝における町岡聡の行動を考えてみると、町岡が中川沙希との約束を破って待ち合わせ場所に行ってしまった可能性は十分にある。しかし、俺は平島の考えに対し、腕を組み首をひねりながら答えた。
「平島の言うことにも筋は通ってるよ。だけどさ、それくらいで自殺するもんなのか?」
「むう、それもそうですね。としたら、一体なんで?」
「仮に自殺じゃないとすれば、事故かなにか……」
「事故なんかじゃありません」
トイレから戻ってきていた湯浅真紀が凛とした口調で俺たちに言った。自分の言っていることに何の迷いも躊躇いも持っていない、何かを確信した目で俺たちをじっと見つめていた。そのまま湯浅真紀はゆっくりと元のソファに腰かける。
「自殺でも事故でもない……。だとしたら、一体なぜ中川沙希は死んだんですか?」
「きっと沙希は殺されたんです。私たちの同級生の一人に」