湯浅真紀のケース
俺がいつものように椅子にもたれかかったまま手を頭の後ろで組み、事務所の机に行儀悪く足を乗せていた時だった。
うつらうつらと夢見心地の気分をぶち壊すかのように、唐突に事務所の固定電話が鳴り響き、俺は驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。電話は偶然電話の近くで退屈そうに雑誌を読んでいた平島が取り、そのまま平島は電話を応対しながらメモを書き始めた。十分もしないうちに会話は終わったようで、平島は電話越しということを忘れたのか、小さくお辞儀をしてから電話を切った。そして、俺の方へ勢いよく向き直ると、何でもないような口調で話しかけてくる。
「今日、これから湯浅真紀ってお客さんが来るそうです」
俺は「はいはい」と面倒くさそうに返事をした後、「うん?」と何かを思い直したような間の抜けた声を漏らす。
「今、なんて言った平島? これからお客さんだって?」
「はい。そう言いましたけど?」
「そういうのって一応俺に了解をとってから決めるもんじゃないの?」
露骨に嫌がる表情を浮かべた俺を見ながら平島は母親が自分の子供を教え諭すかのような口調で話し始めた。
「だってマタタビくんは大して忙しくもないのに、何かと理由をつけて断ろうとするじゃないですか。特殊な商売だと言っても、小さい事務所である以上、お客さん一人一人を大切にする姿勢が大事なんですから。それに、ここ数日の予約表を見てくださいよ!」
平島はそう言うと、俺の机の片隅に雑に置かれていた予約表を手に取り、俺に突き付けた。数日分の予定表には所々に名前が書いてあるだけで、その大部分が余白だった。俺が白々しくその予定表から目を背けると、平島は「ちゃんと目をそらさずに見てください」と強めの口調で命令した。
「信じられないくらいスカスカなんですよ。こんなんじゃ、事務所経営すら成り立ちませんよ! マタタビくんにはもっと稼いでもらって、私の給料を上げてもらったり、社員旅行に連れていってもらわなくちゃ!」
平島はそうまくしたてると、「早く準備してください!」と俺を椅子から立ち上がらせ、壁にかけてあった面会用のスーツジャケットをパンパンとはたき始めた。
「一番最初に会った時はそんなキャラじゃなかったのにな」
俺がため息交じりにそうつぶやくと、平島はいたずらっぽく微笑みながら、「社員旅行としてグアムに行けるように頑張りましょう」と冗談なのか本気なのかわからない声明をあげた。
来訪者である湯浅真紀は、電話での確認からおよそ三十分後に事務所へやってきた。湯浅真紀は左胸に小さな校章が縫い付けられている制服を着ており、十代半ば特有のあふれ出る生気を体中から放っていた。細身で背が高く、肌は浅黒く焼けていて健康的であり、肩にかけた大きなエナメルバックから何か運動部に所属していることがうかがえる。彼女は俺たちに自分の名前を快活に告げると、そのまま堂々とした様子で部屋に入り、促されるままやや乱暴気にソファへ腰を下ろした。そして、興味津々といった様子で事務所内をぐるりと見渡し、どこか意外そうな口調でつぶやいた。
「なんか、思ってたより普通かも……。加賀も言ってたけど、見た感じは全然普通の事務所って感じ」
「加賀って、加賀なつみさんのこと?」
湯浅真紀の口から出てきた言葉に反応して、俺は尋ねた。
「はい、そうです。ちょうどこの前、加賀からこの事務所の話を聞いたばっかりで。加賀の言うことが本当なら、来てみたいなって思ってたんですよ」
「どうりで見たことある制服だと思った」
湯浅は楽しそうにうなづくと、平島が出したお茶を手に取り美味しそうにすすった。俺は彼女がお茶をテーブルに戻したタイミングを見計らって、早速本題に入った。
「加賀なつみさんの紹介ってことは、この事務所のシステムについてはもう説明不要かな? それじゃあ、早速依頼内容を聞かせてもらいたいんだけど」
湯浅は少しだけ困ったような表情を浮かべたのち、恐る恐るといった口調で話を切り出した。
「正直、加賀から聞いた話を完全に信じてるかって言われたら微妙なんですけど……。まあ、仮に信じるとして、一つ聞きたいことがあるんです」
俺はそれは何かとテンポよく言葉を挟む。
「なんか過去に戻ってその時のことをもう一度再体験できて、しかも自分が後悔している部分をゲームみたいにやり直すことができるって、加賀が説明してくれたんです。さらにその再体験は実際あったことに忠実に進められるってことも聞きました。それで質問なんですけど。それってつまり、過去に戻って、ある事実を解き明かすこともできるってことですか?」
湯浅真紀は半ば興奮した様子で、食い入るように俺を見つめた。俺は小さく肩をすくめながら、できるとだけ簡単に告げた。しかし、すぐに再び喋り出そうとした湯浅真紀を制止し、言葉を付け足した。
「ただし、できるとは言っても、依頼者である湯浅さんにはほぼ不可能です。私が能力を使っている最中は、湯浅さんはよほどのことがない限りそのことを自覚できないからね。夢とおんなじだと思ってください。それに、過去を再現できると言っても、何か心残りになっていることが必要。そして、その後悔を解消すると言う目的でしか、過去を再現できない。つまり、時間をこっちで自由に決めることができないんです」
「で、でも、真相が解明できなかったっていう心残りが私にはあるんですけど……。それじゃダメですか?」
「この能力のルールなんですけど、後悔の内容は具体的なイベントとかじゃないと過去に戻れないんだ。だから、そんなあいまいな心残りだと能力が行使できない」
そして俺は眉をひそめて、困惑気な表情を浮かべる湯浅真紀を見つめる。
「でも、真相解明って一体なんの? わざわざこんなとこに来てまでも知りたいもんなんですか?」
すると湯浅真紀は少しだけ表情を曇らせ、さっと顔をうつむけた。俺はその変化に驚きつつも、じっと湯浅真紀の言葉を待った。
「実はちょうど一年前……私の高校で友達が自殺しちゃったんです。だけど、その子はどう考えても自殺するような子じゃなくって……今でもそれが自殺じゃなかったんじゃないかって思ってるんです」
「じ、自殺ですか?」
いつの間にか俺の隣に腰かけていた平島が驚きのあまり間の抜けた声をあげる。その後、自分の返事が湯浅真紀の告白にそぐわないものだと気が付いたのか、すぐに真剣な表情に戻った。そして自分のうかつさをごまかすように間髪入れずに質問を投げかけた。
「で、でも自殺じゃなかったって言っても。湯浅さんはなんでそう思うんですか?」
「もちろん理由はいろいろあるんですけど……。何よりも、その子は幸せの真っ只中だったていうのが、一番ですね。ほんと、彼氏とかもできたばっかりで、浮かれすぎっていうくらいだったのに……」
俺と平島は互いに顔を見合わせ、二人して眉をひそめた。平島の顔は、湯浅の言うことが本当に信用できるのかと俺に聞いているかのようだった。
「まあ、湯浅さんの言いたいことはわかりました。で、その友達っていうのはなんていう子なの?」
俺は改めて湯浅真紀に向き直り、何気なく、会話を続けるための社交辞令的な質問のような感じで言った。湯浅真紀は少しだけ間を置いた後、記憶の底から絞り出すような口調で答えた。
「沙希……中川沙希って子です」