加賀なつみのケース⑥
俺が第二音楽室に着いてから、およそ十分後に加賀なつみがやってきた。
加賀なつみはドアを開け、窓際に置かれた机の上に座っている俺の姿をみるなり、顔全体を赤らめ、俺と目が合わないようになのか少しだけうつむいたまま小走りで駆けよってきた。俺と加賀なつみは第二音楽室の前方、小さめのグランドピアノの横で向かい合う形となった。加賀なつみは緊張のあまり、何も言えないでいることを察した俺はこちらから言葉を振ることにした。
「えっと、加賀。手紙に書いてた用事って……?」
告白だとわかっていながら俺は白々しく尋ねた。加賀はそこで初めて顔をあげ、俺と視線をぶつからせた。加賀なつみの顔は先ほどよりずっと赤みを増しており、俺を見つめる瞳は今にも泣きだしてしまいそうなほどにうるんでいた。
「あ、えっと……。その」
加賀なつみは突然話しかけられたことに動揺し、しどろもどろな返答しかできない。そして、その自分のふがいなさを恥ずかしく思ったのか、再び顔をうつむかせ、黙り込んでしまった。俺たちの間に気まずい沈黙が流れる。
どちらかが身じろぎするたびに木製の床がきしむ音がした。そのような音楽室を満たす静寂を彩るように、窓の外からは運動部の掛け声や渇いた笑い声が、まるで何百キロも離れた場所から発せられているかのように聞こえてくる。日没が近いのか、飴玉のようにくっきりとした色の夕焼けの光が窓から差し込み、加賀なつみの顔の右半分だけを照らしていた。
俺はただ加賀なつみの言葉を待った。もちろん俺から上手く告白の言葉を引き出すことだってできるし、そうしてはならない特別な理由があるわけではない。それでも俺は目の前の、風が吹けば飛ばされてしまいそうなほどに小さく見える女の子を何も言わずに見つめ続けた。
「実は……町岡君にどうしても伝えたいことがあって……」
加賀なつみはかすれるような声でつぶやいた。俺は黙って言葉の続きを待つ。
「大して仲良くもないし、私が特別美人だっていうわけでもないけど……。私、ずっと町岡君のことが好きです。だから……もしよかったら……私と付き合ってほしいかなって……」
加賀は顔をうつむかせたまま、しどろもどろにそう言った。持ちうるすべての勇気を絞り切ったのか、それ以上加賀なつみは言葉を続けることはできなかいようだった。
俺は加賀に聞こえないように小さく息を吐いた。問題は俺が町岡聡としてどうその告白に答えるかだ。俺がこのフィクションの世界でどのような返事をしようとも現実世界に影響はない。だからこそ、ここで加賀なつみが望むような返答をして彼女を満足させることだって可能なのだ。しかし、俺の返事はずっと前から決まっていた。
俺は十分に間を空けた後、加賀なつみの目をじっと見つめ返す。加賀は俺のその様子にたじろぎつつも、顔をうつむかせ、視線をそらすようなことはしなかった。その様子を確認した俺は覚悟を決め、できるだけ誠実に、そして優しい口調で加賀に語り掛ける。
「すまん……加賀。実はさ、周りのやつらにはあんまり言ってないんだけど……。今、付き合ってる彼女がいるんだ。だから、加賀の気持ちにこたえることはできない」
加賀はその言葉とともにゆっくりと顔をあげ、俺の顔をじっと見つめた。加賀は唇をかみしめ、泣き出してしまうそうな自分を必死に抑えているかように見えた。
「そ、そうだったんだね……。でも、そりゃそうか……町岡君モテるし。なんか私だけが勝手に突っ走っちゃって、ごめんね」
加賀はうるんだ眼を無理やり細め、これ以上ないほど痛々しく、自虐的に微笑みかけた。そして加賀はすぐさま俺に背を向け、「ごめんね、わざわざ呼び出しちゃって」とだけつぶやき、第二音楽室を立ち去ろうとした。俺は扉に向かって歩き始めたその背中に慌てて声をかける。
「ちょっと待ってくれ、加賀」
加賀なつみは扉の取っ手に手をかけたまま、こちらへ振り向くことなく立ち止まった。
「結局、加賀の気持ちにこたえることはできなかったけど……それでもやっぱ、加賀が勇気を振り絞って告白してくれたことはうれしかったしさ、ちゃんと告白した加賀はめちゃくちゃ偉いと思う」
加賀は何も言わずただ背を向けたまま俺の言葉に耳を傾けていた。正直振った相手にこのような言葉を吐くこと自体いかがなものかと思うのだが、それでもそう言わずにはいられなかったのだろう。加賀なつみがこの言葉に対してどのような感情を抱いているのかはわからない。しかし、加賀は少しだけこちらを振り向くと何か言葉を俺に向かってつぶやいた。それはあまりに小さく弱弱しい言葉だったため、俺には加賀なつみは何と言っているのかがわからなかった。それでも加賀の表情は先ほどよりもずっと柔らかく、優しげだったように俺には思えた。加賀はそのまま扉を開け、走って第二音楽室から遠ざかっていった。
どんどん小さくなる足音を聞きながら、俺はグランドピアノの椅子に腰かけた。
「これでよかったのかねぇ」
俺は中年みたいな言葉を吐きながら、音楽室の中を何気なしに見渡してみる。音楽室は先ほどと同じくらいの、人を浮足立させる静寂に包まれていた。そしてその静けさにじっと耳を傾けていると、どこか遠くから、澄んだ、終わりを知らせる鈴の音が聞こえてきた。
チリン、チリ―ン