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謎は謎のままに  作者: 村崎羯諦
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田中真由美のケース④

「な、中川さん!」


 田中真由美の悲痛な叫び声に俺は全身をびくりと震わせる。俺が後ろを振り返るやいなや、もうすぐそばまで近づいていた田中真由美は左手で俺の腕をつかみ、自分の方へグイッと引っ張った。その力は予想以上に強く、また俺の身体全体がバランスを崩し田中の身体へと倒れ掛かったので、俺たちは二人して屋上の床へ倒れ込む。

 俺は倒れ込みながらも一瞬の隙をつき、田中真由美の右手からまだ無意識に握り締め続けていたガラス片をどさくさにまぎれて叩き落とした。しかし、混乱しているのか田中真由美はその事実に全く気が付いていない様子だ。

 俺と田中真由美はそのまま身体を起こし、立ち上がることなく互いに身体を向かい合わせ、無言のまま見つめあった。先ほどまで見せていたさっきはとうに消え失せており、田中はただ戸惑いの表情を浮かべていた。二人の間に重たい沈黙が流れる。


「どうして自分の方に私を引っ張ったの?」


 たまりかねた俺はそう田中真由美に尋ねた。田中は少しだけ顔を伏せて答える。


「中川さんが……飛び降りようとしてると思って」


 田中真由美は屋上下に引っかかっていた鉄パイプの存在を知らない。そして、さらに身を投げ出そうとする寸前に田中真由美にかけた言葉は、それを知らない人にとってはこれから飛び降りようとしている人間の言葉だと捉えられなくはない言葉だった。

 その証拠に下を向いている田中真由美の顔は真っ青だった。冷静さを取り戻し、自分のやっていたことが今になってようやく理解できたのだろう。


「顔を上げて」


 俺は田中真由美の肩にそっと優しく手を乗せながら言った。そして二人でゆっくりと立ち上がり、俺は彼女の手を握って先ほどまで俺が立っていた場所に連れていく。そこで俺は立ち止まり、田中にその真下をのぞいて見るように促した。彼女は不安そうな表情を浮かべながらも恐る恐る俺が指示した箇所を見る。


「もしかして……ここから木に飛び移ろうとしてたの?」


 枝に引っかかっている鉄パイプを見つけた田中は少しだけ考えた後、そう問いかけ、俺はその問いに小さくうなづいた。

 辺りはもはや暗くなりつつあったが、それでも田中真由美の顔が少しづつ紅潮していくのがわかった。俺も気まずそうな感じを装いつつ、彼女から視線をそらす。俺たちの間に沈黙が流れる。しかし、その静寂に先ほどまでの得体のしれない緊迫感や、自己嫌悪感を刺激するいたたまれなさはなかった。それは俺たちは互いに目を合わせることなく、じっと相手が何かを言うことを待ち続けているだけの、穏やかで柔らかい間と言った方が正確だっただろう。


「ごめんね……本気で中川さんを刺そうとは思ってなかったの。ただ、頭に血が上って、わけがわからなくなって……」


 先に口を開いたのは田中真由美だった。しかし、まだ自分の言いたいことが十分整理できていなかったのか、それだけ告げると再び口を閉ざしてしまった。


「いや、田中はなんも悪くないよ。何もかも私のせいだし」


 俺の言葉に応えるように田中は暗がりの中、じっと俺の顔を見つめた。しかし、俺は見つめあうことはせず、顔を背けた状態のまま言葉を続ける。


「私もさ、聡にふられるのが怖くて、自分でも周りのこととかが一切目に入っていなかったんだと思う」


 俺はちらりと一瞬だけ田中真由美の表情を伺った。しかし、周囲はすでに暗く、その表情を読み取ることはできなかった。田中真由美が今、怒っているのか、それとも微笑んでいるのかさえわからない。それでも俺は顔をゆっくりと彼女の方へ向けた。


「暗くなってるし、もう帰ろう。帰りながら、もう少しだけちゃんと話そうよ」


 俺の言葉を田中真由美はただ黙って聞いていた。そして、不意に小さくうなづいて見せた。

 俺と田中は互いに何も言わず、そのまま示し合わせたように、二人並んで階段室へと歩き出す。俺はその途中もう一度だけ、ちらりと彼女の表情を盗み見た。しかし、それでもやはり暗がりのせいで表情をはっきりと見ることはできなかった。俺は息を弱弱しく吐き、諦めて前を向く。そして、俺の右手が階段室のドアノブを握ったその瞬間、どこからともなく、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。


 チリン、チリ―ン




 術が解けた後、田中真由美はひとしきり俺たちの前で泣きじゃくり、それが一段落すると、うって変わって俺たち相手に勢いよく、自分のこと、あるいは世間話など、様々なことを喋り始めた。俺と平島は根気よく彼女を慰めたり、また話を聞いてあげたりした。そして、十分に満足しきった田中真由美は俺たちに誠意のこもったお礼を告げ、嵐のようにさっそうと帰っていった。

 彼女が帰るやいなや、俺は身体をソファにだらしなくもたれかけた。事件の真相はいったい何だったのかと俺の身体を揺さぶる平島をあしらいつつ、俺はぼんやりと焦点を合わせないまま身体を横に倒した。そのまましばらくその状態のままぼんやりとしたのち、俺は身体的、そして精神的疲労に促されるまま、ゆっくりと目を閉じていく。



踊る恋猫 完

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