田中真由美のケース②
「やっほー、聡。あはは、びっくりした?」
俺は靴箱前に立っていた町岡聡の腕をつかみながら言った。突然腕を取られた町岡聡が驚きのあまり肩をびくりと震わせたのを見て、俺は満足げに微笑む。さらに俺がわざと自分の胸を町岡の腕に押し当てると、町岡は照れを隠すかのように反射的に靴箱の方へ視線を戻し、余裕を取り繕いながら返事をした。
「なんだよ、沙希か。あんま驚かせんな。……というか、周りにばれるのが嫌だからあんまり学校ではくっつかないって言ってたのはどこのどいつだよ」
「いいじゃん、あんま周りに知り合いはいないしさ。それとも私と付き合ってんのがそんなに嫌なの?」
俺は目を細めながら、腕をつかむ力を強めた。町岡はそんなわけないとぶっきらぼうに答えながら靴箱の取っ手に手をかける。扉を開けそのまま靴を取り出そうとしたその時、町岡は一瞬固まり、そのまま靴箱の中を注意深く覗き込んだ。そしてゆっくりと中に手を突っ込み、中から淡い色で彩られた封筒を恐る恐る取り出した。
町岡が取り出したその中身を俺は近くから見ようとしたが、町岡は反射的に身体を動かし、俺には見えないようにこっそりと確認し始めた。中から取り出されたのは同じく淡い色の便箋であり、町岡はそれを読むと同時に身体を強張らせた。俺はそのつきをついて反対側に回り込み、町岡が手にしていた手紙を奪い取る。何するんだよと抗議の声を上げる町岡を無視し、俺は素早く手紙の内容を目で追う。『明日の放課後、第二音楽室の前でお待ちしてます。二年C組加賀なつみ』それが手紙に書いてあった文章だった。
俺は町岡の方へ向き直り、きっと鋭く睨み付ける。しかし、町岡はそんな俺の様子を気にかけることもなく、興奮した面持ちで俺から手紙を取り戻すと、もう一度それを読み始めた。
「これって、もしかして……」
「ラブレターじゃない?」
浮かれた町岡の声を遮るように、冷めた口調で俺は言い放つ。そこでようやく町岡は俺の不機嫌さを悟ったのか、俺の方へ顔を向け、まじまじと見つめ返してきた。
「……いや、ただお待ちしてますって書いてあるだけだし……」
「何言ってんの? 文面とか入れられてた場所から考えても、ラブレターじゃないわけがないじゃん。まあ、今時ラブレターなんて古臭い真似するやつがいるなんてお笑いだけど」
語気を強めながら言った俺に対し、町岡は不満そうに顔をしかめた。俺は町岡から再び手紙を奪い取りながら、町岡の腕をつかみ身体を寄せる。その状態のまま俺は町岡を上目遣いで見つめた。そのままお互いに何も言わないまま見つめあい、気まずい沈黙が流れる。
「もちろん……行かないよね」
町岡は恐る恐る、ゆっくりと首を縦に振った。しかし、俺は安心して表情を和らげるということはせず、ただ冷たい表情のまま町岡を見つめ続けた。町岡はその視線に耐えかねたのか、すっと目をそらし、由香に転がっていた靴を履いた。このまま二人でこうしているわけにもいかないので、俺たちは二人で靴箱を後にしたが、その間中俺は逃げられないために拘束するかのように強く町岡の腕をつかんだままだった。
下校の途中で、町岡は俺に近くの公園で少しだけ話さないかと言った。俺は黙ったままその言葉にうなづき、二人で公園の敷地に入って、入り口近くのベンチに腰掛けた。しかし、俺たちの間には依然として重たい壁が存在し、お互いに話を切り出すことができないまま時間だけが過ぎていった。学校を出る時にはまだ柔らかく、生気に満ちた光で町を照らしていた日差しも、今では夜のお訪れを示唆し、行き交う人々の足取りを急かす夕焼けへとその姿を変えていた。住宅地の隅っこに、飾りのためだけに設置されているさびれた公園には、俺たち以外に人っ子一人おらず、その光景が一層、夕暮れ時に伴う底知れぬ不安を掻き立てているような気さえした。
「さっきの手紙だけどさ、やっぱり返してくんない」
長い沈黙を破ったのは、そのようなデリカシーのかけらもない町岡の言葉だった。俺は相手の言っている意味が理解できないといったように町岡の顔をまじまじと見つめる。町岡は俺の反応が予想していたものとはまったく違っていたことに驚いたのか、慌てて弁解する。
「あ、いや、もちろん明日約束の場所にいくつもりはこれっぽっちもないから」
俺は町岡から目をそらし、顔をうつむける。そして、町岡には見えないようにぎゅっと唇をかみしめた後、ポケットに乱暴に突っ込んでいた手紙を取り出し、顔をあげないまま町岡に押し付けた。町岡はそれを受け取ると、手紙がそれほど大事ではないと自分は思っている、ということを俺を見せつけるかのようにわざわざ乱雑にポケットの中へ押し込む。しかし、俺は横目で町岡が手紙が変に折り曲がらないよう、きちんとポケットの形に合わせた方向から手紙を入れた様子を見逃さなかった。
町岡は不意にベンチから立ち上がり、暗くなってきたからそろそろ帰ろうと俺に告げた。
「聡はさ……もう私のことが好きじゃなくなったんでしょ」
俺は語気を強めながら、町岡に言い放った。町岡は突然投げかけられたその言葉に動揺したが、すぐに落ち着きを取り戻し、代わって呆れたような表情を浮かべながら俺を見つめ返してきた。
「何言ってんだよ、そんなわけないじゃん。俺たち付き合ってるんだぜ」
「ほんとに?」
「ほんとにホント」
町岡はいかにも面倒くさそうな様子で答える。俺はその顔を食い入るように見つめた後、ふっと身体の緊張を解き、わかったと弱弱しく返事をした。町岡もその言葉に安堵したのか、うって変わったように明るい口調で帰ろうと再び俺に言ったが、俺はもう少しここでのんびりしていくと言って断った。
町岡はそれ以上粘ろうともせず、じゃあなと言って公園を後にしようとした。
「待って……最後にキスして」
町岡はゆっくりと振り返ると、そのまま俺に歩み寄った。そして情けなくきょろきょろと辺りを見渡し、周りに誰もいないことを確認してから、顔を上にあげていた俺の唇に自分の唇を重ね合わせた。その後町岡はすぐに唇を離し、もう一度また明日なと小さくささやいた後、踵を返して公園を去っていった。
一人ベンチに残った俺は茜色に照らされたアパートの側面をぼおっと眺めた。そして、五分ほど経った後、俺は不意に自分のポケットからスマートフォンを取り出した。俺は電話帳を開き、指で画面をスクロールし始める。そして、ある人物の名前のところで指を止めた。少しだけためらった後、俺は名前をタッチし、その人間へと電話をかけた。長い長い着信音の後、相手方が電話にでた。電話越しの相手はおどおどとした口調で挨拶をし、何の用事かと消え入るような声で問いかけてくる。俺はそのようにおびえる相手に対し、まるで命令するかのように冷ややかな口調で告げた。
「久しぶり、藤田。ちょっと頼みたいことがあるからさ、明日の昼休みに別館の音楽室に来てくれない?」
翌日の昼休み。約束通り別館にある第二音楽室へと俺が行くと、部屋の前にはもう藤田正吾が先に立っていた。俺の姿を確認した藤田は顔全体を強張らせ、それを隠すかのようにさっと俺から視線をそらした。俺は藤田に近づき、気持ちが全くこもっていない口調で「待った?」と形式的に尋ねた。藤田は顔をそらしたまま首を振り、今さっき来たばっかりだと言った。
「それで……頼みたいことってなんだよ」
俺は藤田の顔を食い入るように見つめながら答える。
「加賀なつみって子知ってる? 確か、同じクラスだったよね」
脈略もなく現れた加賀なつみという言葉に虚をつかれたのか、藤田はそこでようやく顔を上げ、俺の顔を不思議そうな表情で見つめ返してきた。そして、その表情にはどこか安堵感のようなものが垣間見れたような気さえした。
「まあ、知ってるけど。確か田中と同じ生物部に入ってるんだよな。でもそれ以上は知らない。教室でも少し話したことがあるくらいで。でも、なんで中川が加賀さんのことを……」
「その子がね、聡を私から奪おうとしてるの」
藤田の言葉を遮るように放たれたその言葉は、簡潔であるがゆえに一層鋭さを増していた。藤田はそれが自分に向けられた敵意ではないと知りながらも、その気迫に押され、動かしていた口を咄嗟に閉じた。藤田の表情に不安の気配が漂い始める。俺は従順に発言権を譲った藤田を気に留めることもなく、キンと冷え切った口調で淡々と言葉を継ぐ。
「昨日、聡の靴箱にその加賀って子からのラブレターが入ってたの。今日の放課後、この第二音楽室に来てくれって……。どう考えても、告白に決まってんじゃん。しかも、一番腹が立つのは、聡がまんざらでもないって様子だったこと……」
「ま、待てって。加賀さんが告白するとしても、聡がOKするとは限らないだろ」
俺は藤田をきっと睨み付ける。
「本当にそう思ってんの?」
藤田はそこで黙り込んでしまった。その沈黙が、町岡聡への根深い不信感を示唆している。
「でも……俺から聡に待ち合わせ場所に行くなって言ってもいいし」
しかし、絞り出すようにして出た藤田の言葉も俺の機嫌を直すことはできず、俺の苛立ちと焦燥感はただただ増していくだけだった。俺は藤田から視線を外し、不安を少しでも和らげようと胸の前で手をもみくだすことしかできない。
「最近、聡の態度も冷たいし……どうしよう……私捨てられちゃうのかも……」
「でも、どうしようもないじゃんか……。それになんでわざわざ俺を呼んだんだよ」
藤田の言葉にはっと俺は顔を上げ、何かを突然思い出したかのように目を見開いた。そして、そうかと思うと再び藤田から顔を背け、うわごとのように意味のない独り言をつぶやきながら窓の方へ歩いて行く。藤田は俺の様子をただただ心配そうな顔でうかがうだけで声をかけることができずにいた。
「藤田さ……とりあえず、今日の放課後に出も生物部の部室をめちゃくちゃに荒らしてくれない? 加賀って子が告白なんてできないように」
俺は窓から外の様子をぼんやりと眺めながら言った。藤田は自分の聞いたことが理解できなかったのか、それとも本当に聞き取れなかったのか、俺に近づきながら俺の言葉を聞き返してきた。俺が藤田に向き直り、先ほど言った言葉を一言一句変えることなく繰り返すと、藤田の表情は見る見るうちに青ざめて言った。
「な、なに言ってだよお前……。聡をどうにかしようって話なのに、なんでそこで加賀さんの部活が出てくるんだよ」
「違う違う! 聡は全然悪くない! ただその加賀って子さえ告白しなければ、すべてが解決するの。だから、今日だけなんかの事件で告白できないようにして!」
俺は藤田の右袖を握り締め、叫んだ。藤田は俺の手を振り払うこともできず、ただおびえた目で俺を見つめた。そして、支離滅裂な要求に狼狽しながら、消え入るような声でむちゃくちゃだと吐き捨てるようにつぶやいた。俺はその言葉をかき消そうとするように、「お願い!」と懇願した。
しかし、藤田は少しだけ俺に対して申し訳なさそうな表情を浮かべた後、右腕を強くひき、俺の手を振り払った。
「中川の気持ちはわかるけどさ……。そんな真似できるわけないだろ。昼休みも終わるし、もう帰るよ」
藤田はなんとかそれだけ告げると、俺の横を通ってこの場から立ち去ろうとした。しかし、俺と藤田がすれ違おうとしたその瞬間、俺は藤田に向かってつぶやいた。
「いいの? あの写真バラすよ」
藤田の足がピタッと止まり、そのまま藤田はゆっくりと俺の方へ顔を向けた。その顔にはただならぬ絶望がありありと浮かんでいた。
「しゃ、写真って……?」
「中学の時、私たちのグループがあんたをいじめてた時に撮った写真」
俺は顔を伏せながら言った。しかし、かすかに聞こえてくる乱れた呼吸音から、藤田の動揺ぶりは簡単に察知することができた。俺は追い打ちをかけるように、淡々と言葉を続ける。
「その時に撮った恥ずかしい写真をみんなに配る。私の友達だけじゃなくて、聡にも、サッカー部の人たちにも」
「ふ、ふざけんな!」
藤田が俺の左腕をつかみ、自分の方へ荒々しく引っ張った。握り締めた手の力は予想以上に強く、俺はバランスを崩しながら「痛い!」と反射的に叫ぶ。その甲高い声で我に返ったのか、藤田はすぐさま手を離した。しかし、やはり怒りは収まらないようで、藤田の顔は紅潮しており、突き刺すような目で俺をにらみつけていた。
俺も握られた手付近を右手でさすりながら、きっと藤田をにらみ返す。そのまま俺たちはにらみ合った。しかし、次の瞬間、俺の視界が徐々にぼやけ始めていき、目の前にいる藤田の輪郭がおぼろげになった。俺は右手で自分の両目を拭った。そして改めて藤田の方へ目を向けると、先ほどまで怒りで覆いつくされていた藤田の表情に、戸惑いが上書きされていることが分かった。
「ごめんね……。こんなのずるいよね」
再び俺の視界が涙でにじむ。俺はもう一度右手で涙を拭うが、涙はとめどなくあふれ続け、次第には小さな嗚咽が出始めた。
「でも、やっぱり……こうでもしないと……絶対、聡は私を見捨てちゃう。だから……お願い。これが済んだら写真は絶対に消すし、もう二度とこんなこと言わない……だから……」
嗚咽交じりの俺の言葉に、藤田は明らかに混乱していた。それでも目の前で泣いている女の子を放っておけないのか、恐る恐る俺の方に歩み寄り、もごもごと聞き取ることのできない言葉をかけた。
それでも俺の涙は止まらず、何度もこすられた両目に火照った痛みが帯び始める。
「お願い……」
嗚咽と嗚咽の間に、俺は絞り出すような声でそれだけ言い放った。
俺は顔を伏せ、両目を両手でぬぐい続ける。それでも、視界の片隅で、藤田の首が小さく縦に振られたことだけははっきりと理解することができた。




