加賀なつみのケース②
俺はそっと瞼を開く。
目の前には整然と並べられた机と、それらに座る高校生の姿があった。部屋の前方では中年の男性がチョークを握りしめ、へびのような文字で英文を書き連ねている。男性は黒板に英文を書き終えるとこちらへ向き直り、唐突に英文を読み始める。そしてそれに合わせて、俺の周りにいる生徒もまた同じ英文を音読する。生徒がぼそぼそと退屈そうに英文を読み終えると、男性は満足そうに顔をほころばせ、再び黒板に向き直り、今度は英文の構造について説明をし始めた。
俺も黒板を見ている仕草をみせつつも、できるだけ自然に自分の服装をチェックしてみる。俺は白いシャツの上に紺色のブレザーを羽織り、下は真っ黒の長ズボンを履いていた。何気なしに懐に手を突っ込むと、ブレザーの内ポケットから何やら硬くて四角いものに手が触れる。取り出してみると、それは生徒手帳だった。俺はそれを開き、最後のページに記載されていた学生証を見てみる。そこには爽やかな好青年の写真と、その横に町岡聡という名前が載せてある。
俺はそのまま自分の引き出しやらバックの中身やらを何気なしにあさり続けた。しかし、まもなく黒板の右上に取り付けられたスピーカーからなじみのあるチャイム音が流れ、授業時間の終了が告げられる。教卓に立っていた男性はその音を聞くと少しだけ眉をひそめ、「中途半端にはなるが今日はここまで」と言い放った。それと同時に周りの生徒が我先にと喋り声をあげ始め、教室全体が一気にさわがしくなる。
「おい、なんだよ途中からもじもじし始めてさ。腹でも痛くなったのか?」
右横に座っていた男が茶化すように俺に話しかけてきた。
「うっせーな、畑。そんなんじゃねえよ」
俺は畑という名の男に小さく笑い返しながら、椅子から立ち上がった。畑が不思議そうにどこにいくんだと尋ねてきたので、俺は便所とぶっきらぼうに答えた。すると畑はにやにやと顔をほころばせながら、「ごゆっくり」と言ってきたので、俺は畑の肩に軽いパンチを繰り出してから教室の外へ出る。
しかし、教室の外へ出るやいなや、俺は廊下を横から歩いてきた女子高生と接触してしまった。俺にぶつかり、バランスを崩したその子の腕を俺は反射的に手に取った。その瞬間、俺とその女の子の目線がぶつかる。しかし、女の子はすぐさま視線をずらし、下を向いてしまった。その女の子は両頬にうっすらとしたそばかすを持っており、全身から純朴な雰囲気を漂わせていた。
「なんだよ、加賀か。気をつけろよ」
「あ、ありがとうございます……。町岡君……」
俺の咄嗟の判断で転ばずに済んだ加賀は顔を下に向けながらしどろもどろにそう答えた。そして、ばっと反射的に腕を俺の手から離し、そのまま廊下を走って行った。
俺は所在なさげに頭をかき、そのまま一人で男子トイレへと向かった。男子トイレに入るとすぐに俺は個室へと入り、鍵を閉め、ズボンを下さないまま便座に座る。そして、個室の外に聞こえない程度の音量で小さくつぶやく。
「平島。聞こえるか? 聞こえるんだったら返事しろ」
しばらくそのままの状態で待っていると、聞きなれた平島の声が頭の中に小さくこだました。
「はい、マタタビくん。平島です。ちゃんとこっちの世界に来ることができました」
平島はどことなく上機嫌にそう答えた。俺はすぐさま平島が今どこにいて、どこのどいつを演じきっているのかを質問した。すると向こうから平島が何か身体周りをがさがさと探る音が聞こえてくる。おそらく、今になって初めて生徒手帳を探し始めたのだろう。
「平島ぁ、前もさんざん言っただろ。こっちに来たら何はともかく自分の身元を確認しろって」
「アハハ。ちょっと気が抜けてましたね……。ついつい忘れちゃいました。あ、わかりました。私は今校内の調理室にいて、二年C組の田中真由美って子になりきってます。でも今のところそれ以上の情報はないです。加賀さんとの接点とかも……」
俺は平島の言葉を聞きながら手をあごにやり、少しだけ思案する。
「わかった。じゃあ、平島はとりあえず、その田中って子と加賀なつみとの接点やらを探ってくれ。配役された以上、その子も今回の件に何らかの役割があるってことだからな」
「は、はい……」
平島は奥歯にものが挟まったような返事をする。
「こっちの世界のルールはきちんと頭に入ってるか?」
「それが……その……。久しぶり過ぎて、ちょっとだけ忘れちゃったみたいな?」
平島は渇いた笑い声と共にそうつぶやいた。俺は小さくため息をつき、できるだけ手短に説明する。
「いいか、お前は今田中真由美って子になり切ってるんだ。つまり、田中真由美が当時体験したことをそっくりそのままお前もこれから体験することになる。平島が能動的に何かをやろうと思わない限り、お前は田中真由美が行動した通り、そして喋った通り動くことができる。だから平島はとりあえず、できる限り田中真由美の流れに逆らわないように振る舞え。そして田中真由美の言動をもとに俺たちが知りたいと思う情報を拾い上げていく」
「私が田中真由美の過去の流れに逆らって行動したときはどうなるんでしたっけ?」
平島が尋ねる。
「その場合、田中真由美本来の行動から一旦外れることになってしまう。その後、元の流れに戻ることができるならいいんだが、戻れなかったときが大変だ。俺たちは演じている人間の流れにのることはできても、そいつの記憶とか何やらは共有できないからな。つまり、流れから外れた後は自分の考えだけで、できる限り周りと軋轢を生まないように行動しなければならない。だからここぞという時、あるいはその後流れに戻れる確信がない限り、勝手な行動を取るのはよくないな」
「わ、わかりました。えっと、じゃあ次は今回の依頼についてなんですけど。加賀さんとの接点を除いて、どんな情報が出そろうまでじっとしてればいいんでしょう?」
「今回はシンプルに一つしかない」
俺はそのまま言葉を続けた。
「なぜ加賀なつみが告白できなかったのか。その原因についてだ」
依頼主加賀なつみの後悔は、告白ができたはずなのにそうしなかったこと。つまり今回のミッションは、加賀なつみの告白を妨げた原因を取り除き、加賀に再び告白のチャンスを与えること。
今回はうかつにも、事務所にいる時点でその原因とやらを聞きそびれている。そのため、その障害が物理的なものなのか心理的なものなのかはわからないが、そこを含め、一から調べ上げる必要があるのだ。
「そして、必要な情報が出そろって初めて俺たちが流れに大幅に逆らって行動する。加賀なつみが本来体験した過去とはまた違う過去を作り出すために。それが俺たちの今回の仕事だ」
平島は納得したように相槌を打った。もちろん完璧に理解している確証はないが。しかし、だからといって平島を一方的に非難することはできない。事実、この世界はそれだけ不可思議なものなのだ。平島が仕事を手伝うようになってからまだ日は浅い。こればっかりは少しづつ、感覚で理解してもらうしかない。
とにかく平島は俺の指示を受け入れた。とりあえずの計画としては十分だろう。休み時間がそろそろ終わりそうだからもう切るぞ、と平島に告げると、平島は慌てて俺に質問を投げかけてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください。マタタビくんはいったい誰を演じてるんですか? もしかしたら接触する機会があるかもしれませんし、教えてくださいよ」
「あ、ああ。悪い。俺は今、二年A組の町岡聡って好青年を演じてるんだ。学年も同じだから確かに接点があるかもな。それにすでに加賀なつみとの最初の接触も済ませてきたところだ」
「好青年ですか……」
平島はその言葉を繰り返す。平島もきっと俺と同じことを考えているのだろう。俺は再びトイレの外で誰も聞き耳を立てていないということを確認してから、平島にささやいた。
「ああ、多分平島の思う通りだ。おそらく、俺が演じている町岡って男が、加賀なつみの告白の相手だろうな」