湯浅真紀のケース⑦
俺の目線の先にあったのは数個の、黒い染みだった。白めのコンクリートの上にできているからか、やけに目立つ。
「これって、血か何かか?」
「そう……ですよね」
「でも、誰の?」
俺はそう言いながら平島の方へ顔を向ける。平島はいつになく不安そうな表情を浮かべていて、その表情から平島が何を考えているのかが手に取るようにわかった。俺はごくりと唾を飲み込み、同意を求めるように平島に喋りかけた。
「まさか、中川沙希の血じゃないだろうな」
「……私は、そうだと思います」
俺は馬鹿馬鹿しいと半ばあきれ気味に悪態をつきながら立ち上がり、慌てて周囲を見渡した。そして、ちょうど階段室がある方向に向かって二、三メートルのところに俺は同じような染みを見つけた。俺は小走りで駆けよって、再びしゃがみこみ、それが先ほどの黒染みと全く同じものであることを確認する。違いと言えば、先ほどは染みがいくつかまとまって存在していたのに対し、ここには染みが一つしかないということだけだった。
俺は立ち上がり、足元を注意深く観察しながら階段室へとゆっくり歩いて行った。間隔はバラバラだが、その黒染みが落下地点と階段室を結ぶ直線状に点々と存在している。平島も俺の後ろをのろのろとついてきながら、その染みを確認した。
「怪我した中川沙希さんが階段室からさっきの右奥まで歩いて行って、そこから飛び降りた」
平島は俺の後ろで独り言のようにつぶやいた。
「何の根拠があってそんなことを……。大体、これが一昨日にできたなんて確証はないし、そもそもそんな怪我を負ってるなら、死体を見た警察が見逃すはずがないだろ」
しかし、平島は手を口元に持っていきながら、真剣な表情を崩すことなく言葉を続ける。
「出血量は大したことないようですし、それなら落下中に木とぶつかってできた傷に紛れてわからなくなったっていうことも考えられます。まあ、水前寺くんの言う通り、これが一昨日にできた染みだっていう前提に立っての話ですけど」
「もしかしてお前はこんなこと考えてんじゃないだろうな」
俺は平島の顔を覗き込んだ。
「殺意を持った藤田が中川沙希を凶器か何かを振り回しながら追いまわし、屋上の隅っこまで追い詰められた中川沙希は藤田に突き落とされて死んでしまったって」
「……そういう可能性だってあります」
俺は大げさにため息をつきながら、肩をすくませた。平島の推論はあまりに現実離れしているし、何より湯浅真紀の話に影響されすぎて、藤田が人殺しであるという無意識の先入観に囚われている。こればっかりはこの仕事をするにあたって害悪でしかない。俺は諭すような口調でゆっくりと平島に語り掛けた。
「確かに平島の考えは可能性としては間違ってない。だけど、冷静に考えてみればそれがおかしいってわかるだろ? お前が考えているのは、ありえる可能性の一つに過ぎないんだから」
「そ、それはわかってますけど……。なんていうか、偶然にしてはできすぎてるかなって……」
平島は顔を伏せ、足元にあった黒い染みを見つめる。
「わかった。実際、藤田正吾の行動はいまだに不明なままだしな。とりあえずはもう一つの場所に行ってよう」
「もう一つの場所って、どこですか?」
俺は階段室へと歩き出しながら、平島に答える。
「中川沙希の死体発見現場だ」




