湯浅真紀のケース⑥
俺は驚きのあまり、声に出してその名前を言ってしまった。幸い独り言で済ますことができるような音量で言ったため、近くにいた数人が不愉快そうにこちらをチラ見しただけだった。
「よくできた偶然だな……。まあ、全く知らない人物を演じるよりは楽でいいけど」
「そうですね、加賀なつみさんなら私も口調とか覚えてますし、演じやすいです。それで、これからどうしますか?」
俺は腕を組んで少しだけ思案した後、平島に答えた。
「湯浅真紀が言っていたイベントまで時間がない。今からすぐに中川沙希の自殺について調べる必要があるな。とにかく俺は今から自殺現場に行って、簡単な調査をしようと思う。幸いにも今日は部活が休みらしく、簡単に動けるからな。平島はどうだ?」
「まあ、私も大丈夫そうですね。同じ部活の田中真由美さんに連絡してから部活を休んでそっちに合流します。少しは不審に思われるかもしれませんけど、まあ、一日くらいなら支障は出ないと思います」
俺は平島に別館の屋上から調べることを告げ、現場で集合するように告げた。二人で一緒に行くのは明らかに不自然なので、俺は平島が教室を出て別館へ向かったのを確認してから、少し間をあけて教室を後にした。
俺が別館の階段を登り切ると、屋上とつながる扉の前に加賀なつみを演じている平島が立っていた。平島が俺に向かい、恐る恐る畑君ですかと尋ねてきたので俺はうなづいた。すると平島は安心したようにため息をつき、それから自分の後ろにあった扉を指さした。
「待ってましたよ、マタタビくん。でも、残念なことに扉に鍵がかかってて屋上に出られないっぽいです」
確かに飛び降り自殺があったのに、そのまま屋上を解放したままにするわけがない。俺は扉に近づき、取っ手を乱暴に押したり引いたりしてみた。しかし、扉はがたがたと音を立てるだけで開くわけがなく、俺は諦めて扉の鍵穴をのぞいた。そこまで新しいタイプの鍵穴ではなく、一昔前の古い型であることが見て取れる。
「屋上に入れないんじゃあ、調査もできませんし……。どうします?」
「どうするもこうするも、何とか中に入るしかないだろ」
俺は鍵穴の構造をじっと観察したのち、平島に向かってヘアピンを貸してくれと言った。平島は慌ててポケットの中をあさり始めたが、途中で自分の髪をとめているピンのことを言っているんだということに気が付き、前髪を止めていた二本のピンを慎重に外して俺に手渡した。
俺はヘアピンを受け取ると、すぐさまそのうちの一本の先を思いっきり捻じ曲げた。平島は俺の行動に非難の声を上げる。
「勝手に何やってるんですか、人様のものを!」
「しょうがないだろ。時間もないんだし」
俺はぶつぶつと小言を言う平島を相手にせず、慣れた手つきで錠に二つのヘアピンを差し込んだ。そのまま器用にヘアピンを動かし、十分ほどかけて鍵を開けることに成功した。俺は得意げな表情を浮かべながら平島へ向き直ったが、平島はピッキング技術に感心する様子もなく、ただただ不愉快そうな顔をしているだけだった。
「なんだよ、そんな犯罪者を見るような目で。仕事柄こいう技術は必要なの。俺だって別に現実世界でやってるわけじゃないからな」
「……とにかく、マタタビくんには家の住所は教えないように気をつけます」
俺たちはそのまま扉を開け、屋上へ出た。別館は三階建ての本校舎とは違って二階立て構造であり、その分高さはない。しかし、本館の三階部分よりは少しだけ高く、また屋上と屋内を結ぶ階段室とその上の給水ポンプに視界が遮られ、本館からこちら側全体を見渡すことはできないだろう。おそらく、事件当日にも本館三階に人はいたはずだが、誰一人として中川沙希の墜落を見たものはいないはずだ。俺はそのまま屋上の縁まで近づき、そこから下をのぞく。二階立て構造とはいえ、古い学校の校舎であるゆえに一階一階の天井が高く設計されており、想像以上に地面との直線距離は大きい。当たり所をしくじらなければ十分に自殺可能だと言える。
「マタタビくんは本気で、中川沙希さんが殺されたって思ってるんですか?」
いつの間にか俺の後ろに立っていた平島がそう喋りかける。
「正直、湯浅真紀の言うことがまるっきり本当だとは信じていない。だけど、一方で、藤田正吾って男の行動が不審だっていうのも理解できる。さっき、サッカー部のやつに聞いたんだが、事件当日藤田は部活の練習をさぼっていたらしい。それと、俺が町岡聡を演じていた時、偶然藤田正吾と鉢合わせたって言ったよな?」
俺は地面から目を離し、代わって後ろにいた平島に向き直る。
「奇妙なことにな、その時にも藤田はサッカー部のユニフォームを着てたんだよ」
「藤田さんってサッカー部ですよね。別におかしくないと思いますけど」
「なぜ藤田はユニフォームを着ていたのかが問題なんだ。藤田は部活へ行っていないはずなのに」
平島はあっと小さく声を漏らし、興奮した様子で俺の言葉を引き継いだ。
「確かにそう言われてみたらそうです。しかも、放課後が終わってすぐの時間なのに、すでに藤田さんはユニフォームを着ていた。普通は部室やらで着替えそうなものなのに……。そう考えた場合、考えられることは一つ」
「そうだ。藤田はおそらくそのまま部活に行くつもりだったんだろう。何か別館で用事を済ませた後でな。まあ、なんでその予定が狂ったのかはわからないけど」
俺と平島はお互いに神妙な表情で見つめあった。重たい沈黙の後、平島が小さい声で口を開く。
「マタタビくんはその用事と、そして部活に行けなかった理由が、中川沙希さんの事件に関係していると考えてるんですか?」
「断定はできない。俺たちが今話している事実は、単に筋が通ってるように聞こえるだけなんだ。そこに何の根拠もない。だけど、湯浅真紀が藤田正吾を直感的に疑ってしまうのには十分な証拠だとも言える」
俺は小さく肩をすくめる。平島は俺の言葉を少しだけ考えた後で、何かを決心した様子でひとりでにうなづいた。そして大げさに両手でガッツポーズを作り、無邪気に微笑んだ。
「とにかく。私たちが今できることは、できるだけ綿密に調査をして、藤田正吾さんの行動の真相を確かめることですね。依頼人に納得してもらうには、そのらへんのもやもやを解決するしか方法はないですから。仮に殺されていないとしても、藤田さんがこの別館にいた理由、あるいは中川さんが本当に自殺だったということを示せばいいんですもんね。そうとなったら、さっさと調査を進めちゃいましょう!」
俺も同意を示すために小さくうなづき、そのまま自殺現場を詳しく調査しようと提案した。事務所で湯浅真紀が述べていた、中川沙希の墜落箇所をとりあえず調べてみることにし、俺たちは屋上の奥隅に歩いて行った。中川沙希が墜落した場所はちょうど階段室から向かって右奥にあり、雑木林が生えている別館の裏庭に面していた。木々は不規則に生えており、それら大半の高さは屋上より少し低い程度だった。特に一本の立派な木が現場からとても近くに生えていて、枝葉の一部が別館校舎のすぐそばまで伸びていた。俺が何気なしに墜落箇所からそこの木を見下ろしてみると、ちょうど真下にある枝が何本も不自然に折れているのが見てとれた。
横にいた平島にもそのことを告げると、平島は少しだけ考えた後で自分の考えを述べた。
「多分ですけど、ここから中川沙希さんが落ちた時にそこにあった枝に引っかかったんじゃないですか? 確か、湯浅さんの話では体中が傷だらけだって言ってましたし、それはこの枝によって傷つけられたものだと思います」
平島はそれだけ言うと、地面から目を離し、代わって自分の足元周辺を観察し始めた。俺は平島の説明に納得しつつも、一つだけ質問する。
「多分、平島の言う通りだろうな。でもさ、仮に中川沙希が自殺したと仮定して、どうしてここから飛び降りたんだ? 途中で枝に引っかかって死ねないお可能性だってあるし、飛び降りるなら反対側の方が下がコンクリートだし、楽に死ねそうなんだけどな」
「中川沙希さんは衝動的に自殺したのかもしれません。だから、死ねるとか死ねないとかいう冷静な考えができなかったと考えれば筋は一応通ります」
平島は足元周辺にじっと目を凝らしながら答えた。そして、突然驚きの声をあげ、俺の服の裾を勢いよく引っ張った。俺は慌てて、平島の方に向き直り、平島が指さす箇所を見つめた。俺はそこにあるものをよく見るために腰をかがめながらつぶやく。
「なんだこれ?」




