湯浅真紀のケース⑤
「おい、畑。何ぼっと突っ立てんてんだよ」
俺が目を開けると、そこには不思議そうに俺の顔を除く男子高校生の姿があった。
俺は教室に座っていた。左側につけられた窓からややオレンジ色が混じり始めたくらいの西日が差し込んでおり、ちょうど終礼が終わった後の時間だということがわかる。
不意に声をかけられたことに驚いた俺は、情けない声で返事をすることしかできなかった。しかし、目の前の少年は俺の動揺した態度を特段気にかけることもなく、左肩にかけているエナメルバックを持ち直しながら気だるげに言葉を続けた。俺は耳を傾けながら、少年が持っていたエナメルバックにつけられていた、日本代表と思われるユニフォームとサッカーボールを形どったキーホルダーに目を向ける。
「せっかく今日は部活が休みなんだからさ、帰りにどっか寄って帰ろうぜ」
少年はにかっと八重歯を見せつけるようにして笑った。俺は反射的に同意の言葉を言った後で、慌てて前言を撤回し、それはできないと少年に伝える。
「わりぃ。ちょっと用事があるんだ。先に帰っててくんねぇか」
少年は少しだけ不満そうな顔を見せながらも渋々と了承し、じゃあなと右手を挙げて教室から早々と出ていこうとした。
「あ、待ってくれ。ちょっと確認したいことが……」
「なんだよ?」
俺は怪訝そうな表情を浮かべる少年から目をそらし、一瞬だけ教室前方に設置されている大きな黒板を見た。そして、その右隅に書かれた日付を確認してから質問を投げかける。
「くだらない質問で悪いけどさ……。ちょうど一昨日の部活の時、藤田って部活の練習に来てたっけ?」
「はあ?」
少年は拍子抜けな声をあげる。
「一昨日、中川沙希が自殺した日だろ? 藤田は部活に来てないよ。しかも、何の連絡もなしにさ。俺たちもそん時は真面目な野郎なのに珍しいって言ってたじゃんか。というか、お前が一番騒いでたぞ」
「わりぃわりぃ。ちょっと度忘れしちゃって」
へらへらと笑う俺に呆れたのか、少年は小さくため息をつきながら教室を出ていった。俺はそれを見送った後、改めて自分がいる教室全体を見渡してみた。まだ終礼が終わったばかりだからなのか、教室内にはいまだに生徒が残っていて、仲がいい同士で楽しそうに談笑している。それら一人一人をできるだけ自然に観察しながら、俺は自分が座る席の左側の席に目をとめた。
俺は今、畑という男を演じている。つまり、町岡聡の右横に座っていた男だ。そして、その場合、俺が今見つめている席は町岡聡の席ということになる。町岡聡の席は空っぽで、どこか幻想的に席を照らす西日と相まって、どこかわびしさを漂わせていた。
俺は身の回りを観察し終えると、椅子にもたれかかりながら、心の中で同じくこっちの世界に来ている平島に呼びかけた。
少しだけ間が空いた後、音量を落としたひそひそ声で平島が返事をした。別に心の中で会話しているので音量を気にする必要はないのだが、平島は現実世界の感覚から抜け出せず、周りに人がいる時はいつもそのように声をひそめる。
「時間もないし、ちゃっちゃと情報を交換するぞ。俺は今、二年B組の畑という男を演じている。サッカー部に所属していて、町岡聡の右横の席に座ってる。俺が町岡になっていた時の記憶から察するに、町岡とはそこそこ仲のいい友達と言ったところかな。で、そっちは今誰を演じてるんだ?」
しかし、俺の問いかけに平島はどこか困惑したような口調で返事をするだけだった。
「なんだ? まだ確認してないのか?」
「いえ、もう確認は終わりました。それでですね。どうやら私、加賀なつみさんを演じているっぽいんです」
「加賀なつみ!?」




