六部(最終話)
11
外の空気は蒸し暑く、生ぬるい風が肌にまとわりついて離れなかった。
「今日はこのまま帰るか」
「それがいい」と僕は言った。
繁華街を駅に向かって歩いていく。居酒屋やキャバクラのキャッチや、派手な色のロングドレスを着てままならない日本語を話す中国人の女に声をかけられたりしたが、僕たちは相手にせず歩き続けた。フジタは地下鉄の改札へ、僕はJRの改札へ向かった。フジタと別れたあと渇きは更にひどいものとなって心を苛んだ。血の代わりに砂が流れているみたいだ。ひとりではこの渇きに耐えられそうになかった。誰でもいいから、いや誰でもいいというわけではないけれど、この渇きを満たしてくれる誰かに助けて欲しかった。
財布を自動改札機に触れさせると警告チャイムが鳴り、フラップドアに行く手を阻まれた。後ろで睨みつける紺のスーツを隙なく着こなしたサラリーマンの脇を通り抜けて券売機へ引き返した。財布からICカードを引き抜くと一緒にピンク色の紙が出てきた。ソープの優待券だった。ピンク色の紙が放つ甘い誘惑が帰ろうとする僕の理性を押しとどめる。
券売機から離れた壁に背を預け、優待券を眺めた。渇きはもはや耐えがたいものになっていた。金を払えば芹沢さんを抱きしめたときのように女を抱けると思うと熱が疼いた。女を抱きたかった。そして抱きしめて欲しかった。渇ききって砂になり風に飛ばされてしまうまえに。
店は繁華街の表通りを裏に抜けた暗く人気のない通りに面していた。ピンク色の外壁が目立つ店だった。壁に掲げられた看板をあわただしくライトが照らしていた。僕は足を止めることなく、自動ドアのボタンを押した。黒い小さなカウンターが目に入った。アイロンのしっかりかかったワイシャツを着た坊主の店員が不自然な笑顔で、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ、と言った。それから妙に間延びした甲高い声で店のシステムについて説明してくれた。説明が終わり、最後に女の子の指名があるかを聞かれた。僕はないです、と答えて優待券を出した。店員はカウンターの右脇のカーテンを開けて「こちらでお待ち下さい。順番が来たら番号でお呼びします」と言って番号札を僕に渡した。
待合室には何人もの客が座っていた。スーツ姿のサラリーマン、髪の毛を茶色く染め、Tシャツにブルージーンズの学生風の若者。作業着を着た髭が伸びっぱなしになっている中年の男性、くたびれた白いシャツにスラックスを穿いた白髪の老人もいた。僕は一番奥のソファーに座った。皆それぞれの方法で待ち時間を過ごしていた。新聞や雑誌を読む者、携帯電話をいじる者、ゲームをする者、煙草をひたすら吸い続ける者。僕はそんな待合室の光景をアルコールに酔った眼でぼんやりと眺めていた。しばらくそうやって時間を潰していると、何か居心地の悪い空気が待合室に満ちていることに気づいた。客は先ほどから入れ替わるのだけれど、空気は依然として変わらなかった。最初は音楽が流れていないせいだと思ったがそれは違った。これは待合室で待つ人間が作り出していた空気だった。職業や年齢は違っているが、一様に自分は他の客とは違うという空気をかもしだしていた。風俗店の小さな待合室でまったく知らない人に対してもこんな無意味なことが行われていると思うと、僕は溜息をつくことしかできなかった。しかし僕もこの待合室にいるということは多かれ少なかれ彼らと同じ空気を放っているのだろう。僕は駅のトイレの悪臭を思い出した。世界はどうしようもなく繋がっているんだな、と心のなかでつぶやいた。
壁に掛けられた大型の液晶テレビは音もなくバラエティ番組を映していた。テレビの中の芸能人は手を叩いて力の限り笑っていたが、音が聞こえないので何に対して笑っているのかわからなかった。もしかしたら時間をもてあましている僕らを見て笑っているのかしれない。そんなくだらないことでも考え続けていないと、僕の身体は熱と渇きで崩れ落ちてしまいそうだった。
不意に自分の番号が呼ばれた。坊主の店員は番号を二回繰り返した。僕は前のソファーに膝をぶつけて立ち上がった。店員は受付のときと同じように不自然な笑みを浮かべて、こちらへどうぞ、と言った。僕は平均台の上を歩くような危なっかしい足取りで店員の前へ向かい、番号札を見せた。店員は番号札を確認すると、女の子にたいして暴力をふるってはいけないとか本番を強要してはいけないといった注意事項を説明し始めた。そして横のカーテンに手をやり「奥に女の子がお待ちしております。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」と言った。
12
カーテンをくぐると、目の前には三つ指を揃えて頭を下げた女の子がいた。女の子は顔を上げて僕と目が合った瞬間、電池が切れたように止まってしまった。とても澄んだ眼をしていた。石を投げ込めば底に辿りつくまでの軌跡をしっかりと追えるほど澄んだ湖を思わせた。ピンク色のドレスから覗く白い肌、絹のように輝いた黒髪、いったいなぜこんな綺麗な女の子が風俗で働いているのだろう。僕がアルコールに支配された頭で見とれているあいだ、彼女は瞬きひとつしなかった。どうしたの? と不安になって尋ねると、彼女は「なんでもありません。申し訳ございませんでした」と言って立ち上がり微笑んだ。何か昔を思い起こさせる素敵な微笑みだった。どうぞこちらへ、と女の子は言って僕の前に立って歩き出した。
うす暗い照明の廊下を彼女の後ろについて歩いた。彼女の髪が揺れる度に石鹸と香水が混じった匂いが微かに香った。その香りが僕の熱をどうしようもなく刺激した。奥から二番目の部屋の前で彼女は立ち止り扉を開けた。そして、お入り下さい、と言った。目の前には小さめのベッドがあり、右側にはガラスで仕切られたバスルームが見えた。オレンジ色の仄かな明かりが部屋を包んでいた。中へどうぞ、という言葉に急かされ部屋に入った。
扉の閉まる音に振り向くとまた彼女と目が合った。引力が働いていると思えるほどに僕は彼女の眼に引き付けられた。
「どうかされましたか?」彼女の声で僕は我に返った。彼女は妖艶な笑みを浮かべていた。
「なんでもないです」
「お客様はこのような場所は初めてですか?」
「そうですね。だからなんだか落ち着かなくて」
「何も緊張なさる必要はないんですよ。上着をハンガーに掛けますね」と彼女は言って僕のジャケットを脱がせた。
「次はシャツを」
彼女はワイシャツのボタンを上から外していった。彼女がワイシャツを畳んでベッドに置いている間に、僕は自分でTシャツと靴下を脱いだ。そして彼女に渡した。今まで自分が着ていた服が丁寧に畳まれてベッドの上に重ねられていく。
「それではズボンを失礼します」
そう言って彼女はベルトに手をかけた。手は小刻みに震えていた。彼女がズボンをハンガーに吊るしているあいだ僕はトランクスだけという姿で立っていた。
「足はどうされたのですか?」と彼女は言った。
「捻ってしまって。もう痛くはないけれど違和感があるから湿布を貼ってるんだ」
「剥がしてもかまいませんか? 衛生上の問題がありまして」
「かまわないよ」
彼女はゆっくりと湿布を剥がし、おしぼりで丁寧に拭いてから両手で湿布があったところを包みこんだ。違和感は不思議なことにどこかへ消えていった。ありがとう、と僕が言うと彼女は黙って微笑んだ。
「失礼します」
今度は何のためらいもなく僕のトランクスを脱がした。僕は裸という完全に無防備な状態で名前も知らない女性の前に立っていた。性器は固く熱をおびていた。昔の俺が今の俺を見たらどう思うだろうか? 両親、友だち、今まで好きになった女性、芹沢さん、そしてヒカリはどう思うだろうか? きっと軽蔑するに違いない。そう思うと情けなく恥ずかしく、自責の念が込み上げてきた。俺はあなたたちを傷つけて、損ねてきた。だから誰も助けてくれないのだろう。それはよくわかった。けれども、あなたたちも俺を傷つけてきたじゃないか。どこへ行くあてもない怒りの感情がうねりながら体内を駆け巡った。いや、もう過去のことは忘れよう。そして今はこの目の前にいる女を抱くことだけを考えよう。自分で自分を駄目にしようとしているのはわかっている。でもそうしないわけにはどこにも行けない気がした。僕は、服をきちんと畳んで部屋の隅の籠に置いている彼女の後ろ姿を眺めた。
彼女は僕の前に立つと僕を静かに見つめた。深い湖の底まで引き込まれていく。
「キスをしてから脱がせてくださいね」
彼女はそう言って両手を遠慮がちに僕の前に差し出した。彼女の手を握った。そのとき、今まで感じていた渇きや心の震えはすべて満たされた。穏やかな気持ちに包まれ、懐かしい記憶がよみがえった。
「ヒカリ?」
気づいた時にはその名前が唇から零れていた。目の前にいる女性は嬉しそうに顔を綻ばせ、僕の手を強く握り返した。
「やっと気づいた」、とヒカリは言った。
13
僕は半ば信じられない気持ちを抱きながら、ぼんやりとヒカリを見つめた。まさしく僕の目の前にいる女性はヒカリだった。今までなぜ気づかなかったのだろうか。ヒカリが笑いを堪えながら僕の身体を見ていた。僕は知らない女性の前で裸になっているのではなく、ヒカリの前で裸になっていることに気づいた。
「服を着ていいかな?」
「ダメ」
「どうして?」
「罰よ。あの日、私にサヨナラも言わずに引っ越したこと。そしてそのあと連絡ひとつよこさなかったことに対しての。私ずっと待ってたんだから」
「悪かった」
「いいよ。今こうして会えたから。ちょっと座ろっか」
ベッドに腰掛けたとたん会話が途切れた。沈黙が部屋を支配した。空調の唸る音がやけに大きく聞こえた。沈黙を破る言葉が欲しかった。
「ケイ君変わらないね。癖っ毛とか、緊張すると髪の毛いじったり、何度も時計を見るクセ」
「そうかな?」僕は髪の毛から指を離した。
「そうだよ。今日見た時びっくりしちゃった。身長も高くなって、顔つきも大人らしくなってたけどその癖っ毛としぐさを見たらケイ君だってすぐわかっちゃった。ケイ君から見て私変わったかな?」
「綺麗になったよ。まったく気づかなかった。でも手を握った瞬間ヒカリだってわかった。懐かしい記憶がよみがえったよ。十年以上まえに一度だけ握った手なのにね。今でも優しさと温かみを覚えてる」
「私も覚えてるんだよ。ケイ君の手の優しさは。だからケイ君も覚えてたらいいなって思って手を出したの。なかなか気づいてくれなくて焦れたのもあるけどね」
「もし手を握っても俺がわからなかったら、何も言わないつもりだったの?」
「そうかもしれなかったし、そうじゃなかったかもしれない。わからないよ。でも今現実にこうやって話してるんだからそれでいいじゃない。ホント良かった。あれで気づいてくれなかったらどうしようかと思った」ヒカリは唇を尖らせて言った。
「ごめん。でもそろそろ服を着ていいかな?」
「ダメ。言ったでしょ罰だって。本当は会った時もっとスゴイことしてやろうと思ったけど、ちゃんと手を握ったときに気づいてくれたから特別にこの程度で許してあげてるのに」
「すごいこと?」
「そう。スゴイこと。知りたい?」
「いや、遠慮しておくよ」
「そう、それは残念。せっかくいろいろ考えてたのに。まあ冗談はこれくらいにしておこう。でも本当にあの頃は傷ついたんだよ。どうして何も言ってくれなかったの? どうして連絡もくれなかったの?」
「なんて言ったらいいかわからなかったんだ。さよならを口にしたら二度と会えない気がして。引っ越した後も電話や手紙で何度も連絡を取ろうとしたけど駄目だった。ヒカリに拒絶されたらと思うと怖くて何もできなかった」
「ねえどうしてそんな悲しいこと言うの? 私がケイ君を拒絶するなんてあり得ないのに。そんなに私が信用できなかったの?」
「そういうわけじゃないんだ。ただ自分が信じられなかっただけだよ」
「ケイ君はいつもひとりで問題を抱えて、ひとりで解決しようとするのね。そんなケイ君を見ているのがいつも辛かった。そのうちどこかへ行ってしまいそうで」
「そんなことはないよ」
「よく言う。ホントに引っ越してどっか行っちゃったじゃない。なんで私が流れ星や四つ葉のクローバーを探そうとしたり、キスをしたかわかる? ケイ君をどうしても繋ぎ止めたかったの。迷信やおまじないでも何でもいいからすがれそうなものには全部すがってでもケイ君を繋ぎ止めたかった。でもぜんぶ無駄な努力になっちゃったけどさ」
そう言ってヒカリは僕の瞳を見つめた。瞳は幼い日、四葉のクローバーや流れ星を探し求めたときのまま純粋に輝いて涙に濡れていた。
「ごめんね。今更こんなこと言ってもケイ君を困らせるだけなのにね」とヒカリは言って俯いた。髪が流れ落ちて横顔を隠した。
「昔から俺は自分の感情をうまく言葉にできなかった。パズルの空白に当てはまるピースを探し出すのがとても下手なんだ。人より時間がかかるし、合っていると思って手にしたピースも、結局その空白に当てはまらないことがある。そしてその傾向は自分の大切な人たちに対してだとさらに強くなってしまう。時間はかかるし、とんでもなく間違ったピースを選ぶ。最悪だ。そうやって俺はたくさんの人を傷つけてきた。その中にはもちろんヒカリも含まれている」
ヒカリはゆっくりと顔をあげ、首を横に振った。
「いいの、気にしないで。さっきケイ君こういうお店初めてって言ってたけれど本当?」
「本当だよ」
「ケイ君も大人になったんだね。これからどうする?」
「どうするって?」
「ケイ君はこういうことを女の子に言わせるのが好きな人なの?」とヒカリは言って笑った。
「ごめん。そういうわけじゃないんだ。ここが風俗店で自分が客であるということをすっかり忘れてしまっただけなんだ。でもいいよ。そういうことはできない」と僕は言った。「今は久しぶりにヒカリに会って混乱してるんだ。それにこういう場所で、お金が絡んでいる状態でそういうことはしたくない」
「なんとなくケイ君の言おうとしてることはわかる。じゃあこのまま昔話をしながら過ごす?」
「手を、手を繋いでいてくれないか? それだけでいい」
「手を?」
「そう」
「わかった。なんだか小学校の頃に戻ったみたい」とヒカリは言って微笑んだ。 ヒカリのまわりの空気も一緒に微笑んでいるような素敵な微笑みだった。
僕は息をひとつ吐いた。そしてヒカリの左手を握った。ヒカリの手は大きく成長していて、大人の女性になったことをあらためて感じた。手のひらの持つ温かさ、優しさも小学校の頃よりも大きくなって僕を包み込んだ。ヒカリが僕の右手を握り返すと一層強く存在を感じた。瞼を閉じると心に喜びと安らぎの感情が満ちていくのがわかった。もう砂のような渇きは消え去っていた。ずっとこのまま手を繋いでいられたらどれだけいいだろうか? 僕はヒカリがどこにも行ってしまわないように、自分の気持ちを見失わないように指と指の間に自分の指を滑り込ませ、力強く握った。そのとき、中指と薬指の間に固い感触があった。いったい何だろうか? 確かめるように中指と薬指に力を入れて神経を集中させた。確かに固い感触がした。僕は眼を開いて薬指に視線を落とした。指輪だった。シンプルで飾り気のないシルバーのリングが光っていた。
僕は素晴らしい夢から覚めたような喪失感に襲われた。どうして今までこの指輪に気づかなかったのだろう。僕たちはもう二十七歳なのだ。結婚していてもおかしくはない年齢だ。僕は今まで独りのまま生きてきたが、ヒカリのような女だったら他の男が放っておくはずがない。――というよりなぜこんなところにヒカリはいるんだ? 借金でもしたのか、はたまた親か男のものを肩代わりでもしたのか? 一体なぜ? わからない。混乱して答えが導きだせない。……一六年という歳月は人が変ってしまうのには十分な時間だ。おれも変わった。ヒカリも変わってしまったのだろう。昔は……昔は僕に好意を持っていたけれど、今も僕に好意を持っているとは限らない。そのヒカリはいなくなってしまったのかもしれない。それに僕はヒカリをどうしようもなく傷つけた存在なのだ。割れた卵は元には戻せない。たとえ山が出できるほど金を積んでも、どのような力をもってしても。そんなことすらわからなくなるほど僕は混乱していたのか。けれども、今は手を繋いでいたかった。僕は自分に関わった人間を傷つけてきたろくでもない男だけど、この時間だけはヒカリの手を繋ぐことを許して欲しかった。眼を閉じて、もう二度と繋ぐことができない左手の記憶を焼き付けるために右手に力を込めた。
暗闇をコール音が叩き壊した。瞼を開けるとヒカリは僕を見つめていた。僕もヒカリを見つめ返した。僕とヒカリのあいだにコール音が響きつづけていた。
「ちょっとごめんね」ヒカリは僕の手をほどいて、壁に掛けられた電話を取りに立った。
「延長は?」
「遠慮しておくよ。明日も仕事だからさ」と僕は言った。「もう服を着ていいかな?」
ヒカリは頷き、受話器を戻した。聞きたいのはこんなことじゃないのに。僕は自嘲して笑った。服を着ているあいだ、ヒカリはドレスの裾を指でつまみながら、何か言いたげな表情をしていた。空調の音が室内に響く。僕はヒカリを見つめながら、唇から紡ぎ出される言葉を待った。
「また会える?」
「きっと会える」
ヒカリの瞳が揺れ、口元に寂しげな微笑みが浮かんだ。
「なにか書くものある?」
僕は鞄からボールペンを出した。ヒカリは僕の手からボールペンを取ると、黒色の化粧ポーチから名刺大の紙を出した。ヒカリはひとしきり何かを書いてからその紙を僕に突き出した。紙には携帯電話の番号とアドレスが書かれていた。
「連絡ちょうだい」
僕は紙を受け取りジャケットの胸ポケットにしまった。
来たときと同じようにヒカリの後ろについて歩いた。細長い廊下が終わり、黒いカーテンのまえまで来た。カーテンの向こう側はヒカリのいない世界だ。
「じゃあ、また」
「ケイ君の“また”って言葉は信じてもいいの?」
ヒカリの問いかけに答えるべき言葉が見つからなかった。
「バカ!」ヒカリは叫んで薬指の指輪を取り、僕のジャケットにねじ込んだ。そして両手で僕の胸を押してカーテンの外へ突き出した。僕は混乱したまま坊主の店員に迎えられ、言葉にならない挨拶をして店を出た。
生ぬるかった風はいつの間にか冷気を帯びて、夜空には月が青白く輝いていた。僕は波の上を歩くようなおぼつかない足取りで駅へ向かった。駅に近づくにつれて混乱は収まり、今日の出来事が映画のエンドロールのようにゆっくりと頭の中を流れた。どの出来事も夢の中で起こったように思えた。フジタと飲んでいたことも、ヒカリと会ったことも手ごたえが残っていなかった。けれどもジャケットの胸ポケットから名刺を取り出すと、確かにヒカリと会っていたのだということを名刺は主張していた。玄関には父の靴が綺麗に並べて置かれていた。僕は自分の靴と一緒にそれを磨いた。左のかかとがすり減っている。そろそろ直しに出してもいい頃だろう。リビングの扉を開けると父がいた。
「おかえり」と僕は言ってリビングを抜けた。
風呂に入りパジャマに着替えた。そして布団に仰向けになって名刺を眺めた。白地に黒いボールペンで書き殴られたヒカリの番号とアドレス。蛍光灯の光に照らされた部屋のなかで僕は穴が空くほどその名刺をにらみ続けた。ヒカリは僕に何を求めているのだろう。薬指に通された指輪は夫や恋人からもらったものではなかったのか? なぜ僕に渡したのだろう? 僕は名刺を置き、枕元の指輪に手を伸ばした。親指と人差し指でつまみ、いろいろな角度から指輪を眺めた。表面にはいくつもの傷がついていて、長くその指輪をつけていたことをうかがわせた。蛍光灯の光が指輪に反射した。目を細めてみると指輪の内側に文字が彫られているのを見つけた。心にひとすじの光が差し込んだ。
ヒカリに繋がる十一桁の番号を押し、携帯電話のディスプレイを眺めた。遠くかすれて呼び出し音が聞こえる。
「もしもし?」
ヒカリの声が空気と僕の心を震わせた。ジグソーパズルはあとひとつのピースで完成する。もう何も迷う必要はない。僕はピースをそっと納めるように言葉を口にした。
「完」
2009年頃に初めて書いた小説です。(それから手直しは何度もしていますが)。
読んで下さった皆様、ありがとうございました。