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五部

  9

 頬に布団の感触を感じた。身体をおこすと見慣れた光景が広がっていた。僕のカーテン、僕の机、僕のテレビ、何ひとつ変わったものはなかった。バーからどうやって家に帰って来たかを思い出せなかった。記憶の糸を辿ろうとするが、糸はどこにも繋がらずきれいに断ち切られていた。記憶がなくなるほど飲んだのにもかかわらず、身体は軽く意識は覚醒していた。しかし、心の隅では昨日の炎が罪を忘れることはできないと燻り続けていた。時計を見た。五時だった。いつもより早い目覚めだ。僕は顔を洗うために立ちあがって階段を下りた。

 母はテーブルに頬杖をついて、椅子に座っていた。

「どうしたの? こんな早くに」と僕は言った。

「ちょっと目が覚めちゃってね。あなたこそ早いじゃない」母はコーヒーカップに手を伸ばした。「朝ごはん食べる?」

「お願いするよ」

 母の後ろ姿を眺め、昨日の芹沢さんとの会話を思い出した。僕は父をどれだけ知っているのだろうか? 考えてみたが、ほとんど何もわからなかった。僕は自分で勝手に作り上げた想像上の父しか知らなかった。背中に冷たい汗が滲んだ。テーブルを見つめてみたが、テーブルは何も話しかけてはくれなかった。たぶん僕はこのテーブルのように何も語らず生きてきたのだろう。今その罰が下されているのだ。

「お待たせ」母は僕の前にベーコンエッグとトースト、グラスに入った牛乳を置いた。

「いただきます」と僕は言ってトーストに手をつけた。

 母は向かいの椅子に座り、飲みかけのコーヒーを飲んだ。

「親父は?」不意に言葉がこぼれた。

「昨日も帰って来てないわよ」

「最近家を空ける日が多くない?」と僕は続けて訊ねた。こぼれ出した言葉はもう戻らない。

「そう? 今まで何度もこういうことはあったじゃない。とくに多いとは思わないけど。めずらしいわね。あなたがお父さんのこと気にするなんて」

「芹沢さんから聞いたよ。母さんたちのことを」

「そう」と母は言った。

「聞きたいことがあるんだ」

「わかったわ。でもあなた会社は大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。問題ない」

 この瞬間を逃したら二度と聞けなくなるのでは、という思いが僕をつき動かした。

「そうね。あなたがご飯を食べ終わったら話をしましょう」

 カップをテーブルに置く音、ナイフが皿に当たる音、壁時計の秒針以外の音は聞こえなかった。食器を下げるとテーブルの上にはコーヒーカップとグラスだけが寂しげに残った。秒針の音が大きく空気を震わせていた。

「母さんは親父を愛しているの?」

「愛しているわ」

 母の声は確信に満ちていた。そして揺ぎない視線で僕を見つめた。

「なぜ、ほかに愛人を作る男をそんな風に愛していると言えるの?」

「それはたいした問題じゃないの。ただそう思うのが私にとって一番自然なことなの。疑いようも、間違いようもないほどに私の心はお父さんを求めているの。だって私お父さん以外の人を愛したことなんてないもの」

「いつから親父が好きだった?」

「物心ついたときからよ。もう出会った瞬間に私はこの人と結ばれると思ったわ」

「幼馴染みだったの?」

 僕の声は調子外れに空気を震わせた。

「そうよ。同じアパートの隣りの部屋だったのよ。言ったことなかったかしら?」

「初めて聞いたよ」

「驚いた?」と母は言って微笑んだ。

「とても」

「でも何も隠していたわけじゃないのよ。話す機会もこれといってなかったし、 何よりもあなたはお父さんのことも私のこともこれまでほとんど聞いてこなかったし」、と母は乾いた声で言った。

「そうだね」確かにそうだった。

「私にとってお父さんはとても身近な存在で、好きになるのは自然だったと思うの。私たちは幸運に恵まれすぎていたのね。大抵のひとが生涯をかけて探し続ける伴侶をいきなり見つけてしまったのだから。でも――」

「でも?」

「光があれば影があるように、今まで何も問題がなかったわけではないの」母は コーヒーカップに手を伸ばした。沈黙がふたたび訪れた。

「小学校に入った頃に最初の問題があったの。それでお互いに少し距離をとるようになったの」

「それはどうして?」

「あなたにも経験ない? あの年頃の子供って異性と仲良くしていると囃し立てたり、からかったりするでしょう? 私たちはお互いをそういうのに巻きこみたくなかったのよ。だから学校では距離をとることにしたの」

 そういえば僕とヒカリの間にも同じようなことがあったことを思い出した。

「学校で会う機会は少なくなったけど家に帰るとよく遊んだわ。学校で会えない時間を埋め合わせるようにね。お父さんと一緒にいると本当に心が満たされていくのがわかるの。空っぽのグラスに水を注いでいくように、それはハッキリと目にみえて、手でさわれるくらいにたしかなことなの。でも、お父さんと別れて独りになるといつの間にかグラスの水は空っぽになっているの。私はとても喉が渇いているけど、水を飲めない。不当に貶められているように感じる。だから私は二人でいるのが自然で、独りでいることが間違っていると思った。わざわざ付き合うって言葉を口にするまでもなく、一緒にいるのが正しいことで、それはお父さんも同じ気持ちなんだと思っていた」

 僕は短く相槌を打った。

「でも、お父さんは私が言葉にしないことが不安だったのね。表向きのお父さんは何も変わらなく思えたけど。いつからか、表情に影を落とすようになったの。それは一瞬なのだけれど、私にはわかった。そしてその影は成長していくにしたがって深く、濃くなっていったの」

「なぜだろう?」

 母は左手をテーブルの上に広げ、人差指でテーブルを叩いた。規則的に響く音に意識を集中させ記憶を辿っているようにみえた。

「きっと、たしかな支えが欲しかったのよ。言葉というね。そしてその言葉はお父さんの方からは口に出せなかったの。結婚するとき、私に断られたらと思うと言えなかったって言われたわ。馬鹿ね。断る可能性なんてないのに。でもその影の原因は私だけではなく、家庭の環境にもあったのよ」

「家庭環境」と僕は言った。

「そう。お父さんの家は父子家庭だったのよ。母親はお父さんが小学校一年生の時に亡くなったの。私もお葬式に出たからそのことはハッキリと憶えているわ。病弱だったけれどとても優しいお母さんだった。父親の方は怖くて近寄りがたい雰囲気の人で、典型的な亭主関白だった。ときどき怒鳴り声が隣から聞こえてくることもあったわ。私はその怒鳴り声がすごく嫌だったの。まるで私まで一緒に怒られている気がして。そして母親を亡くした時を境にして父親は彼に当たることが多くなっていったのだと思う。もうお父さんを守る母親はいなくなってしまったから、お父さんは独りで父親と戦わなくてはいけなかったのね。一番落ち着ける場所であるはずの家庭でもお父さんは気を抜けなかった。今だったら簡単にそんなことはわかるし、力になれると思うけど、当時の私には何もわからなかった。小学校五年生のとき、私がお父さんの家に遊びに行くと父親がいたの。あの日は日曜日だったかしらね。私たちはリビングで遊んでいて、お父さんが飲み物を取りにキッチンへ立ったの。しばらく私はリビングで待っていたのだけれども、トイレに行きたくなって廊下に出たら父親の声が聞こえたの。今でも憶えているわ。恐ろしく低い声でお父さんに、お前がお母さんを殺したんだ、と言ってたわ」

 僕は頷くことしかできなかった。

「私はとても衝撃を受けたわ。トイレに行くことも忘れて放心状態でリビングに戻ったの。そしたらお父さんはグラスにレモンジュースを入れて持って来て、いつもと変わらぬ笑顔でグラスを渡してくれたの。信じられる? たかだか十歳程度の子供が親からあんな酷いことを言われて平然としていられるなんて」

「信じられない」

「おそらく、もうずっとああいったことはお父さんにとって日常的に繰り返されていたのかもしれないわね」

 そう言った母の表情には暗い影が落ちていた。

「だからお父さんは父親に負けないように、常に自分を向上させる必要があったのよ。父親から受ける圧力や、自分の内面から湧き出る苦しみや悲しみに耐える心を手に入れるために」

 母の口から語られる言葉を通して、僕は父という人間をわかり始めた。いや、父というよりひとりの人間をわかり始めたのだ。そして、ひとりの人間を知っていくにつれて、今まで遠い世界のひとに思えた父が急に身近な存在に感じた。悩みや苦しみを感じる同じ人間として。

「親父は強い人間になったと思う。でも結局どこかに弱いところがあって、母さんを傷つけてるように俺にはみえる。お互い自分の弱いところを認め合って共有していくのが愛というものなんじゃないか?」

「そうね。でもお父さんは違ったわ。若い頃私が何回そう言ってもとぼけたり、はぐらかしたりするだけ。そして自分の我慢の容量を超えそうになると他の女のところへ逃げて、しばらくしたら私のもとへ帰ってくる。その繰り返し」

「ねえ。母さんはこんな関係をなんでそんなに我慢できるの?」

「このことを知ったときはもちろん我慢なんてできなかったわ。だからお父さんが一八歳になったとき、一方的に感情をぶつけて私の方からプロポーズして結婚したの。もうその頃にはお父さんは一人暮らしをしていたし、特に問題はなく話は進んだわ。でも二人で暮らすようになってから気づいてしまったの。お父さんがこういうことをしなくてはならないのは私が原因なのだということに」

 そんなことない、と僕は言ったが、その言葉は僕と母の間に雲のように浮かんで消えてしまった。母は首を横に振った。

「さっきも言ったようにお父さんには私が必要なの。私もお父さんが必要で、この関係を続けるためには他の誰かが必要なのよ」

「でも、実際にはその関係が母さんを傷つけてきたんじゃないか」

「いいえ。もう私は傷つくことはないわ。だって私にはあなたがいるから」

 そう言った母の眼差しはいつか見たことのあるものだった。懐かしい空気と匂いが僕の記憶を呼び覚ました。ヒカリの家に謝り行く前に僕を見つめた眼差しだ。あの頃の僕は何も知らずに怯えていたが、いまやっとその意味がわかった。

「だから私は大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 僕は瞼を閉じて溜息をついた。

「親父はこの先大丈夫なのだろうか?」

「お父さんは心配無いわ。だって私がいるもの」と母は言って微笑んだ。

母の表情に落ちていた影はもう見当たらなかった。

「そろそろ支度をしなくちゃ」

「お父さんの肩を持つわけじゃないけど、たぶん父親としてあなたにどう振る舞っていいのかわからないところがあると思うの」

「わかったよ。最後にひとつ聞いていいかな?」

「どうぞ」

「母さんの考える愛ってなに?」

「転んだ子供が立ちあがるまで見守ることよ」

「ありがとう」と僕は言って席を立った。

「こちらこそ」

 昨日から今日にかけていろんなことが起こった。いや、起こっていたけれど今まで僕が気づかなかっただけなのだ。でも、これで良かったと思う。芹沢さんのことも母のことも、間接的ではあるが父のことも知れたのだから。父も母も幾分変わった形ではあるけれど、お互いを本当に愛しているのだ。そう思うとなんだか微笑ましかった。しかし、芹沢さんのことを考えると僕の心は重くなっていった。今まで芹沢さんのような役目を果たしてきた女性たちは今どこで何をしているのだろうか? 僕には彼女たちが幸せになることを願うことしかできなかった。僕が願ったところで何も意味がないとしても。芹沢さんと、出会うことなく去っていった女性たちを思いながら家を出た。足の具合はもうだいぶ良くなっていた。


 

   10

 始業間ぎわに会社に着き、僕は同僚にからかわれながらデスクに向かった。上司に過ぎたことは仕方ないから、今日から取り戻せと言葉を掛けられた。失敗は昨日のことなのに遥か昔に起こったように感じられる対応だった。長く営業をやっている人たちの切り替えの速さにはいまさらながら驚かされる。

 穏やかに流れる雲のように仕事は順調に進んでいた。この数週間、嵐の中にいた気分だったが、今日は不思議なくらい僕の心は落ち着いていた。上司や同僚と軽口や冗談を言いながら仕事を進めているとパソコンにメールが入った。フジタからの誘いだった。喜んで、と僕はメールを返した。

 

 フジタとグラスを合わせてビールを飲む。ここのところ毎日ビールを飲んでいる気がした。

「おめでとう」と僕は言った。

 フジタは何のことだかわからない様子でしばらく呆けていたが、言葉の意味がわかると表情を綻ばせた。

「ありがとう」

「天野さんから聞いたよ。よかったじゃないか」

「そうだな。俺にはもったいないくらいの女だよ」とフジタは言った。

「でも今思うと天野さんに対してはやけに慎重だったじゃないか?」

「怖かったんだよ」

「怖かった?」

「そう。あいつは今までとは勝手が違う。いや、昔好きだった女を思い起こさせた。この前は偉そうにあんなこと言ったけどな」とフジタは言って髪をかき上げた。「入社してひと目見た時からはっきりとわかったよ。だから慎重になった。一つ手順を間違えればすべてを失う気がしてな。長かったよ。途中、何回も追うのを諦めようとした。何人もの女を代わりに抱いた。でもダメだった。あいつの代わりなんていなかった。他の女を抱いてもすぐ渇いて空しくなるだけだった。金曜日は何もせずに送る予定だったんだよ。そしたら向こうから告白してきた。驚いたよ。初めて彼女ができたときを思い出した」

「初めて見たよ。こんなフジタを」と僕は言って笑った。

「そうか? なんか情けないな」

「でも前よりフジタを近くに感じるよ」

フジタは言葉なく微笑んだ。

「ところでお前はユリちゃんとどうなったんだ?」

 僕は金曜日に起こったことを話した。そして、もう付き合う見込みがないと付け加えた。 

「そうか。うまく行くと思ったんだけどな。それは残念だった。お前にとってもユリちゃんにとっても」とフジタは言って煙草に火をつけた。

「しかたがないさ」

「俺は思うんだけど、お前は本当にユリちゃんが欲しかったのか?」

フジタの表情はいつになく真剣だった。

「わからないな」と僕は言った。煙草の長い灰が落ちた。

「うん。お前には本当に欲しいものがまだ見つかってないのかもしれないな」

 僕はヒカリを思った。もうすべては手遅れで二度とヒカリに会うことはできないのだろうか?

「欲しいものが目の前にあったら考えるよりも前に行動だ。そうしないと俺のように情けない姿を晒すことになる」フジタは口角を微かに上げて、煙草を灰皿に押しつけた。

「わかったよ。ところで一本もらえないか?」と僕は言ってフジタの手元にある煙草を手に取った。

「どうしたんだ?」

「吸いたくなっただけだよ。いけないか?」

「いや、いけなくはないよ」

 煙草を咥えて火をつけようとしたがなかなか火はつかなかった。

「吸って火をつけるんだよ。煙草の火もつけられないようじゃ中学生にも笑われるぜ」

 煙を吸い込むと、むせて激しく咳きこんでしまった。

「そういうのも笑われるな」とフジタは笑いながら続けた。

 いつの間にか僕たちのビールを飲むペースが上がっていた。何となく今まで僕もフジタも緊張していたのだろう。空になっていくジョッキに合わせて僕とフジタの会話は弾んでいった。しかし僕の心のある部分は渇きを増していった。なぜだろう? こんなに楽しいのに心が渇くなんて。たぶんこの渇きは僕自身やビールや煙草では満たすことはできないのだろう。僕は煙草を胸いっぱいに吸ってひどく咳こんだ。

「大丈夫か」

「大丈夫さ」僕は笑顔を作った。目尻に涙が滲んだ。

「今日は飲みすぎたな」フジタは煙草の煙を吐いて言った。

 脳漿の代わりにビールが注がれているのかと思うほど僕の脳はふやけていた。

「そろそろ出よう」


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