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四部

 俺はいったい何をしているのだろう。そして何を求めているのだろうか? 金曜日の夜、僕は確かに芹沢さんを求めていた。しかし熱はどこかへと消えて、芹沢さんを手に入れることはできなかった。僕が自分の気持ちを見失っているあいだに扉は閉じられていた。

 時間を無駄にし、仕事にも支障をきたしてしまうのなら、もう何も欲しがらない方がいいのかもしれない。たぶん僕は何を求めても手に入らず、誰にもどこにも繋がってなんかいないのだろう。後ろに過ぎゆく景色、人の声、どれもがガラスの向こう側の僕とは関係のない世界に思えた。

 待ち合わせの時間まで余裕があったので僕は本屋で時間を潰すことにした。新刊のコーナーで平積みにされている新書を手にとって読んでみたが、書かれている文章はアラビア文字のように理解できず、頭に入ってこなかった。僕は本を戻すと今日が『ジャンプ』の発売日であることを思い出した。学生時代にはよく読んでいたが社会人になってからめっきり読まなくなってしまっていた。懐かしさを胸に『ジャンプ』を開いたけれど、僕が知っている漫画は片手で数えられるほどしか連載してなかった。昔は楽しく読めた作品もどこか味気なく感じてしまった。そう感じたのが今の心の状態によるものか、作品によるものかはわからなかった。携帯電話をポケットから取り出した。不意に携帯電話が震え、天野さんの名前が画面に表示された。

「今お店の前なんだけど、どこにいるの?」

「近くの本屋です。まだ待ち合わせの時間じゃないですよね?」

「お互い仕事が早く終わったんだから早めに飲もうよ。それとも私とは長い時間一緒にいたくないのかな?」と天野さんは冗談めかして言った。

「そんなことはないです。すぐに行きます」

「じゃあ早くね」


 本屋を出て店に向かうと天野さんが右手を挙げて僕を呼んだ。

「遅い」

「すみません」

「なんてね。冗談よ。さあ入りましょう」

 この前と同じ店員がテーブルへと案内してくれた。前回と変わらず素晴らしい接客だった。案内された席は個室の二人掛けで、周りの目も気にならなかった。テーブルも小さめで相手との距離は近く、デートをするのなら申し分のない席だった。向かいに座った天野さんを見ると、頬はうっすら桃色染まっていた。瞳は輝き、生命力に溢れていた。金曜日フジタはこの女性を前にして、どんなことを考えて一緒に時間を過ごしたのだろう?

「どうしたの? なにか考えごと?」

「なんでもないです」と僕は言った。

「なんか変なスズキ君」と言って天野さんは微笑んだ。

 僕もつられて微笑んだ。太陽、と僕は思った。

 店員にカシスオレンジと生ビールを注文した。天井のスピーカーからジャズの軽快なピアノとウッドベース、パーカッションの音が降りそそいでいた。

「今日は災難だったね」天野さんがたどたどしい口調で沈黙を破った。

「いえ、自分のミスですから。それより気をつかって頂いて申し訳ないです」

「いいの。気にしないで。いつもスズキ君がんばってるじゃん。だから、あんな失敗の一つや二つしたって全然大丈夫だからね」と天野さんは言って大きく笑った。

「ありがとうございます」

 天野さんにカシスオレンジが、僕の前に生ビールが置かれた。天野さんはメニューを見て、フレッシュトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ、オイスターのガーリックバター焼き、若鳥のローストを注文した。

「スズキ君は何か食べたい物ある?」

「天野さんにお任せしますよ」

「じゃあ、とりあえずこれで」

 店員はよく通る声で料理を復唱して軽やかな足取りで去って行った。グラスを合わせると、澄んだ気持ちの良い音が短く響いた。お互いグラスに口をつけ、同じタイミングでテーブルにグラスを置いた。天野さんの表情を見ると、何か言いたいけど言い出せない、そんな逡巡した表情をしていた。

「どうしたんですか?」

 天野さんはグラスを手の中でもてあそんでいた。

「金曜日、ユリとなにかあったの? 今日の二人、様子がおかしかったからさ」

 僕はグラスをゆっくりまわした。金曜日、僕と芹沢さんのあいだに何が起こったのか? それは僕にもまだ消化できていないことだった。何かあったとも言えるし、何もなかったとも言える、そんな出来事を僕はうまく言葉にできなかった。

「ゆっくり、ありのまま金曜日起こったことを思い出して。そしてありのまま話して。もしかしたらユリとスズキ君を助けてあげられるかもしれないから」

「助ける?」

「今日のふたりは世界の終わりを眺めているような表情をしてたんだよ。そして今も」

 僕はグラスをテーブルに置き、記憶の糸を探った。細く頼りない糸を辿り僕と芹沢さんの間に起こったことをそのまま話した。グラスを持ちあげた。テーブルには小さな水たまりができていた。

「なるほどね。そういうことがあったんだ」と天野さんは言った。「ユリの言うようにあまりそういうことは気にしない方がいいよ。それよりどうしてスズキ君は勝手に帰っちゃったの?」

「自分でもよくわからないんです。ただあのときはこれ以上芹沢さんに迷惑をかけたくないと思ったんです」と僕は言った。

「迷惑? 迷惑なんかじゃないと思うけどな。好きな人にだったらどんなことがあっても一緒にいて欲しいに決まってるでしょ?」

「好きな人?」

 天野さんは信じられないことが起こったような眼で僕を見つめた。唇は微かに開かれ、その奥に白い歯が見えた。

「好きな人ってスズキ君しかいないでしょ。どこの世界に好きでもない男を自分の家に誘う女がいるのよ」天野さんは語気を強くして言った。

「あの日は足を怪我していましたから」

「たしかにユリは優しいからスズキ君以外の人が怪我をしても放っておかないかもしれないけどね。でもあの日は最初からユリはスズキ君を誘うつもりだったんだよ。」

 芹沢さんが僕を好きだとか、誘う予定だったという天野さんの言葉は喜ばしい半面、芹沢さんの気持ちを踏みにじってしまったという事実でもあった。

「また会ってしっかり話し合った方がいいんじゃないかな? お互いのために。このまま放っておいてもいい方向に状況が変わるわけでもないと思うし。二人が気まずいままだと私もキツイからさ」と天野さんは言って微笑んだ。

 天野さんの微笑みに影を感じた。僕は芹沢さんだけではなく天野さんにまで迷惑をかけてしまったのか。

「そんな辛そうな顔しないでよ。大丈夫だって。まだ何も終わったわけじゃないんだから。今のスズキ君の顔見たら幸せも避けてどこか行っちゃうよ」

「そうですね。いろいろ気をつかって頂いてありがとうございます」

「いいのよ。気にしないで。今日は飲もう」

 天野さんはカシスオレンジを飲み終え、店員に同じものを注文した。

「ここのお店って美味しいカクテル出すのね。料理も美味しいし、雰囲気もいいし、スズキ君はよくこういったお店で飲むの?」

「たまにですね。いつもは安いチェーンの居酒屋で飲んでますよ」

「たまに女の子と飲むときはこういうお店を使うんだ」

「からかわないで下さいよ。大抵はフジタとです。あいつはこういったお店を見つけてくるのがうまいんです」

「そうなんだ。じゃあこれから、あいつにいろんなところ連れていってもらおうかな」

「あいつってフジタのことですか?」

「そう。あの後私たちも二人でお酒を飲んだの。それで帰り際に改札で告白して付き合うことになったの」天野さんははにかんで、頬を赤く染めた。

「おめでとうございます」と僕は言った。

「ありがとう。でも告白した時は嬉しくもあり、苦しくもあったの」

「苦しかった?」

「そう。二軒目に入ったお店で初めてあいつの過去のこととか、なぜ彼女を作らなかったとかそういう込みいった話を聞いたの。最初は興味本位で聞いたんだけど、あいつははぐらかすことなく正直に話してくれたわ。私も恋愛では何度も酷い目に遭って、もう男なんていいやって思っていた時期もあったけど、あいつの話を聞いていたら私の経験してきたことなんてたいしたことなかったんだって思ったの。ねえ、私は自分よりも不幸な人を見つけて自分の幸せを知った最低な女なのよ。こんな考えを持っている私は酷い目に遭ってきて当然だと思ったし、あいつみたいな正直で強い人間にはふさわしくはないと思ったの。しかもあいつのことを最初気になった理由なんてルックスが良くて仕事ができるからっていうありきたりなものだったしね」と言った天野さんの微笑みは寂しそうに揺れていた。

「でも」と僕は口にした。

「うん。あいつを遠ざけなくちゃいけないと思う反面、もっとあいつに惹かれている自分に気づいたの。不思議ね。あいつの弱いところを知ってまた好きになっていくなんて。ナンパや風俗のこともそれすら可愛く思えるなんておかしいわよね」

「おかしくはないと思います。フジタは正直で誠実な人間です。ナンパや風俗のことを考えても魅力的だと思います」

「そうね。だから気持ちを止められなかったの。店を出て駅に向かっている途中で何て言おうかずっと迷ってたの。あいつは私が退屈しないように、いろいろ気をつかってくれていたみたいだけどぜんぜん頭に入ってこなかったわ」温かみが天野さんの笑顔に戻ってきた。

「それで改札を通り過ぎた時に気づいたら気持が口からこぼれてたの。あの時は自分でも驚いた」

僕は小さく頷いた。「でも大丈夫なんですか? つき合ったからといってナンパや風俗通いはなくならないかもしれませんよ」

「大丈夫」

 そう言って天野さんはまっすぐ僕の瞳を見つめた。

「そこまで人を好きになれるって素敵なことですね」

「なんかごめんなさい。私の話ばかりしちゃって」

「いいえ。気にしないで下さい。むしろフジタと天野さんの話を聞いて救われました」と僕は言った。笑みが自然とこぼれた。

「優しいのね。スズキ君は」

「ただ、感じたことをそのまま伝えたかっただけです」

「じゃあ今度はスズキ君がユリと私を救ってね」

 フジタのことを話す天野さんの瞳はいつにも増して輝いていて、可愛らしかった。そしてとても幸せそうに見えた。フジタも天野さんのことを話すときは幸せそうに見えるのだろうか? そう見えればいいと僕は思った。天野さんの話を聞いているうちに心臓は温まり、力強く鼓動し始めた。こんな僕にまで暖かな気持ちを届けてくれる恋とは素敵だと思った。アルコールの手伝いもあって次第に前向きな気持ちになってきた。僕にもう一度チャンスは訪れるのだろうか? いや、とにかく芹沢さんと話をしなければならない。

 僕と天野さんは軽快にグラスを重ねていった。気づいたときには終電間ぎわになっていた。店内にはテナーサクソフォンのしっとりとしたナンバーが流れていた。

「そろそろ出ましょうか」と天野さんは言って伝票を手に取った。

僕が払いますと言うと、「いいの。私が誘ったんだから」と天野さんは言った。

「でも悪いですよ。僕の方が飲んでますし」

「そんな小さいこと気にしないの。そんなことよりユリのことを考えなよ。それでうまくいったら今度飲むときおごって」と言って天野さんは笑った。


 雨の匂いがした。空を見上げると星も月も見えず、分厚い雲がうごめいていた。駅の構内にはそんな雨の匂いと、群衆が作り出す匂いが混じりむせ返るほどだった。もうすぐ日付が変わるというのに多くの人が駅の中を行き交っていた。話し声や靴が地面を叩く音が反響し、酔った頭に大きく響いた。僕は半歩先を行く天野さんを見失わないように人混みの中を歩いた。改札へ向かう途中、すれ違いざまに肩がぶつかり天野さんから視線が外れた。ぶつかった相手は僕に向かって一方的な罵声を浴びせて、足早に群衆のなかに消えていった。僕は見失った天野さんを見つけようと立ち止まりあたりを見まわした。

 視界の端に影が揺らめいた。僕は導かれるように視線を影の方へ向けた。そこには父がいた。雑踏の中でさえも、父の姿は見間違えようもなく目立っていた。父は改札と反対の方向に歩きながら、隣にいる誰かと話しをしていて僕には気づいていなかった。僕は視線を隣に移した。芹沢さんだった。芹沢さんは瞳を大きく見開き、驚いた様子を見せた。父は芹沢さんの視線を辿って僕を見たが、僕だとわかると前を向きなおした。僕が瞬きをし終えたときには二人は何事もなかったかのように人の中へ紛れていった。僕には今起こったことが現実なのか夢なのか判断がつかなかった。どうして父と芹沢さんが一緒に歩いているのだろう。そしてどこへ行ったのだろう。僕は考えることも身体を動かすこともできずにその場に立ち尽くした。

 遠くから声が聞こえた。プールサイドからプールの中に向って投げかけられたように遠く感じる声だった。

「ちょっと、なに突っ立てるの? 大丈夫?」

「なんでもないです。少し酔いがまわって気分が悪くなっただけです」と言って僕は笑った。しかしうまく笑えたかどうかは自信がなかった。

「もう大丈夫?」

天野さんは心配そうに僕の瞳を覗き込んだ。

「大丈夫です。心配をかけて申し訳ないです」

「それならいいんだけど。じゃあ行こう」

そう言って天野さんは僕の右手を取った。優しく温かみのある手だった。それはヒカリを想わせるような手だった。僕たちは人に流され改札を通り抜けた。電光掲示板は寂しげに終電の時刻を灯していた。

「じゃあ私あっちのホームだから。気をつけて帰りなよ」

「わかりました。天野さんもお気をつけください」

 天野さんはしばらく僕を見ていたけれど、また明日、と言って右手を遠慮がちに挙げホームに続く階段へ向かっていった。僕は天野さんを見送り、使い物にならなくなった頭と体を引きずってホームを目指した。


 玄関に父の靴はなかった。僕は靴を脱ぎすて階段を上がった。リビングに入ると椅子に腰掛け電話をしている母が目に入った。表情は穏やかで、声には親密な響きが感じられた。母は僕が帰って来たことに気づくと通話口を塞いでお帰り、と言った。

 部屋に入り鞄を放り投げ、スーツのまま布団に崩れ落ちた。もう何も考えたくなかったし、考えられなかった。一日中閉められていた部屋は蒸し暑く、汗が全身から滲み出た。スーツが皺になろうが、駄目になろうがそんなことはどうでもよかった。とにかく今は眠りが必要だった。夢のない、考える必要も、何も感じることもない眠りを僕は欲していた。瞼に夜の重みを感じた。眠りはすぐそこまで訪れていた。

 


  8

 アラームが頭の中に響き渡り、朝が来たことを教えてくれた。瞬きのような眠りから僕は眼を覚ました。汗を吸ったスーツは重く体に絡みつき、下着は蒸れて汗臭かった。僕はバーベルを持ち上げるように腕に力を入れて布団から起き上がったが、立ち眩みに襲われてよろめいた。頭はまだ昨日の出来事を整理できず、混乱していた。心臓は鉛を押し込まれたように重く、冷たくなっていた。僕はスーツを脱ぎすて、リビングに降りていった。母は椅子に座り、ニュースを見ていた。

「おはよう」

「親父は?」

「昨日は泊まるって電話があったから帰ってきてないわよ」

 シャワーを浴びても体の汚れが取れないように感じられ、朝食を食べても満たされず、歯を磨いても気持ちは晴れなかった。洗面所の鏡に映った顔は僕のものではないように思えた。鉛が冷たくなった。何回も瞬きをし、顔の輪郭を撫で、髪の毛をいじっているうちに段々と僕が記憶している顔と鏡に映る顔の溝が埋まっていった。僕は芹沢さんの心だけではなく自分自身をも見失おうとしているのか。洗面台に両手をついて俯いた。鏡の中の僕も同じように俯いているのだろうか? いや、もしかしたら蔑んだ目で僕を見つめているかもしれない。上の階から母の声が聞こえた。僕は虚ろな頭を上げ、洗面台の横の棚に置かれたデジタル時計に目をやった。いつもなら家を出ている時間だった。僕が自分を見失おうとしているあいだも時間は流れていた。僕は支度を済ませ、左足を痛めつけるように家を飛び出した。空はすがすがしいほどに晴れ渡っていた。眩しい日差しが夏の近いことを知らせていた。

 会社に着いたのは始業の十分前だった。もうほとんどの社員が出社していた。僕は慌しさに紛れこみ、自分のデスクへ向かった。

急いで資料を作ろうとしたが、まったく集中できなかった。気がつくとモニタの中の文章を何回も読み直していたり、同じ打ち間違いを繰り返したりしていた。それでも時間はかかったがひとつひとつ確実に仕事を終わらせていった。仕事の合間に上司や同僚と世間話をしたり、昼食を取っているあいだも僕はどこか上の空で時間を過ごしていた。何事もなく、穏やかに一日が終わることを願った。一九時頃、携帯電話が震えた。画面に表示された名前を見た瞬間、息が止まった。やがて心臓は止まった時間を取り戻すかのように激しく動きだした。

〈今夜この前と同じバーで待っています〉

小さな画面の向こう側からでも、芹沢さんの意思の強さが感じられる不思議な文章だった。腰を上げ事務のデスクを見た。芹沢さんは既に退社していた。仕事に戻り、キーボードを打とうとするが、まともにキーを打つことができなかった。僕は溜息を大きくついてパソコンの電源を切った。

 

 ゆっくりと時間に抗い僕は歩いた。そして引力に引きずりこまれるように一歩ずつ、確実にバーへと近づいていった。夜の街を行き交う人々は楽しそうに笑ったり騒いだりしながら、それぞれの時間を幸せに過ごしているようにみえた。僕はそんな人々の流れに逆らって歩いた。やがて人通りの少ない路地に出た。レンガ調のビルの壁に付けられたバーの看板がライトに優しく照らされているのが目に入った。僕はその光に吸い込まれるように階段を昇っていった。

 ドアは開かれランプの明かりが柔らかく店内を包み込んでいた。カウンターに目を移すと、入口の手前から二番目のスツールに芹沢さんが座っていた。姿を捉えた瞬間、心臓がビー玉ほどの大きさに縮んでしまったかと思うくらい、苦しくなった。いらっしゃいませ、というマスターの言葉に芹沢さんは振り返った。瞳が光に揺れ、唇に微笑みが浮かび、消えていった。芹沢さんはマスターの方へ向かい一言二言話してからスツールを立つとソファーに座るよう僕に言った。マスターがやって来て、音もなくテーブルにグラスを置いた。それからメニューを僕に差し出した。僕はビールの欄から適当に銘柄を指差して注文をした。

 マスターがカウンターに引き上げ、注文したビールをテーブルに置き、またカウンターに引き上げていくあいだ、僕たちに会話はなかった。いったいどんな言葉を口にしたらいいのかわからなかった。金曜日のことを話すにはタイミングが遅く、月曜日のことを聞くにはどんな質問をしたらいいのか見当がつかない。僕はグラスに注がれたビールを眺めながらそんなことを考えていた。

「とりあえず乾杯しよっか」と芹沢さんが言った。

グラスを合わせ一口飲んだが味が感じられなかった。グラスをテーブルに置くとまた沈黙が訪れた。店内は音楽と他の客の囁き合う声が混じって穏やかな空気で満ちていた。僕は頭のなかにばら撒かれた言葉のジグソーパズルのピースからふさわしい一枚を探すのに必死だった。

「スズキ君からはいつもなにも言ってくれないのね」と芹沢さんは呟いた。

僕はテーブルに置かれたグラスから視線を芹沢さんに移した。顔には諦めにも似た微笑みが浮かんでいた。

「すみません」

「何に対して謝っているの? 別に謝らなくていいの。それより何か言わなくてはならないことがあるんじゃないの?」芹沢さんの声は固く、冷たく、僕の心を貫いた。僕はビールを飲んだ。

「父とはどういう関係なんですか?」僕は砕け散りそうな心から声を出した。

「そうね、通っている英会話教室のクラスメイトよ」と芹沢さんは言って挑発するように微笑んだ。

「それだけではないですよね?」

「うん。それだけじゃないよ。ちゃんと自分から話せるじゃない」

 この隣にいる女性は誰なのだろうか? 今まで見たことのない笑い方や聞いたことのない声色が僕の心をかき乱した。

「あなたのお父さんと私はね、世間でいうところの愛人関係にあるの。といってもあなたのお母さんもこの関係を知っていて認めているから全然やましいことはないんだけどね」

 突拍子もないことが立て続けに起こり、僕は話の速度についていけなかった。しかし何とか食らいついていかなくてはならない。

「どうしてですか?」

「どうしてってどういうこと?」

「どうしてそんな愛人関係になったかってことです」と僕は言ったが、自分の声ではないように聞こえた。

「そうね。お互いがお互いを必要としているのよ。私はあなたのお父さんを必要としているし、あなたのお父さんは私が必要なの。それは生きていくことに水や空気が必要なように当たり前のことなの。あなたのお母さんはそのことを理解しているからこの関係を認めているのよ」

「そんな関係おかしくないですか?」

「どうしてかしら?」

「父と芹沢さんがしていることは世間では不倫と言われていて、常識的に考えて普通許されないことなんですよ」

「そうね。たしかに世間一般的な常識に照らし合わせて考えてみても、法律的に考えてみても私たち三人の関係は変わっているし、許されないものでしょうね」

「そこまでわかっているのになんで」と僕はすがるように言った。

「さっきも言ったけど、あなたのお父さんには今私が必要なの。あなたのお父さんは弱いところを自分の一番愛する人に見られたくないのよ。だから私の前で弱い部分をさらけ出して、自分を平静に保つ必要があるの。あなたのお母さんの前で常に完璧に振うためにね」

「でも、愛する人の前でだからこそ弱い部分を見せられるのではないでしょうか?」

「私もそう思うわ。でもあなたのお父さんはそうは思えない人なのよ」

 僕は目をつむり、深くため息をついた。

「父は芹沢さんに何を求めているのでしょうか?」

「わからない。何も言ってくれないの。でも奥さんとは絶対に別れるつもりはないということははっきり言われたわ」

「そんな関係虚しくないですか?」

 考えるよりも早く感情が言葉となって空気を震わせていた。僕の言葉に驚いたのか芹沢さんの表情が硬くなった。

「初めの頃はね。でも今はそうは思わない。あなたのお父さんのすべては私のものになることはないけれど、少なくとも私と会っている時は100パーセント私だけを考えてくれて抱いてくれているし、たぶん愛してさえいると思うわ。だからあなたのお父さんとの関係はこういったものでいいのよ」

そう言った芹沢さんはどこか儚げに見えた。

「いったい何がそうさせるのでしょうか? 芹沢さんみたいに綺麗で魅力的な人なら誰とでもうまくいきそうなのに」

「あなたそれ本気で言っているの?」

冷たい怒りの感情がこもった声だった。

「私をこういう風にしたのはあなたなのよ」

音楽が止まった。客の声も何も聞こえなくなった。僕は音のなくなった世界で芹沢さんを見つめていた。

「やっぱり気づいていなかったのね。私はあなたのことがずっと好きだったのよ」

 それは大学時代だったら、いや今でなければ聞きたかった言葉だった。でも今は一番聞きたくない言葉だ。芹沢さんは少し俯いた。髪が揺れて頬にかかった。

「むかしからあなたはそうだった。あなたは、私が近づくと遠ざかるし、遠ざかると近づいてくるし、ずっと振り回されて疲れちゃったの。それで卒業して就職して、あなたを忘れようと思って英会話を始めたの。そしてあなたのお父さんと出会ったのよ」

 僕は芹沢さんの言葉が信じられなかった。僕が振り回していた? その結果僕を忘れようと始めた英会話のスクールで父と出会った。芹沢さんについて今まで悩み続けてきた原因は僕にあったのか?

「出会ってからあなたのお父さんに魅かれていくまでは早かったわ。そしていつしか授業が終わったあとに食事をしたりお酒を飲んだりして、身体の関係を持つようになったの。でもまさかあなたのお父さんだったとは思わなかった。そのことを知った時は本当に驚いたわ」

「なんで父だったんですか? やっぱりルックスとお金ですか?」

 僕は嫉妬の感情をそのまま口にした。

「人と人が魅かれあうのって理屈ではないと思うの。確かにあなたのお父さんはお金も持っていて顔もスタイルも良いと思う。でも世の中を見渡してみればそんな人間は数え切れないほどいるわ。現に英会話スクールでも何人かそういう人はいたしね。でも違うの、私の気持ちを揺らして引き寄せたのはあなたのお父さんだったのよ」

 芹沢さんはテーブルに置かれたグラスに手を伸ばした。

「でも、もしあなたのお父さんを選んだ理由を求めるとするなら、それはお金やルックスの良さや、強さなんかではなくて、弱さなんだと思う。私はあなたのお父さんの弱さにどうしようもなく魅かれたんだと思うわ」

「弱さ?」

 あの父に弱いところなんてあるのだろうか?

「そう。弱さ。あなたのお父さんの中には大きな悩み、苦しみ、憂いが渦巻いているのよ。それはあなたのお母さんを愛しているからなのね。愛する人の前で完璧に振る舞おうとすればするほど自分を追い詰めていくことになるの。そして平静を保つために自分の妻ではない誰かを求めてしまう。愛する人以外の女を抱いてしまう自分に対して激しく怒り、時には絶望しているの。その繰り返しの中であなたのお父さんは生きているのよ」

「そんなことになるのなら母だけを愛していればいいじゃないか」僕は吐き捨てるように言った。

「悩みの対象であるあなたのお母さんに問題が解決できると思う? もっと悩んで彷徨ってしまうだけだと思うわ。だから一時的にであれ、そういった感情から逃げ出せる場所が必要なのよ」

僕はうなだれた。頭の上では音楽が優しく響いていた。オルガンの奏でるメロディーにすくわれるように顔を上げた。

「父との関係は今のままでいいんですか?」

「ええ。今はこの関係で十分よ。あなたのお母さんと別れてなんて言わないし、訴えたりするつもりもないから安心して」

 会話がなくなり、沈黙が訪れた。店内のBGMと他の客の囁く声がやけに大きく鼓膜に響いた。手持ち無沙汰になった僕はグラスを手に取り、手の中で何回かまわしてからビールを飲んだ。芹沢さんはその間ずっと白いフレアスカートの裾をなおしていた。

「あなたは私のこと好き?」

 ためらいがちに紡ぎだされた言葉が空気を震わせた。

 僕にとって芹沢さんは憧れの人なのだろうか? 好きな人なのだろうか? それともただの性欲の対象なのか? 芹沢さんの存在を的確に捉える言葉を見つけられなかった。

「好きですよ」僕はいま感じている感情に一番似た言葉を選んで口にした。

芹沢さんは力なく首を振った。そして子供を優しく諭す母親のように微笑んだ。

「たぶん、あなたは私を本当に好きじゃないのよ。もしかしたら本当に好きだと思っているかもしれないけど、私はこういう質問をした時に迷わずに好きって言ってくれる人が欲しいの。100パーセント私のことを愛してくれる人が。自分が子供みたいなことを言っているのはわかってる。でもそういう人じゃなきゃ駄目なの」と芹沢さんは言った。「最後に勇気を出して聞いてみたけれど、やっぱり違ったのね。あなたは私の欲しい感情を持っている人ではなかった。今まで怖くて何年も口に出せなかったけど、勘違いの終わりって意外とあっけないものね」

 僕はどういう言葉をかけたらいいのかわからなかった。こんなときにかける言葉のひとつも思い浮かばないなんて俺は今までいったい何をして生きてきたのだろうか? 自分の感情すらうまく言葉にできない僕には、ただ目の前に置かれたグラスを眺めることしかできなかった。

「私はこれから100パーセント私のことを思ってくれる誰かを探すことができるけど、あなたのお父さんはもうそういう可能性もないのよ。私はそれが心配なの」

「それはどういうことですか?」

「お母さんにはあなたがいるじゃない。だからあなたのお父さんはお母さんを100パーセント自分のものにすることができないのよ」

「僕は母にとって、ただの息子ですよ。いったいなんの問題があるんですか?」

「お父さんは、あなたの存在がお母さんの中にあることで悩んで、苦しんでいるわ。多分あなたが生まれたときからずっと」

 僕は思わず笑ってしまった。

「そんなの普通に考えておかしいじゃないですか。なんで子供がいることで父が悩むんですか? 別に僕は母を恋愛や性的な対象として見たことはないですし、父の前でそのような誤解を生むような言動をとったことは一度もないと思います」 

「私もおかしいと思うわ。でも、あなたや私がそう思っていても現にあなたのお父さんは悩んで、苦しんでいるのよ」

「でも常識的に考えてありえないですよこんなの」

「ねぇ大丈夫? さっきから世間とか普通とか常識って言っているけど、あなたは何を見ているの? 今までお父さんのことをちゃんと見てきたの? そして私のことも。私にはあなたは誰かの瞳に映った自分自身しか見てないように思えるわ」

 僕は今まで父を見ていなかったのか? そして芹沢さんのことも。いや、僕は今まで出会ったすべての人を見ていなかったのかもしれない。世間、普通、常識そういった言葉や考えにとらわれて目の前にいるその人を見ずに、ないがしろにしてきてしまったのではないか?誰も傷つけたくなくて傷つきたくなくて、自分なりに考えて生きてきたがその結果、僕と関係をもった人をことごとく傷つけて、自分だけ傷つかず生きてきたのか? 

 今まで僕が必死に積み上げてきたものが海辺に築いた砂の塔のように波に浚われていった。振り出しに戻る。いや、どこが振り出しだ? 僕はどこへ行けばいいのだろうか? 虚無感が砂に滲みこんでいく水のように広がっていった。僕は力を失って、ゆっくりとソファーにもたれかかった。このままソファーの中に沈んで溶けて消えてしまいたかった。

「ねえ大丈夫?」芹沢さんが僕の顔を覗き込んで言った。そしてマスターに水を頼んだ。

「大丈夫です」と僕はかすれた声で答えた。

「これ飲んで落ち着いてね。何もあなたを傷つけてやろうと思ったわけじゃないの。ただ本当のことを知って欲しかっただけなの」

僕は水を飲んで少しだけ落ち着きを取り戻した。芹沢さんの心遣いが痛かった。

「ありがとうございます。こんな僕に優しくして下さって」

「優しい? 私は当たり前のことをしただけよ」と芹沢さんは言って微笑んだ。

「私はさっきあなたに振りまわされて疲れたって言ったわよね」

「そうですね。言いました」

「でもあなたにこういう風に、優しいって言ってもらえる人間になれたのもあなたがいたからなのよ。だからあなたには感謝もしているの。蹴飛ばしたいくらい頭にくる存在でもあったけどね」

「すみません」

「謝らないで。それに私もあなたのことを傷つけてしまったわけだし。でもこれだけはお願い。私にもどうしてもあなたのお父さんが必要なの。失ってしまったらバラバラになってしまいそうなの。だから今はあなたにこの関係を許して欲しいの」と芹沢さんは言って、シャツの袖を両手で掴み僕を見つめた。瞳は揺れて、戸惑ってみえた。

「許すもなにも、僕にはそんな権利はないですよ。僕が原因で芹沢さんをこういった関係に巻き込んでしまったわけですし。急にどうしたんですか?」

「ごめんなさい。ちょっと言って楽になりたかっただけかもしれない。本当にごめんなさい」「いいですよ」と僕は言った。

 グラスを手に取るとビールはなくなっていた。僕はグラスをテーブルに戻した。

「そろそろ行かなくちゃ」と芹沢さんは言った。

 僕は時計を見た。二十三時をまわっていた。芹沢さんが腰を上げ、僕も立ち上がった。

「ごめん。今はひとりになりたいの。私の最後のわがまま聞いてくれる?」

「わかりました。ずいぶんと酔っているようですから気をつけてください。とくに階段には」

「ありがとう。じゃあまた会社で」と芹沢さんは言って微笑んだ。そしてカウンターで会計を済ませ店を出ていった。

僕は芹沢さんの微笑みの余韻がなくなるとカウンターに移り、ブッカーズをストレートで注文した。グラスに注がれた琥珀色の液体は光を反射して優しく輝いていた。華やかな香りが鼻腔を抜けた。香りを嗅いだだけで酔いがまわった。琥珀色の液体を飲みこむと体内で炎が揺らめいた。僕は瞼を閉じ、炎の中に今まで自分が失ったもの、傷つけたものを見た。どれも取り戻すことができず、謝りようのないものばかりだった。ただ、もし許されるのなら、僕はヒカリにもう一度会いたいと思った。僕は自分の犯した罪を振り払うように、残りのウイスキーを飲みほした。

 グラスをテーブルに置いたとき懐かしい曲がかかった。マイケル・ジャクソンの『ユア・ノット・アローン』。僕はあふれ出しそうな涙を静かに堪えた。歳を重ねるとこういうことが多くなって困る。そういえばマイケル・ジャクソンは死んだんだっけ。この夜のこともマイケル・ジャクソンの死もぼくには現実に起こったことのようには思えなかった。それから僕はカウンターの左端の棚から順にウイスキーを飲んでいった。酔いがまわるとともに意識は混濁していった。


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