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3/6

三部

 時間と人に追われ僕は瞬く間に金曜日の夜に流されていた。飲み会までに仕事を終わらせるため、水曜日と木曜日はかなり無理をした。モニタをにらみ過ぎたせいか目の奥が重かった。一八時過ぎにようやく依頼された仕事を終わらせた。メールにデータを添付して依頼主に送信し、それから打ち合わせをした。仕事が終わったのは一九時半だった。フジタは帰り仕度を始めていた。僕もパソコンをシャットダウンした。二人揃って退社しようとすると、上司や先輩から、男二人で飲みに行くのか、とからかわれた。僕とフジタは笑って受け流してフロアを後にした。

 エレベーターのなかでフジタは「まあ飲みに行くことには変わりがないんだけどね」と白い歯を覗かせて言った。

 いつ雨が降り出してもおかしくない空模様だった。生ぬるい風が雨の匂いを運び、体中に染み込んでいった。

「これは飲んでるうちに降り出すな」とフジタは呟いた。

 待ち合わせの場所に着くと芹沢さんたちが待っていた。

「お待たせして申し訳ないです」とフジタが言った。

「いいの。だってまだ時間じゃないでしょ」と天野さんが笑って答えた。


 フジタが予約した店は普段飲みに行くようなチェーンの居酒屋とは違ってシックで落ち着いた雰囲気の店だった。不必要に騒ぐ客もいなければ、BGMの質も一線を画していた。

「予約したフジタです」

店員は気持ちの良い笑顔で速やかに僕たちをテーブルに案内した。フジタは女の子たちに奥の席に座るようすすめ、天野さんのジャケットを預かりハンガーに掛けた。僕も見習って芹沢さんからジャケットを預かった。しかしフジタのように自然にはいかなかった。メニューを芹沢さんたちの前に開いた。二人はしばらくメニューを見ながら飲み物を検討していたが、芹沢さんはカルアミルクを、天野さんはカシスオレンジを選んだ。


 会話は始終フジタがコントロールした。サッカーでいえば、中盤の底でタクトを振るうボランチのように会話のパスを満遍なく散らした。そして相手の足元に優しく収まる話題を供給し続けた。必要なときは自分の足元に会話を置く呼吸の取り方も見事だった。自然と飲むペースも速くなった。グラスを重ねるたびに、笑顔がふえた。ふたりの頬はほんのり赤く染まっていた。

「このケーキ美味しいわ。しっかりとチーズのコクがあって、舌触りもなめらか」

「そうね。メインのローストビーフとフォアグラのミルフィーユも良かった。あんな凝った料理を食べたのひさしぶり」と天野さんは言った。

 コースの時間が終わり、フジタは伝票とクレジットカードを店員に渡した。

「いくらなの?」天野さんが財布を出しながら言った。

「今日は僕らが誘ったので天野さんと芹沢さんは払わなくて大丈夫ですよ」とフジタは穏やかな口調で言った。

「ダメ。そんなの関係ないよ。私たちだって結構お酒飲んだし、十分楽しませてもらったから払わせて」と芹沢さんが言った。

 店員がレシートとカードを持ってきた。

「ほら、もう会計も済んだので出ましょうか。何か気にかかるようでしたら今度おごって下さいよ」

「じゃあ」と芹沢さんが口を開いた。「今から私はスズキ君におごるから、ミキはフジタ君におごるの。まだ時間も早いし大丈夫でしょ?」

さすがのフジタもこの展開は想像の枠を超えていたようだった。一瞬言葉を失うが、すぐに体勢を立て直した。

「ええ。大丈夫ですよ」

フジタはあくまで冷静に対処した。一流のフットボーラーは簡単には倒れない。

「じゃあ決まりね。行こうスズキ君」


フジタの予想通り外は雨が降っていた。細い雨が街を静かに濡らしていた。

「折りたたみ傘を持ってきて良かった。スズキ君は傘忘れたの?」

「いえ、僕も折りたたみを持って来ました。さてどこへ行きましょうか?」

「私のときどき入るお店に行きたいんだけどいいかな?」

「かまいませんよ」

「スズキ君にも気に入ってもらえるといいんだけど」

店に向かう途中何度か傘がぶつかった。その度にお互い顔を見合わせて笑った。傘が当たらないようにうまく距離を取るのが難しかった。

 

芹沢さんに案内されて入ったのは小さなバーだった。細い階段を昇り、ドアを開けた。木材を基調とした店内は木の匂いと雨の匂いが混ざり、芳しい香りがした。カウンターとソファーテーブルの席があり、一五人も入ればいっぱいになりそうな広さだった。店内に飾られた花や絵は、一見しただけで少なくないお金が掛けられていることがわかった。そしてひとつひとつがオーケストラのように響き合い、店内に調和をもたらしていた。カウンターでは口髭が似合う初老の男性がグラスを磨いていた。芹沢さんはその男性に会釈をして店の奥へと進み、ソファーに座るように僕を促した。腰を下ろすと身体がゆっくりと沈んで、馴染んでいくのがわかった。目の前に置かれたガラスのテーブルには、ランプが柔らかな光を落としていた。

「あの人がお店のマスターなの。ひとりで営業してるお店なんだけど、なかなか素敵でしょ? このソファーはマスターが家具屋を一軒一軒歩いて、実際に座わって納得して買ったものなんですって」

「いいですね」

「ほらこの音楽も」

そう言われて店内に音楽が流れていることに気づいた。音楽は空気のように存在していた。耳を澄ますと優しい音が身体の中に入ってきて、心を温めてくれた。僕は右隣に座った芹沢さんを見てうなずいた。

「このバーは私が聴いたことのない昔の洋楽や懐かしいポップスやロックをかけてくれるからとてもわくわくするの。次は何がかかるんだろうって」

曲はポリスの『見つめていたい』だった。スティングのベースが酔った身体に心地良く響いた。マスターがメニューを僕たちの前に差し出してくれた。メニューには僕が聞いたこともない酒の名前が並んでいた。ビールの項目だけで二十種類以上の銘柄があった。キリンやアサヒくらいしか知らない僕はいささか面を食らった。芹沢さんはたいしてメニューを見ずに、ヒューガルデンのホワイト、と注文した。

「ヒューガルデン?」と僕は訊ねた。

「ええ。ベルギーのビールなんだけどほのかに甘くて美味しいのよ」

僕には甘いビールが想像できなかった。

「スズキ君は何を飲むの?」と訊かれ、僕は「同じもので」と答えた。

「真似した」と芹沢さんは笑った。

芹沢さんの笑顔を見た僕の心臓は跳ねた。

「「ミキとフジタ君、うまくいってるといいね」

「そうですね」

フジタは今何を考えて天野さんと一緒にいるのだろう。腕時計を見ると二人と別れてから三十分も経っていなかった。フジタたちもこうしてお店に入って会話を楽しんでいるのだろうか?

「お待たせしました」マスターは壊れやすい宝飾品を扱うようにグラスを僕と芹沢さんの前に置いた。そしてカウンターの中へ入っていった。テーブルに置かれたグラスにはレモン色の液体とホイップクリームのようにきめ細かい泡をしたビールが注がれていた。

「乾杯」

グラスを合わせると澄んだ音が鳴った。

「今日みたいに二人で飲むのは初めてだね。大学のサークルも一緒で、会社も同じなのになんか変な感じ」

 たしかにふたりで飲むのは初めてだった。サークルの飲み会で同席することはよくあり、本や音楽の話で盛り上がったりしてはいたが、芹沢さんが卒業してからは顔を会わせることが少なくなった。そして会社に入ってからは近づき過ぎないように注意を払ってきたので会話は挨拶程度のものとなっていた。

「私のこと避けてたでしょ」と芹沢さんは言って僕を見つめた。

「避けてないですよ」僕はグラスに手を伸ばした。

「ホントに?」

「本当です」僕はビールをゆっくりと飲み込んだ。

「そう。なら良かった」芹沢さんは満足そうにソファーにもたれかかった。

「スズキ君はミキたちがうまくいくと思う?」

「大丈夫でしょう。きっとうまくいきます」

「スズキ君が言うのなら大丈夫かもね。ミキにもいいかげん幸せになって欲しいからさ」

芹沢さんはグラスに口をつけた。

「スズキ君はミキのことどう思う?」

「魅力的で、可愛らしい女性だと思います」と僕は慎重に言葉を選んで言った。

「そうよね。同性の私から見ても可愛いと思うもの。でも恋愛には奥手なのよね」

「どうしてでしょうか?」

「そのことについては私からは言えないんだけどね。人にはそれぞれ事情があるのよ。フジタ君はいつから彼女がいないの?」

「僕の知るかぎりでは入社してからは一度も彼女はいませんね」

「それはなぜかしら?」

「人にはそれぞれ事情がありますから」と僕は言った。

「なるほどね。ところでスズキ君には彼女はいるのかしら?」

 突然会話の矛先が自分に向けられた。僕は平静を取り戻すためにビールを一口飲んだ。

「いませんよ」

「いつから?」と芹沢さんは髪を耳にかけて言った。

左手のシルバーのブレスレットが妖しく光った。

「僕なんかの話をしても面白くないですよ。それよりフジタと天野さんの幸せを願いながら飲みましょう」

芹沢さんはため息をつき、わかったわ、と言ってグラスを手にした。

 それから僕たちはフジタと天野さんの話題を中心にして酒を楽しんだ。腕時計に目を落とした。いつの間にか十一時を回っていた。そろそろ終電を気にしなければならない時間だった。頬に視線を感じた。芹沢さんは優しい瞳で僕を見つめていた。僕は視線を外し、お互いのグラスが空になっていることを確かめた。

「そろそろ出ましょうか? もう遅い時間ですし」

「そうね」

 芹沢さんは手を挙げてマスターを呼び、バッグから財布を出した。僕も財布を出そうと腰を浮かせた。

「ここは私が出すって約束だったんだけど忘れたのかな?」と芹沢さんは悪戯っぽく言った。

 

ソファーから立とうとしたけれど足に力が入らなかった。僕はうまく立つことができずに尻もちをついてしまった。今日なにを何杯飲んだか思い出そうとしたがまったく思い出せない。

 マスターに会釈をして店の扉を開けて階段を下りようとすると、僕の足は階段ではなく宙を踏んだ。瞬間、何が起こったかわからなかったが、痛みと上から降ってくる芹沢さんの声が、階段からころげ落ちてしまったことを教えてくれた。

「大丈夫?」

 切迫した声が聞こえた。

「大丈夫です」

 僕の声は自分でもわかるほど情けなく空気を震わせていた。立とうとしてみたが、左足をくじいたようで立てなかった。痛みに顔が歪んだ。

「大丈夫じゃないじゃない。歩けないんじゃないの?」と階段を駆け下りてきた芹沢さんが言った。

「歩けます。さあ行きましょう」

 なんとか立ちあがって鞄から傘を取りだした。左足を地面に踏み込んだときまた痛みが身体を襲った。

「ダメ。ここで待ってて。マスターにタクシー呼んでもらうから」芹沢さんは階段を駆け昇っていった。

 僕はそんな芹沢さんの後ろ姿を見て「情けない」とこぼし空を仰いだ。


 タクシーがやってくるまで僕と芹沢さんは降り続ける雨を眺めていた。傘に落ちる雨音と車が上げる水しぶきの音だけが僕と芹沢さんのあいだにあった。やがてタクシーが静かに僕たちの前に停まった。芹沢さんは僕の肩を担ぎ車のなかへ入った。車内は雨の匂いと芹沢さんの匂いが混じっていた。僕はその匂いに酔ってしまって何も考えられなくなった。

 着いたわよ、という声で僕は目を覚ました。どうやら眠ってしまったようだ。タクシーを降りたが足を痛めていたのを忘れて思いきり地面を踏んでしまった。雨は止んでいて知らない風景が僕のまえに広がっていた。

「ここはどこだろう」思わず言葉が漏れた。

「私の家の前よ」

「引っ越したんですか?」

「さあ、行きましょう」

 夜の闇のなかに煌々と明かりを灯す高層マンションがそびえ立っていた。最近できたばかりなのか、クリーム色の外壁には汚れひとつないようだった。自動ドアをくぐり中へ入った。左手に警備室があり警備室を通り過ぎるとまた自動ドアが見えた。自動ドアの右側にはセキュリティ付きのインターホンが置かれていた。芹沢さんはちょっと待ってて、と言ってロックを解除しドアを開けた。床に敷き詰められた茶と黒の格子模様のカーペットにも染みひとつなかった。

 エレベーターを待っているあいだ、何を話したらいいのか僕には見当もつかなかった。芹沢さんはじっと扉の向こう側を見つめていた。僕が時計に目をやろうとしたところで、エレベーターが音もなく下りてきた。十四階でエレベーターを降り、廊下を右に曲がって三つ目のドアの前で芹沢さんは足を止めた。黒く重そうなドアだった。芹沢さんはバッグからカードキーを取り出しドアを開けた。

「どうぞ」

 廊下の光を受けておぼろげに見えた玄関には、パンプス、ブーツ、スニーカー様々な種類の靴が並んでいた。芹沢さんはヒールを脱ぐと、僕がもたついて靴を脱ぐのを待ってから肩を貸してくれた。そして薄暗いリビングに置かれた椅子へ座らせてくれた。リビングの電気がつき、家具や電化製品が整然と置かれた光景が目に入った。僕はぼんやりとその光景を見ていた。

「足を見せて」

 僕は靴下を脱ぎ左足を見せた。

「腫れてるわね。まだ痛む?」

「少し」

「捻挫みたいね、冷やさないと。ちょっとこっち来て」

 手を取られ後をついて行くと、バスルームの前で立ち止まった。

「冷水のシャワーで十分くらい冷やして様子みて。ついでだから身体も洗っちゃいなよ」と芹沢さんは事も無げに言った。

 身体も洗う? 芹沢さんは誰に対してもこのように振る舞うのだろうか? まだ酔いが完全に醒めない頭で考えようとしたけれど、思考は水分を失った土のように形にならなかった。

「バスタオルは洗濯機の上に置いとくからね」と言って芹沢さんはリビングに戻っていった。

 僕はバスルームに残され、やりきれない気持ちを抱えたまま服を脱いだ。扉を開けてバスルームに入った。シャワーを出そうとするが、家のものと勝手が違いシャワーを出すまで手間がかかった。左足と床を叩くシャワーの音がバスルームに満ちていく。冷たい水が左足の熱を奪っていくのがわかる。目の前に掲げられた鏡の下には、シャンプーや石鹸を置くスペースがあり、僕は手に取り眺めてみた。どれも高そうで見たことも聞いたこともないメーカーだった。

 バスタブの前の壁についたデジタル時計を見た。十分をとっくに過ぎていた。温度を上げてシャワーを全身に浴びた。シャンプーで頭を洗い、ボディソープで身体を洗った。僕は自分の身体からタクシーで嗅いだ芹沢さんの匂いがしていることに気づいた。自分の身体から芹沢さんの匂いがするというのは妙な気分だった。

 洗濯機の上にピンク色のバスタオルが丁寧に畳まれていた。身体を拭くと、このバスタオルはふだん芹沢さんの身体を包んでいるのだろう、という考えが頭をよぎった。下半身に熱を感じる。僕は熱を隠すように服を着てリビングへ向かった。足の調子はだいぶ良くなってきていてしっかりと足の裏でフローリングを捉えることができた。

 リビングの椅子に座った芹沢さんはすでに化粧を落としていた。いつもは、ファッション誌の表紙を飾るモデルのように洗練された美人という印象だけれど、今僕の前にいる芹沢さんは、雪が溶けて顔を覗かせた白い花のように力強く、飾り気がない美しさを湛えていた。

「そんなところに立ってないで早く入ってきなよ」

 芹沢さんの声で我にかえった。

「足の具合はどう?」

「だいぶ良くなりました。ありがとうございます」

「そう、良かった」

「じゃあ私もシャワー浴びてこようかな。そのあいだテレビでも見ながら適当にくつろいでてよ。あと水分も取った方がいいわよ」芹沢さんはそう言うと、ペットボトルのミネラルウォーターを僕の前に置いてバスルームへ向かった。

 テレビはバラエティー番組を映していた。しばらくテレビを眺めていたが、僕は溜息をついてテーブルに視線を戻した。テーブルにはペットボトルが静かに立っていた。僕は光を反射するペットボトルを見て、自分がいま切実に水を欲しがっていることに気づいた。キャップを開けミネラルウォーターを飲み干したが、渇きはおさまらなかった。空になったペットボトルを手の中でまわしながら、テレビの方を見た。

 これからどうすればいいのだろう? 芹沢さんの家に二人きりで、芹沢さんは今シャワーを浴びている。たぶん同じような状況になったら百人中九十九人は寝ようとするだろう。そして、芹沢さんもそうなることを求めているかもしれない。メインディッシュは無防備にテーブルの上に置かれているように思える。しかし、まったく下心のない親切な気持ちからこの状況がもたらされた可能性もあった。足を怪我しなければ、今日こうやって芹沢さんの家に来ることはなかっただろう。それに僕は大学時代からの後輩で、男として見られていないのかもしれなかった。芹沢さんにその気がないのにベッドに誘いでもすれば信頼を裏切り、明日から後ろめたい気持ちを抱えながら仕事をする羽目になる。それだけはどうしても避けたかった。崖との距離が測れずにいる。どちらのカードで勝負をしても勝ち目がなさそうだった。僕は二枚のカードを手の中に握り締めながら出口のない迷路に立ちすくんでいた。

  

 シャンプーの香りがした。芹沢さんは、光を浴びて輝く朝露のように美しかった。そして触れれば消えてしまいそうなくらい儚いものに思えた。

「どうしたの? 今日のスズキ君なんか変だよ」

 芹沢さんはリビングを通り抜け、奥にある扉を開いた。うす暗い部屋の中、ベッドの輪郭が微かに見えた。ベッドルームに入ろうとしたとき僕は芹沢さんを後ろから抱きしめた。ベッドへ倒れこみ髪が僕の鼻に触れ、甘い香りが理性を溶かした。芹沢さんは僕の腕の中で振り向くと、口元に微笑みを浮かべた。そして僕の頭を引きよせて唇を塞いだ。何度も優しく芹沢さんは僕の唇にキスをした。

――不意にモンシロチョウが頭上を飛び冷たい影を僕の身体に落していった。何かが心に引っかかった。忘れてはいけない大事な何かが――。

 けれども、今は芹沢さんを抱いていたかった。僕は軽やかなダンスステップから取り残されないように唇を求めた。僕は強く身体を抱きしめた。もうひとりにはなりたくなかった。そんな僕を芹沢さんは何も言わずに、ただ優しく抱きしめてくれた。胸に当たる柔らかな乳房の感触と吐息で、僕の性器は更に硬くなった。静寂の中、僕たちは長いあいだ抱きしめ合っていた。この女性を手に入れたい。僕の手は芹沢さんの身体のあらゆる場所を求め彷徨った。指がなめらかな腿の間に辿り着くと、そこはすでに熱を帯びて温かく濡れていた。

芹沢さんは軽く僕の唇にキスを落とした。

 暗く、冷たい影を感じた。モンシロチョウがまた現れて僕の心に影を落として消えていった。あの蝶はどこから来てどこへ行くのか? 気がつくと僕の先ほどまで感じていた熱はどこかに消えてしまっていた。それから熱を取り戻そうとあらゆる手段を試みたが、もう戻ってくることはなかった。

「いいのよ、気にしないで。男の人にはよくあることみたいだから」

 お互いにシャワーを浴び、テーブルを挟んで水を飲んだ。芹沢さんはベッドで寝た方が体も休まるし、足にもいいのではないか、と言った。

「リビングのソファーで寝かせてもらえますか? そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」

 芹沢さんは少し考えてから、わかった、と言ってベッドルームからタオル・ケットを持ってきた。

「よかったらこれかけて。じゃあ、おやすみ」

 

 海底に沈む二枚貝のように固く閉じられたベッドルームの扉を見つめながら、僕はなぜ芹沢さんを抱きしめたのか、なぜ熱がなくなってしまったのか、自分に問いかけた。しかし答えどころか、手がかりすら掴めなかった。昨日まで、いやマンションの前に立つまで、芹沢さんの家に来ることは想像もしなかった。けれども僕はさっきまで芹沢さんと抱き合い、キスをしていた。僕が熱を失わなければ芹沢さんの中にも入っていたはずだ。もし階段から落ちなければ、もし熱を失わなければ。もし、という仮定の可能性で僕の頭はいっぱいになった。しかしすでにすべての仮定の可能性はなくなっていた。この世界にはリビングの椅子に座ってベッドルームの扉を眺めているという事実だけがあった。

 慰めの言葉が頭から離れなかった。男と女の関係を知らない僕に彼女の言葉は、違う世界の言語のように理解できなかった。肌を重ね合うほど近くにいたのに僕の心と、芹沢さんの心は遠く離れた場所にあった。気まぐれな彗星のように、芹沢さんの心は僕の心の衛星軌道上をかすめ、どこかへ飛んでいってしまったのか。そんなことを考えながら僕は携帯電話をもてあそんでいた。

 暗闇の静寂に包まれた空気を衝撃音が壊した。携帯電話が足元に転がっていた。時計は五時をまわっていた。電車が動き始め、新しい一日が始まっていた。しかし、僕の意識はまだ昨日の続きの世界にあった。ベッドルームの扉を見ると眠る前と変わらず閉ざされていた。僕には芹沢さんが起きてきたときにどう接すれば良いかわからなかった。僕はため息をつくと静かに玄関のドアを開け、右肩を下げながら駅へ向かった。

 

 

   6

 日差しはとても眩しく暑い一日になりそうだった。道路には昨日の名残りの水たまりが所々に見られた。土曜日の朝だというのに駅は混んでいた。いったいどこからこれだけの人が集まってくるのだろうと感心するほどだった。皆、今日という日の新しい空気を身に纏い、多くの希望と可能性を秘めているようにみえた。そんななか僕だけが、希望がなく、可能性を断たれているように感じられた。電車の中で黙って帰ったことは失礼にあたるのではないかと思い、お詫びのメールを送った。

 玄関には父の靴が置かれていたが、リビングに姿はなかった。キッチンでは母が朝食の支度をしていた。

「朝食は?」

「いらない。夕飯はお願いするよ」

 スーツをハンガーに掛け、クローゼットにしまった。身体は糸の切れた操り人形のように動かなくなった。僕は下着姿のまま布団に倒れこんだ。時計は七時をさしていた。まともな人間だったら朝食をとるか起き始める時間だ。うす暗く蒸し暑い部屋のなか、僕は意識を手放した。

 一九時と携帯電話のディスプレイに表示されていた。いったい社会人になってからいくつもの土曜日をこうやって無為に過ごして来たのだろう。もう長いこと土曜の陽の光を浴びながら外を歩いていない気がした。

リビングから肉の焼ける匂いがした。テーブルには父の姿があり、母と話をしていた。父は僕を一瞥するとまた会話に戻っていった。僕はこのふたりと食卓を囲むのか、と思い椅子に座った。父と母と食事をするといつも味覚が狂う。好きな焼き肉だったが、まるでゴムを食べているような食感だった。一口食べただけで、さっきまで感じていた空腹は消えてしまった。テーブルに並べられたサラダもスープも、色褪せて見えた。しかしなぜか父の手元にあるグラスを満たしたレモン色の液体だけが輝いてみえた。母から何か訊ねられたが、空返事をするだけで精一杯だった。聞こえる言葉とその意味が頭の中でうまく繋がらない。僕の頭は昨日の出来事でいっぱいだった。気持ちを整理しようと風呂に入ったが駄目だった。シャワーの音を聞くたび、シャンプーの匂いを嗅ぐたびに芹沢さんを思った。

 整理できない気持ちを抱えたまま、僕は布団のなかにいた。携帯電話を見たけれど、誰からの連絡もなかった。何も考えずに寝てしまいたかったが眠れない。

頭の中で芹沢さんとの出来事とたくさんの仮定の可能性がゆっくりと渦を作った。そして僕のなかの迷い、不安、後悔、といった感情が渦の中に巻き込まれていった。渦は速度を加速させ巨大な竜巻となった。

 気づくとその中心には僕と芹沢さんがいた。芹沢さんはいつものように微笑みを湛えていた。僕には芹沢さんを見ることができなかった。轟音の中、声が聞こえた。声のする方へ視線を向けた。芹沢さんの瞳が僕を捉えた。そのとき、今まで気づいていたけれど、気づかないふりをして押し殺してきた感情が浮かび上がってきた。僕はその感情を言葉にして伝えたいと思ったが感情は言葉に変わらず、声にならない声は轟音に消えていった。芹沢さんはやがて困ったように微笑みを浮かべ、僕に背を向け渦の壁に向かって歩き出した。一歩ずつゆっくりと壁に近づいていく芹沢さんを僕は何とか引き留めようとしたが、両足と影に釘を打ち込まれたように身体が動かなかった。そして芹沢さんは振り返ることなく壁の向こう側へ消えていった。渦の中心は急速に狭まって僕を飲み、身体を上空へ巻き上げた。太陽が輝いていた。まわりには青空が広がっていた。美しい景色が瞳に飛びこんできた。光のなか、僕は世界とひとつになった気がした。渦の中にいたときは外の世界がどんなものかなんてまったく考えもしなかったが、これほどまで美しい世界があったことに僕は驚いた。やがて上昇を続けていた身体は緩やかに速度を落としていき、引力に導かれて落ち始めた。僕はまだこの場所に留まっていたかったけれど、大きな力に抗うことはできなかった。地面が目前に迫って来たところで目が覚めた。鼓動が暗闇に大きく響いていた。夢、と僕は思った。しかし夢にしては音や砂埃の匂い、太陽の美しさに触れた感覚がしっかりと心と身体に染みついていた。そして僕の心は渦によって破壊しつくされていた。

 遠い場所から音が聞こえた。最初は微かな音だったが、次第に大きく響いて聞こえた。携帯電話の着信音だった。芹沢さんかと思い確認したが違った。僕は携帯を布団に叩きつけた。

 メールに起こされてからはトイレに起きただけで、ずっと眠っていた。何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。世界がどのように表情を変えようとも、滅んでしまおうとも僕の知ったことではなかった。僕はただ、ひとりの女性の心だけが知りたかった。 

 

 月曜日、僕は変わらず早めに出社して資料を整理していた。週末に身体が溶けてしまうほど寝たけれど、疲れはまったく取れなかった。頭も心も構成する要素が渦によって散り散りに飛ばされたままでうまく仕事に集中できない。このまま仕事をしていては何かミスをしてしまうのではないか、嫌な予感が頭をかすめた。

 メールのチェックを始めた。カーソルを動かす指が止まった。朝一番で必要だった提案書や見積りの作成を忘れていた。毎朝メールを確認し、金曜日の帰り際も確認は怠らなかったけれど、エアポケットに落ちたようにその依頼のメールだけ未開封のままモニタに表示されていた。僕は慌てて取引先にアポイントメントの変更の電話をしたが、失注してしまった。手堅い大きな案件として見込まれていたものだったので社内がざわついた。僕は上司に会議室に呼ばれ、二時間を超える叱責を浴びた。信頼というものは築くには時間がかかるが崩れ去るのは一瞬だと思った。最後に言われた、お前らしくもない、という言葉が頭にひっかかった。

 会議室を出て事務のデスクを通るとき、芹沢さんと目が合った。微笑はいつもと一緒なのだが、その中にあった何かがなくなったような気がした。新しく依頼された仕事に集中しようとしたけれど、意識がモニタの中に入っていかない。気分を変えるために自動販売機で缶コーヒーを買いに席を立った。取り出し口から缶コーヒーを取ると、後ろに天野さんが立っていた。

「お疲れ。大丈夫? というのは無粋な質問ね。ぜんぜん大丈夫そうじゃない顔してる」

「大丈夫です」と僕は声を振り絞って言った。

「嘘ばっかり。今日仕事終わったあと時間ある?」

「ありますよ」

「じゃあ飲みに行こう」

「月曜日からですか?」思わず大きい声がでてしまった。

「そう。なにか問題ある?」

「いえ、とくには」

「じゃあ決まりね。あとで詳細メールしとくから」

 天野さんが何も買わずにデスクに戻って行ったのを見て、僕のために時間を割いてくれたのだと気づくと嬉しくもあり、情けなくもあった。

 メールボックスを確認すると天野さんからメールが入っていた。

〈七時にこのまえのお店で〉とメールには書かれていた。そして最後に天野さんの携帯電話の番号とアドレスが載せられていた。

〈わかりました〉と書き、僕も携帯電話の番号とアドレスを載せて返信した。

 天野さんの番号を登録し、トイレに席を立った。戸を開けると手を洗っていた主任と鉢合わせた。

「お前のせいで今月の予算達成できないかもな」と主任は吐き捨てるように言った。

「申し訳ございません」

「別に俺に謝っても意味ねえよ。まだ役職に就くには早すぎたんじゃないの? そういや、さっきフジタもトラブッてたみたいだし」

 僕は言葉をなくした。

「なに? 気づかなかったの。しっかりしてくれよ」と呆れた顔をして主任はトイレを出ていった。

 主任の歪んだ感情が心にしこりとなって残り、手が動かなかった。何本もの糸が絡まり身動きがとれない。絡まった糸を解きほぐそうと動けば動くほど複雑に絡まっていく。定時にフジタが憔悴しきった様子で外から帰ってきた。フジタはカバンをデスクに置き、その足で上司の元へ向かった。何やら話し込んでいたが、そのうち二人は会議室へ入っていった。フジタに聞きたいことがあったけれど時計を見て諦めた。やがて僕はパソコンの電源を落とした。これ以上モニタに映る白紙のパワーポイントを眺めていても時間の浪費にしかならない。そして帰り仕度を始めた。上司や先輩の目が気にならないわけではなかったが、今の僕はかかしのように頭を働かすことができなかった。

 


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