二部
3
外の空気は湿気を帯びて生暖かかった。フジタと一緒に歩いていると、いつもまわりの視線はフジタに集中する。すれ違った後に振り返る人もいるし、友だち同士で騒ぐ女子高生もいた。こうした視線をフジタは楽しんでいるようだった。駅に近づくにつれて人通りも多くなり賑わいが増してくる。繁華街の入り口では、居酒屋やカラオケの店員が客引きに躍起になっていた。フジタは店員を少し見回したあと、そのなかのひとりに声をかけ値引きの交渉を始めた。フジタと店員のやり取りを見ていた僕は、しだいにしどろもどろになっていく店員に同情した。常に落ち着いて相手の先を行く会話、そして相手が嫌な気分にならないように時折挟むユーモア。現場で真剣勝負のビジネスをしているフジタに絡まれたら、まずそこら辺の居酒屋の店員に勝ち目はない。僕が近くのコンビニで煙草を買って戻ってくるあいだに交渉は成立していた。
店内はうす暗かったが、外の喧騒にも負けず劣らず賑わっていた。二人掛けのテーブルには天井から吊るされたライトが柔らかい光を落としている。僕たちはビールで乾杯をした。金曜日の仕事の終わりに飲むビールの味は格別だ。
「やっとあの案件も成約したな」
フジタは深く息を吐き、背もたれに身体をあずけた。口調や表情から安堵が漂ってはいるものの、身体からは疲れが滲み出ていた。
「本当にお疲れさま」と僕は言って、煙草とライターをフジタの手元に滑らせた。
フジタは煙草を一瞥してから、ありがたく受け取るよ、と言って微笑んだ。細く長い指でフィルムをはがし、一本取ってライターで火をつけた。そしてゆっくりと吸い、深く煙を吐き出した。
「やっぱりこれと煙草は切り離せないな」
「ワインとチーズのように」と僕は言った。
「アブサンと砂糖のように」
僕はビールを一口飲んでから「ウイスキーとナッツ」と言った。
フジタは穏やかな表情で唇の端を上げた。煙草を勧められたが、断った。するとフジタは相変わらず真面目だね、と言って二本目に火をつけた。次々と料理が運ばれて来た。料理に箸を伸ばしていくにつれて会話が弾み、ビールも進んだ。二人で飲むとき、フジタは会社では見せない表情を見せる。社内でも人当たりは良く人懐っこい笑顔を振りまいているが、同僚とは一定の距離を保って接しているようにみえた。しかし僕と二人でいるときはあまり気を遣っていないように思える。特に今日のフジタはいつにも増して寛いでみえた。
「今日は随分と寛いでいるじゃないか」
「酒を飲んでるんだから当たり前じゃないか」
「ちがいない」と僕は言った。
フジタはビールが少なくなったジョッキをゆっくりと左右に傾けた。
「まあ、お前とだからかもな」
いつもなら冗談で煙にまかれるところだが今日は違った。
「お前を見ていると、昔を思い出すんだよ。良いことも悪いことも含めて全部。そういうのって悪くない」フジタは煙草に火をつけた。
「男にそんなこと言われてもな」
「そうだな。でもだからこそ今日はお前と飲みたかったんだよ」
「女の子と飲んだ方が楽しいんじゃないのか? 大きい仕事も決まったことだし」
「女と飲む時は現実的な話を持ち込みたくないんだ。ただお互いに酒とロマンチックな空気に酔っていたいんだよ。仕事の話をすれば小言や愚痴が必ず出てくる。そういったもので空気を汚したくないんだ」
「紳士じゃないか」
「まあな。でもお前にはいつも小言やしょうがない冗談を聞いてもらって迷惑をかけているな」
フジタはそう言って煙草を灰皿に擦りつけた。
「気にしないでいい。別に迷惑じゃないよ」
「今日はお礼にいいニュースを持ってきた」
「いいニュース?」
「事務のユリちゃんとミキちゃんと来週飲むことになったから」
「それはいいね」
「なに他人事みたいに言ってるんだよ。お前も一緒だからな」とフジタは言った。
「芹沢さんと天野さんと?」手にした枝豆が見当違いの方向に飛んでいった。
ふたりは社内でも一、二を争う容姿の持ち主だ。芹沢さんは肌が透きとおるように白かった。髪はミディアムのストレートで黒真珠のように輝いていた。天野さんは栗色のボブカットで、大きく丸い猫のような瞳と、薄く口角の上がった唇が印象的だ。芹沢さんは社内では物静かで口数は少ないが、品のある笑顔が評判だった。天野さんは社内の元気の源だ。よく笑い、よく動き回っている。対照的な性格の二人だけれども、一緒にランチをしたりすることが多いところをみると仲が良いのだろう。
そんな彼女たちに対してアプローチをする男は多かった。しかしすべての試みは実を結ぶことはなかった。崖に咲いた花を掴み取ろうとした男たちはあえなく地に落ちていった。芹沢さんとは大学のサークルからの知り合いなので、相変わらずといった印象を受けたものだ。そんな惨状を見たり聞いたりしていると、僕は花には近づかず、遠くから眺めているのがふさわしいという気がした。
「急にどうして飲むことになったんだ?」
「なんとなく。たぶん誘ったらOK貰えると思ったからかな」
「そう感じるのはなにか確信的なものがあったのか?」
「そうだね」とフジタは言った。「最近のミキちゃんの俺に対しての表情やしぐさを見ていたらわかるんだよ。大丈夫だって。まあ、そのまま二人で飲みに行くこともできたけど、お前にはいつも世話になっているからな。ユリちゃんも誘って四人で飲もうって提案したのさ。いいかげんお前の生活にも少しは花が必要だろう」
僕はビールの泡を眺めながら、フジタの言葉について考えを巡らせた。
「もう時間も店も決めて二人にメールしたから。お前に参加しないという選択肢はないよ」とフジタは僕の考えを断ち切った。
「ちょっと待てよ」
「まさか断るなんてことはしないよな。せっかくお前のためにセッティングして向こうも乗り気なのに」
向こうが乗り気なのはフジタがいるからだろうと僕は思った。しかしフジタの善意ある申し出を断わる理由はどこにもなかった。
「わかった」
「最初からそう答えていればいいんだよ」
僕は灰皿に葬られた煙草を眺めた。
「お前は変にいろいろ考えをこねくりまわすから女ができないんだろうな」とフジタは言って何杯目かわからなくなったビールを呷った。
フジタは顔には出さなかったがだいぶ酔っているのだろう。普段よりも饒舌になり、深い話まで突っ込んできた。
「そういう優柔不断なところが女を不安にさせるんだ。いいか、女の求めているものは安定とか安心なんだよ。金とかステータスとか、そういった目にみえてわかりやすいものが好きなんだ。事実、金やステータスってやつは生きていくうえでいろんな障害から身を守ってくれるからな。そういったものの前では優しさとか誠実さなんていう不確かなものは霞んで消えてしまうのさ。そんなものがあったって食ってはいけないからな。口では優しさや誠実さが欲しいとか言っているけど、そういうのは金とかステータスが揃ってからのものなんだよ。お前が相手のことを考えて迷ったり悩んだりしているあいだに女はお前のことを頼りない男って判断しているんだよ。とても残念なんだけどさ」
フジタはまるで自分の身に起きたことのように苛立ちを顕わにして言った。それから煙草に火をつけた。しばらく吐き出した煙の行方を追っていた。煙が消え、フジタは口を開いた。
「俺はお前の優しいところや、誠実なところが好きなんだ。だからお前みたいなまともな人間が独りで沈んでいくのを見たくないのさ」
そう言い終えるとフジタはビールを飲み、空になったジョッキをテーブルに置いた。
「なぜそこまで気をつかってくれる?」
「俺はお前を気に入っている。そして昔を思い出す。そのことは言ったか?」
「言ったよ」
「駄目だな今日は。本当に酔っている。でも悪くない。俺にもお前みたいな頃があったんだよ」
「フジタに?」思わず声が上ずってしまった。
「どうした意外か?」
「それはまあ」
フジタは大きくひとつ溜息をついた。
「昔どうしようもなく好きな女がいたんだ。最初は彼女の姿が見えただけで嬉しかった。でも、次第に声が聞きたくなった。声を聞けるようになると、そのうち彼女に触れたいと思うようになっている自分に気づいた。人間の欲というものはキリがないものだな。俺は彼女がたまらなく欲しくなったんだ。それからは死にもの狂いだよ。彼女の好きな物を調べたり、喜びそうなことを考えて、必死のアプローチさ。それから何回かデートをして、告白してOKを貰ったんだ。その瞬間は生まれてから今まで感じたことのない喜びが体中を突き抜けたよ。幸せってこういうものじゃないかって思ったくらいにな」
言葉が途切れた。僕は会話の続きを待った。僕とフジタを中心にして、煩いほどに響く他の客の声と天井のスピーカーから流れる最近のポップソングが入り混じって音の渦をつくっていた。
「でも幸せは長くは続かなかった。ある出来事をきっかけに次第に彼女の気持ちが離れていくのがわかった。俺は気づかないふりをして彼女に何も訊ねなかった。何か言葉にしてしまったら彼女を永遠に失ってしまう気がしたんだ」。煙草をはさんだ指が微かに震えている。フジタは表情が苦痛に歪みそうなのを必死におさえつけているようだった。「もう彼女の心は俺の中にはなく、俺が愛していたのは彼女の幻影に過ぎなかった。そう思うと、どうしようもなく虚しくなった。そして彼女に真実を聞こうと電話をかけた。しかし繋がらなかった」
「繋がらなかった?」
「そう。音信不通。番号もアドレスも変えて彼女はどこかへ消えてしまった。そのとき、俺の中で何かが失われてしまった。本当に誰も愛せなくなった。女と恋人として付き合うよりも、ただセックスだけの関係が気軽で楽しく思えるようになってしまったんだ。今思うと些細なことなのにな」
フジタはそう言って、煙草を灰皿に押しつけた。
「悪い。少し話し過ぎたな」
「いや、いいよ」
僕は残りが少なくなったビールを飲み干した。
「ひとつ質問させてくれないか」
「構わない」
「今は何か信じているものがあるのか?」
「愛。馬鹿みたいだろ。それでも俺は信じている」
「馬鹿じゃない。ロマンチックだ」
「そう、俺はロマンチストだからな」と言ってフジタは微笑んだ。
フジタは伝票を手に取り、ヒップポケットから財布を取り出した。それからピンク色の派手な紙を僕の前に滑らせた。
「たまには息抜きも必要だぜ」
それはソープの優待券だった。
「考えておくよ」と僕は言って優待券を財布にしまった。
空は星も見えず暗闇が広がっていた。時折吹く風が肌を滑り心地よかった。そんな空気をよそに人々は、夜はこれからと言わんばかりに高揚していた。
「俺はこれから女の子を引っ掛けに行くけどお前もどうだ?」
「遠慮しておくよ」
「そうか。来週の金曜日忘れるなよ」と言ってフジタは夜の街の深部へと消えていった。
駅のトイレは順番待ちの人で溢れていた。アンモニアとアルコールと便器からはみ出た吐瀉物の臭いが混ざり、悪臭が満ちていた。僕も悪臭の一部になっていると思うと自分がひどく惨めな存在に感じられた。用を足し、手を洗った。鏡には汚れた顔の知らない男が映っていた。アルコールに酔った頭で認識するのに時間がかかったが、その男はまぎれもなく自分自身だった。僕は無理に笑顔を作ってみた。鏡の中の男も笑った。背後から怒鳴り声が上がった。後ろには何人ものひとが並んでいた。僕は足早にトイレを後にした。
ホームは朝の通勤時間を思わせる混雑だった。しかし電車に乗ると朝とは違って、アルコールに上気した酔っ払い、仲睦まじく体を寄せ合う恋人たち、週の終りに安心して夢の中へと船を漕いでいく旅人たちであふれ、穏やかな雰囲気だった。
電車を降り、拙い足取りで家路を辿った。鞄からiPodを取り出しランダムに音楽をかけた。トム・ヨークは(すべて正しい場所へ)と爆発しそうな怒りの感情を押し殺して歌っていた。僕にとっての正しい場所とはどこなのだろう? はたしてそんな場所はあるのか? あったとしても僕はそこまで辿り着くことができるのだろうか? 疑問が頭の中を駆けめぐった。夜が思考を支配する。僕はとにかく正しい場所の一つである家を目指すことだけに集中した。
家に着くとそのまま布団の海に飛び込んで行きたかったが、靴を磨き、スーツをハンガーに掛けた。商売道具は大切にしなくてはならない。僕は今までどんなに酔っていてもこの作業だけはやり遂げてきた。シャワーで念入りに疲れと汚れを落とした。歯を磨き、ようやく布団に潜った。何も考えずに眠りに落ちていきたかったけれど、頭はアルコールで覚醒していた。身体は勝手に脳との連絡経路のプラグを引き抜いて寝てしまったようだった。こんな夜はろくでもない考えが頭に浮かんでくる。考えるのを止めようとするのだけれど、止められない。パソコンの電源をいつまでたっても落とせないように。
フジタはあのとき、些細なことだと言っていたが、決してそうではなかったはずだ。その言葉に僕はフジタの強さとプライドの高さを感じた。一方フジタの前から消えた彼女にとってはどうだったのだろうか? 泣く泣くそういった選択しかできない状態だったのか? それとも服を替えるように気軽に済んでしまうことだったのだろうか? フジタが何かを失い別の人間に変わっていくあいだ彼女は他の男の前で笑い、抱かれ、快楽に溺れていたのかもしれない。
人生とは彩られた影の上にあり、誰かの不幸の上に誰かの幸せの花が咲く。宇宙は想像もつかない速度で膨張を続け、地球上では毎秒把握できない数の生命が死んで生まれていく。フジタが経験したものはこの世界のあらゆる側面の一部にしかすぎない。そんなことは僕にだってわかる。わかるけれど、納得はできなかった。フジタは僕を優しく、誠実だと言った。けれども僕はフジタの方が優しく誠実な人間であるように思えた。そうやって生きていこうとすればするほど、人に軽く見られ、欺かれ、踏みにじられていく。今の世の中でこういった信念を持って生きていくことは、海岸に立ちすくみ、迫りくる津波を呆然と眺めているようなものなのかもしれない。
僕は信じたかった。優しさや誠実さを、そしてヒカリの手を。ヒカリは今どんな女性になっているのだろうか。ヒカリを想うと閉じた瞼から涙があふれそうになった。固く冷たくなった心が優しく温められ、柔らかくなっていく。やがて意識は深い海のなかに沈む。徐々に水圧が変わり、僕は海とひとつになっていった。
頭の中でシンバルを思い切り鳴らされたような頭痛に襲われた。身体は激しい運動をした後のようにうまく力が入らない。僕はまだ完全に開ききらない目で携帯電話を見た。九時だった。平日ならこんな時間まで眠れない。僕は口元を緩めた。睡魔はまだ意識の中枢に居座っていた。今日の予定は何もない。二度寝しない理由がみつからなかった。僕は再び海の底へと沈んでいった。
次に時間を確認したのは夕方だった。また土曜日を無為に過ごしてしまった。酒を飲み過ぎた翌日は大抵こんな具合だ。布団から起き上がりカーテンを開けた。小さな子が絵の具一色で描いたような青空が目に飛び込んできた。僕が海底に沈んでいるあいだにも時間は流れ、地球は回っていた。窓を開けると太陽の匂いが風に運ばれてきた。目の前の通りを若い恋人たちが手を繋ぎゆっくり駅の方へ歩いていった。僕は窓を閉めカーテンを閉じた。
リビングに両親の姿はなかった。二リットルのミネラルウォーターを半分ほど身体に流し込み、ようやく頭も身体もまともな状態になった。テーブルの上に置かれた白いメモ用紙が目に入った。メモには母の少し丸みを帯びた字で〈お父さんと出かけてきます。一九時には帰ります〉と書かれていた。短く息が漏れた。
十九時頃メルセデスのエンジン音が響き、階下で物音がし始めた。僕は布団に横になりゲーテの『ファウスト』の上巻を読んでいたけれど、物音と父の気配に集中力を奪われ読むのを諦めた。『ファウスト』を枕元に置き、イヤフォンを耳に突っ込んだ。自分で編集したレディオヘッドのプレイリストを聞こえるか聞こえないかの音量で再生した。『エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス』が流れ始めたところで意識が遠のいていった。
昨日とはうって変わって目覚めの良い朝だった。飲まなければこうして気持ちの良い朝を迎えられるのはわかっているのだけれど、僕にとって金曜日の夜と酒はまるで双子のカストルとポルックスのように切り離せないものだ。リビングに下りると母が椅子に座っていた。母はテーブルに肘をつき、両方の手のひらで顔を支えていた。どうしたの? と僕が訊ねると、「またゴルフだって。だから昨日あんなに優しかったのね」と唇を尖らせた。
そういえばヒカリもこんな風に拗ねていたなと僕は思った。
「今日は天気が好いからゴルフをするにはうってつけの日ね」
「そうでもないよ」
「どうして? こんなに晴れていて風もなければプレーしやすそうじゃないの」
「逆だよ。雨や風の強い日こそが絶好のゴルフ日和なんだ。雨や風が強ければ強いほどイギリス人は意気揚々とコースに繰り出すんだ」
「よくそんなこと知っているわね」と母は感心したように言った。「さすがお父さんの子ね」
「母さんの子だよ」
「あなたもお父さんと一緒で天気の悪い日にコースに出るタイプの人間よ」と母は確信に満ちた目をして言った。
「わからないな。僕は親父やイギリス人ほど人生の喜びについて知らないからさ」
「いつまでも待っているから」
母の表情から少女のような面影はなくなっていた。
「天気がいいから布団でも干したら? 最近干してないでしょ」
布団が部屋からなくなると、そこに長方形の空間が生まれた。僕は布団を干したついでに部屋を掃除することにした。部屋の状態はあなたの心の状態です。最近読んだ本の言葉を思い出した。まわりには本やCDが無秩序に散らかっていた。秩序を与える必要があった。
「光あれ」と呟いたが何も起こらなかった。僕は仕方なく本やCDをひとつひとつ手に取った。本は本棚へ、CDはCDラックへ、ゴミはゴミ箱へ。しかし、神様のように手際良くはいかなかった。
正午をまわった頃に掃除は終わった。フローリングは輝きを取り戻し、散乱していた物はあるべき正しい場所へと戻っていった。開け放した窓から入ってくる風は爽やかだった。こんなに穏やかな気持ちになれるのは久しぶりのような気がした。しかしそんな気持ちも、父が帰って来る頃には薄らいでいき、会話が下から聞こえてくると霧のように消えてしまった。
サザエさんのエンディングテーマが流れる時間に僕は心を仕事用に切り替える。机に向かい持って帰った提案書の作成を続けた。家で仕事をするという行為はあまり褒められたものではないけれど、社内の慌しい雰囲気のなか、重圧を常に感じながら作業をするよりも自分の部屋で落ち着きながら進めた方がはかどる気がした。少なくとも金額を一桁間違うという失敗はしないはずだ。提案書を仕上げ、見落としがないことを確かめ、僕はパソコンの電源をおとした。
部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。暗闇のなか目を開き、天窓の辺りを見つめた。金曜日――、と僕は思った。僕は芹沢さんたちの前でうまく振る舞うことができるだろうか? 彼女たちを失望させなければいいのだけれど、不安が胸をかすめた。まだ月曜日も始まってもいないのに金曜日の飲み会の心配をする自分に嫌気がした。まずは明日から、明日について思いを巡らせようとしたが何も思い浮かばない。僕はあきらめて瞼を閉じた。
4
六月三週の朝は電話のラッシュで幕を開けた。受け取った電話をバケツリレーのように担当の営業に繋いでいく。一段落して自分の仕事に取り掛かろうとしたとき、ふたたびコール音が響いた。芹沢さん宛ての電話だった。しかし芹沢さんは席を外していた。その旨と折り返させることを相手に伝え受話器を置いた。僕はメモ用紙に用件を書き留めて、芹沢さんのパソコンのキーボードの隙間に挟んだ。席に戻ろうとしたとき、向かいにいた天野さんが「頑張ってるかい」と明るい声で言った。
「はい」
「表情が硬いぞ」と言って天野さんは笑った。口角が自然と横に伸び、瞳は一点の曇りもなく輝いていた。力強く、優しさにあふれた笑顔だ。
月末にもなると会社の雰囲気もより殺気立ったものとなる。皆ノルマに追われ余裕がなくなってくる。口数が極端に減る人もいれば、心は強く張りすぎたギターの弦のように千切れて飛んでいきそうな人もいた。そんな状況のなか僕は自分のするべき仕事に集中できていた。キーボードを叩く指は澱みなく流れ、意識は常にモニタの中にあった。頭の上で何か音がした。芹沢さんが驚いた様子で立っていた。
「ずっと声をかけてたんだけど」
状況がうまく飲み込めなかった。
「聞こえてる?」
「ええ」と僕は返事をしたが、口ごもってしまった。
そんな僕の様子を見て芹沢さんは、仕方ないわね、と微笑んだ。
「昔から集中すると周りがみえなくなるんだから」
「すみません」
「メモありがとう。それだけ言いに来たの」
「あっ、いえ」
傷がついたCDのように言葉が出てこなかった。こんな時フジタだったら気のきいた言葉のひとつやふたつ言うことができるのだろうか?
「じゃ金曜日楽しみにしてるね」と芹沢さんは言って、デスクに戻って行った。
昼食を買いに外へ出た。昨日までの天気が嘘のように雨が降っていた。雲は厚くたちこめ、灰色のヴェールを幾重にも重ねているみたいだった。雨は音もなく静かに世界を湿らせていた。芹沢さんと話をしてから、そんな世界とは対照的に僕の心は青空に浮かぶ雲のように漂っていた。こんな気持ちでは仕事に支障をきたすと心配したが、不思議と問題もなく仕事は捗った。昨日のうちに一件提案書を終わらせたことも大きかった。定時を少しまわったころに今日やるべき仕事は終わった。
エレベーターでロビー階に降りると、ガラス張りの壁に面した長テーブルのスツールに腰掛け、コーヒーを飲んでいる芹沢さんを見かけた。軽く会釈をして通り過ぎようとしたとき、芹沢さんの手が僕を呼び止めた。
「ちょっと待って。一緒に帰らない?」
また声が出てこなかった。CDだったらもう買い手が見つからない状態だろう。
「いいですよ」やっと出てきた言葉はありきたりなものだった。
「ありがとう。ちょっと待ってて。これ片づけて来るから」と芹沢さんは跳ねるような声で言って、自動販売機の横にあるゴミ箱へ小走りで向かった。
「お待たせ。帰ろっか」
雨はまだ地面に静かに降り注いでいた。
「この時期はほんと嫌ね」
「そうですね」
コンビニで買った僕の無表情なビニール傘とは違って、芹沢さんの傘は白と黒のモノトーンに、ワンポイントで丸い花の絵柄が入っていてかわいらしかった。
「スズキ君が早く帰るなんて珍しいわね。明日は雨が雪になっちゃうんじゃないの?」
芹沢さんは傘越しに僕の顔を覗きこんだ。
「さっき同じことを課長に言われましたよ」と僕は言って笑った。
「そっかあ、それは残念。それで今日はなんで帰りが早いの?」
「たまたまですよ」
「たまたまね」
「芹沢先輩は今日は天野先輩と一緒に帰らないんですか?」
「先輩はやめて。呼ぶのだったら、さんづけで呼んで。大学の時も言ったはずだけど」
「わかりました。……芹沢さん」
「よくできました」
「ミキも先輩なんて呼ばれたら嫌がると思うよ。なんか少し歳を感じちゃうからね」
「気をつけます」
「今日は英会話の日なの。駅前のスクールへ通ってるんだ。時間までミキにつき合ってもらうのも悪いから先に帰ってもらったの。まあ、たまにはお茶することもあるけどね。ミキがいなくて残念だった?」芹沢さんは悪戯な笑みを口元に浮かべた。
「そういう訳ではないですよ」と僕は言った。「ただ、いつも一緒にいらっしゃるイメージがあるから帰りも一緒なのかなと思っただけです」
「そう」と言って芹沢さんは微笑んだ。その微笑みにはあらゆる可能性が満ちている気がした。まったくこの人は何種類の微笑みかたを知っているのだろう。視線を前に移すと道行く人々は傘を握りしめ、皆一様に下を向いて歩いていた。駅前には色とりどりの傘の花が無数に咲き乱れていた。
「じゃあ私ここだから」芹沢さんはビルに掲げられた英会話スクールの看板を指さして言った。
「頑張ってください」
「ありがとう。また明日ね」
左手を上げ、芹沢さんはビルの中へ入って行った。
翌日に雨は止んだが空は相変わらず暗く重たい雲に覆われていた。昨日は早く帰って眠れたので目覚めは良かった。いつもより時間をかけて出勤の準備をしたけれど、会社に着く時間は早く、デスクに着いている営業もまばらだった。エアコンの音が大きく聞こえるなかフジタはキーボードを叩いていた。僕は椅子に座り、パソコンを立ち上げた。資料、提案書の依頼のメールがいくつか入っていた。期限はどれも金曜日の夜か遅くとも月曜日の始業に間に合えばよいものだった。依頼は先輩社員からのものが多かったがその中に一通フジタからのメールがあった。内容を確認すると、時間がかかりそうな提案書から僕の仕事ではないものまでいくつもリストアップされていた。フジタのデスクに目をやった。フジタは悪戯がばれた子供みたいに笑っていた。僕は抗議のメールを送った。すぐに〈合コン設定料〉というメールが返ってきた。
僕は頭を横に振り〈了解〉と打った。
提案書の作成がキリの良いところにきたので僕はコーヒーを買いに席を立った。もうほとんどのデスクは埋まっていてそれぞれ仕事を始めていた。その中に芹沢さんと天野さんもいた。デスクに戻り作業に取り掛かろうとするとメールが入っていた。またフジタからだろうと無造作にマウスを動かして確認した。モニタに芹沢さんの名前が表示された。手が止まる。メールが芹沢さんから送られてきたのは初めてだった。今日の仕事終わりに時間が取れるかという内容だった。僕は金曜日から逆算して、終わらせるべき仕事と配分時間を計算した。問題がなければ八時には終わらせることができそうだった。メールを返すと朝礼が始まった。部長の話だとこのまま順調に詰めている案件が決まっていけば予算は達成できるということだった。朝礼が終わり、芹沢さんからの返信があった。
〈八時半に駅中のドトールで〉
昼食をとりながらネットで調べ物をしていると、コール音がフロアに鳴り響いた。新規の取引先からの電話だった。大きな商談が入ってきた。以前から先輩の主任と詰めていた案件だ。数えきれないほどの訪問をして提案書と見積りを出し、総務の担当者は僕たちの提案が会社に有益になることを理解してくれていたが、社長の反応は薄く諦めかけていたものだった。
主任と同行した夕方からの商談は細く、長く、険しい道のりだった。一八時過ぎにようやく成約の印鑑を頂いた。
帰りの車中は興奮で満ちていた。主任は長い間の懸案事項からの解放と、自分の予算を達成できたことで上機嫌だった。
「こんな感じで芹沢も落とせたらいいんだけどな。お前芹沢と大学一緒だよな」
「はい」
「あいつやっぱ大学の時もモテたの?」
「そうですね」
芹沢さんは大学の時から人気があった。サークルの先輩、同級生、後輩まで数多くの男がアプローチをしていたのをよく覚えている。しかし特定の恋人がいたかどうかまでは僕にはわからなかった。地元に昔からの恋人がいるとか、年上の社会人の彼氏がいるとかいろいろな噂があったが本当のところはわからずじまいだった。
「デートくらいは大丈夫だと思ったんだけどな」と主任は呟いた。
信号が赤になり緩やかに車は止まった。
「なにが駄目だったんだ」
誰に訊ねるでもない問いかけの余韻が車内に漂った。
車内のデジタル時計は一九時をまわっていた。これは間に合いそうにもないな。僕は身体をシートに沈めた。
会社に戻り事務のデスクを見ると、事務は皆退社していた。商談の結果報告、現在継続中の案件についての打ち合わせ、残務処理を終えた頃にはもうとっくに待ち合わせの時間を過ぎていた。僕は急いで帰り支度を済ませ会社を出た。
道行く人をかき分け、追い越し、過ぎ去った時間を取り戻すために全力で走った。最初の百メートルで息が切れ、身体中の筋肉が悲鳴をあげた。学生時代だったらなんてことない運動なのに。いたずらに歳はとりたくないものだ。それから言うことの聞かない身体を引きずり回して、なんとかドトールにたどり着いた。足を止めた途端、汗が吹き出した。自分の呼吸と血液の流れる音が大きく耳に響く。腕時計を見る。待ち合わせ時間を一時間過ぎていた。僕は呼吸を整え、歩き出した。店内は目に映るどの席も人で埋まっていて、カウンターには注文待ちの人々が列を作っていた。そんななか芹沢さんを探したが見つからない。帰ってしまったのだろうか? 不安が頭をかすめるが、入口からは見えにくい右奥にもテーブルがあることに気づいた。
「すみません。こんなに遅れてしまって」
芹沢さんはぼんやりと焦点の合わない目で僕を見ていたが、やがて口元に微笑を静かに浮かべ、瞳を輝かせた。
「ずいぶんと待たせてくれるじゃない」
「本当に申し訳ないです」
芹沢さんは読んでいた本をテーブルに置き、向かいの椅子の上にあったバッグを取り、自分の座っている椅子の背もたれと腰のあいだに置いた。
「なにか頼んで来たら?」
僕はアイスコーヒーを買ってテーブルに戻った。芹沢さんは両手でコーヒーカップを持ちながら考えごとをしているようだった。頬にかかる髪の向こうに柔らかな表情を感じた。
「どうしたの? 早く座りなよ」
芹沢さんは椅子に座った僕の顔をまじまじと見た。それから、「凄い汗だね。それともまた雨が降ってきたのかな?」と面白そうに言った。「まあ冗談はさて置いて早く水分を取った方が良さそうね」
僕は勢いよくアイスコーヒーを飲み干した。空になったグラスをテーブルに置き、ようやく落ち着きを取り戻した。
「話ってなんですか?」
「フジタ君は今彼女いるの?」
それはなんとなく予想できた質問だった。
「いませんよ」
芹沢さんはゆっくりとカップをテーブルに置いた。
「金曜日の飲み会のことなんだけど、飲み終わった後にミキとフジタ君を二人にすることってできるかな?」
「大丈夫だと思います。なにも問題はないでしょう」
「よかった。じゃあミキに伝えておくね」
やはりフジタの勘は間違っていなかった。まったくたいしたものだ。ただ、ひとつ気になることがあった。フジタと天野さんは同じものを求めているのだろうか。この前飲んだときにフジタは、もう誰も愛せないと言っていた。実際、恋人も作らずナンパをし、数え切れないほどの女性と寝て風俗にも通っていた。今のフジタは女性を性欲のはけ口として見ているところがある。天野さんも性的な興味本位で誘ったのだろうか。それとも天野さんに欲していた愛を見つけたのだろうか。僕にはわからなかった。
一方天野さんは何を求めているのだろう。この飲み会を機会にお互いを知り、情を深め、恋人として付き合っていくことを望んでいるのだろうか。僕は芹沢さんがこうやって話をする機会を設けたことからその可能性が高いと思った。しかし、性的欲求の捌け口としての可能性も考えられないわけではなかった。男が考えることは女も考える。表があれば裏がある。自然の摂理だ。けれども僕には女性の性欲についてうまく想像することができなかった。マスターベーションはするのか? どんなときにセックスをしたくなるのか? あるということはわかるがしっかりと眼で確かめることはできない。僕が女性の性欲について知っていることは宇宙の果てについて知っていることとかわりはなかった。
「どうしたの?」
「なんでもないです」僕はストローが入っていた袋に手を伸ばした。
それから僕たちは音楽の話や小説の話をした。相変わらず芹沢さんのお気に入りはトム・ヨークで小説のベストは『ファウスト』だった。どちらも大学時代に勧められたものだった。
「こういう話題になると話が止まりませんね」と僕は言って笑った。
「だって、うちの会社じゃこういう話できないんだもん。きっとみんな音楽や本なんて仕事以外のどうでもいいことだと思ってるのよね」
そう言った芹沢さんは可愛らしくもあり、美しくもあった。時間さえ芹沢さんに見とれて止まってしまいそうだと僕は思った。
「スズキ君の携帯番号教えてくれないかな? またこういうことがあったときお互いの連絡先知っていた方が便利でしょ? 私もいつまでも待てるほど強い女じゃないからさ」
僕はポケットから携帯を取り出し、お互いに携帯を向かい合わせ連絡先を交換した。
駅の構内は多くの人で賑っていた。行く先がありまっすぐ目的地へ向かう人もいれば、行くあてもなく彷徨う人もいた。喧騒のなか人々はどこかへと消えて行き、どこからかやって来た。いつもと同じように感じるが、今見ているのはいつもと違う人で聞こえているのはいつもと違う音だ。そのことを隣にいる芹沢さんのブーツがタイルを叩く音が教えてくれた。
改札を通り、電光掲示板で電車の時刻を調べた。発車まで十分ほど余裕があった。
「今日は本当にすみませんでした」
「気にしないで。私から誘ったんだから。じゃあ私はあっちのホームだから」
「では、また」
ホームへ向かおうとしたけれど、足を動かすことができなかった。芹沢さんの瞳が僕を捉えた。僕には最後なにか言おうと言葉を探しているようにみえた。芹沢さんはやがて諦めたように笑うと「また明日ね」と言って階段へ向かって行った。僕は中途半端に挙げた手をポケットにしまった。
ホームで電車を待っているあいだ、僕は芹沢さんが最後何を言おうとしていたのかを考えようとしたが、場内のアナウンスに邪魔をされた。電車に乗り、再び考えようとしたが何も想像できなかった。僕は芹沢さんの言葉について考えるのを止めて、フジタと天野さんについて考えた。ふたりが幸せな瞬間を迎えるために僕ができることは何かあるのだろうか? 小刻みに揺れる電車の中で辿り着いた答えは、何もないということだった。非情に過ぎると思ったが、僕たちはもう大人なのだ。自分のことは自分で責任を取るしかない。それでも、僕に何かできることと言えば二人の幸せを願い、成り行きを見守ることだろう。為すがまま自然の流れに身を任せよう。たとえどんな結末が訪れたとしても。