一部
1
アルコールの深い眠りのなか、誰かの優しい温もりを感じた。僕はいつもより近く、親密にその優しさと温もりを感じる。その誰かが今も隣にいて、僕の心を温めてくれていると思えるほどに。やがて僕は涙と共に目を覚ました。
あの感覚を知ったのはいつだっただろうか? ――そうだ、小学校五年生の時だ。なぜ今こんなことを思い出すのだろう。僕はゆっくりと起き上がり朝の窓を開け放した。そして、ぼんやりとアルコールに浸された頭を抱えて、五月の澄みきった青空を眺めた。風に運ばれてきた若葉の香りが鼻腔をくすぐった。そうか、そういえばあのときも五月だった。目を閉じると懐かしい思い出が静かによみがえってきた。
当時、僕にはヒカリという好きな女の子がいた。今ふり返ると、ヒカリと過ごしたあの日々はどれもかけがえのないものだった。
通学路での会話、お互いの家で遊んだこと、夜遅くまで四葉のクローバーを探したこと、流れ星のよく見える場所を探して迷子になったこと。とくに四葉のクローバーと、流れ星の思い出は昨日起こったことのように思い出せた。どちらもヒカリにむりやり連れられて探し始めたのだけど、なかなか見つけることができなかった。結局二回とも、夜になっても帰って来ないのを心配した親たちが警察に連絡して、僕とヒカリは警察に保護された。母からは叱られ、隣にいるヒカリは涙を瞼に浮かべたまま何も言わなくて、僕も泣きだしたい気持ちでいっぱいになった。ちょっと突飛で頑固なところもあるけれど、それすらかわいいと思える女の子。僕はそんなヒカリに恋をしていた。
しかし初恋は実らないとはよく言ったもので僕の初恋も実らなかった。
五月の穏やかな陽気が眠気を誘う午後。授業を受けていると突然となりの席にいたヒカリが僕の顔を自分の方へ向けて、唇を塞いできた。一瞬、何が起こったのかわからなかったが、頬を赤らめるヒカリを見てしだいに嬉しさが込み上げてきた。しかし、喜びの余韻に浸る時間は長くはなかった。キスを見ていた後ろの友だちが、堰を切ったように騒ぎ出し、騒ぎは瞬く間に教室中に広まった。僕は気づくとヒカリを両手で突き飛ばしていた。机と椅子が転がる重い衝撃音とヒカリが床に落ちる鈍い音が響いた。そして宙に浮いたときの、無表情に揺れるヒカリの瞳が僕の網膜に焼きついた。僕は静まり返った教室に倒れたヒカリを見るのが怖くて、教室から逃げ出した。
あの日、僕はなかなか家に帰れずにいた。しかし、いつまでも帰らないわけにはいかなかった。しばらく近所の公園で時間をつぶしてから家に帰ると、母は学校で起こったことをすべて知っていた。先生から電話があった、と母は言った。それからヒカリが左手首を捻挫したことを付け加えた。母はひと通り僕を叱った後で、「お母さんを不安にさせないで」と言った。
母の眼差しは僕の瞳を射抜くほど強く、手は熱を帯び、僕の両肩を固くつかんでいた。今まで知らなかった表情の母が僕の前にいた。母は、僕が怯えているのに気づくと、「ごめんなさいね」と言って笑ってごまかした。
「そろそろ謝りにいきましょうか」
僕の手を取った母の手はいつもと変わらない優しさに戻っていた。母の優しさに触れて、僕は鼻の奥に涙の匂いを感じた。
空はまだ青く、ところどころはけで刷いたように雲が漂っていた。葉桜は陽の光を浴びて青々と輝き、モンシロチョウは花から花へ飛び交っていた。そんな世界とは対照的にヒカリの家へ向かう僕の足はぬかるみの中を歩くみたいに重く、一歩踏み出すたびに泥がまとわりつき、重くなっていった。僕は泥に足を固められたように、ヒカリの家の前に立っていた。ドアの前でずっと動き出せずにいるのを見かねた母は、だいじょうぶ、と言って優しく僕を促した。なんとか歩み寄ろうとするが、ベルを目の前にしてまた僕の身体は止まってしまった。深呼吸をして、震える指先で僕はベルを押した。
沈黙が訪れた。沈黙のなか、後悔が頭をよぎった。ヒカリに何を言えば良いのか、まったくわからなかった。ドアが開いた。玄関にはヒカリとヒカリの母親が立っていた。玄関はうす暗く、ヒカリの左手に巻かれた包帯が一層白く浮き立って見えた。
「ごめんなさい」
考えるよりも早く気づいたときには言葉がこぼれ落ちていた。
ヒカリは笑おうとしているのか、泣こうとしているのかよくわからない表情をしていたが、やがて雲間から陽が差し込むように笑顔になった。
「私の方こそごめんなさい」
ヒカリはそっと右手を差し出した。ヒカリの手は小動物のように怯え、震えていた。僕はその右手を両手で優しく包み込むように握った。ヒカリは僕に応えて弱々しく握り返した。左手も静かに僕の右手に添えてくれた。ヒカリの手は、僕の手よりも小さく指も細いのだけれど、とても温かくて優しかった。そして、どんなものよりも大きく感じられた。大きな優しさの中で、下半身にまとわりついていた泥はいつの間にか消え去っていた。
「これからもよろしくね」とヒカリは恥ずかしそうに言った。
「こっちこそ」僕は口ごもりながら応えた。
頭上では母親たちが笑っていた。僕の顔は熱くなった。僕はこれからまたヒカリとずっと遊んでいけると思った。しかし、僕とヒカリの関係はこのあとすぐに終わりを迎えた。父の仕事の都合で急に引っ越すことになったからだ。引っ越しの準備に追われながら、ヒカリにそのことをどう切り出そうか考えていたのだけれど、結局何も言えないままに僕は知らない土地へ引っ越した。その後も僕は転校を繰り返した。あいだにヒカリへ何度も電話をかけようとしたが、どうしても最後の数字が押せなかった。手紙も書こうとしたのだけれど、どうしても最初の一文が書き出せなかった。ヒカリのことを想うと、嬉しそうな顔と僕が突き放したときの無表情に揺れる瞳が頭の中でよみがえり僕を苦しめた。僕は苦しみから逃れるためにいつしかヒカリに連絡をすることを諦めてしまった。
あれから十年以上ヒカリと会っていない。折に触れてヒカリにたまらなく会いたくなるときがある。仕事がうまくいかないときや人間関係のトラブルが起こったとき、失恋をしたときに。そういうとき僕は目を瞑り、今でも覚えている優しさと温かさの思い出のなかにヒカリはいる。それだけで十分だ、と自分に言い聞かせてその時間をやり過ごしてきた。
窓を閉め、正確に何年ヒカリと会っていないのか数えてみた。十六年というのがその数字だった。過ぎてしまえば短く感じるが、これから歩む十六年を考えると気が遠くなった。とにかく今日僕は二十七歳になり、ヒカリとは十六年会っていない。それが客観的な事実だった。
二十七歳といえば多くのロック・スターが死んだ歳だ。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョップリン、ジム・モリソン、カート・コベイン。彼らは激しく生命の火花を散らし、輝きながらこの世界から消えていった。二十七歳にもなって何も取り柄がない僕とくらべると、彼らは人間ではなくロック・スターという名前のまったく別の生き物に思えた。僕はしばらく窓の向こうの空を眺めてから部屋を出た。
洗面所で顔を洗った。鏡には冴えない顔の僕が映っていた。久しぶりに眺めてみたが特徴のない顔だった。二重なわけでもないし、鼻筋が通っているわけでもない。そして癖の強い髪の毛は一本一本自己を主張して好き勝手にはねていた。僕は溜息をつき、洗面台に両手をついた。そんな僕の外見に反して、両親の外見は見事という他なかった。夫婦揃って朝食をとっている光景を見ると、映画かドラマのワンシーンのようにみえた。二十年以上この夫婦と暮らしているが未だにふたりが作り出す空気には慣れない。このさき、慣れることはあるのだろうか?
「朝食は?」母が訊ねた。
「大丈夫」と僕は言って部屋に引きあげた。
2
五月がサヨナラも言わずに去り、六月がやってきた。僕の勤めている会社はOA機器の販売会社で、僕は営業の支援をする課に所属している。新商品の提案書、見積書の作成、営業の必要な資料の収集、ときにはみずから営業にでかけることもある。それでも僕の所属している課は、他の部署に比べるとわり合いに早く帰ることができた。基本的には納期までに仕事を片づければ問題ないからだ。しかし案件の受注率をより高める仕事をするのにはやはり時間を必要とする。僕はそういった完成度の高い提案書や資料作成をすることを目標に仕事をしていた。おかげで社会人になってからというもの、仕事か自分の部屋で身体を休めている記憶しかない。その甲斐があってかこの春に役職に就くことができた。貯金も出来、父のいる家を出ようと思ったこともあったが、一人暮らしをしようかな、と言ったときの母の淋しそうな顔が胸に引っかかり僕はまだ家に留まっていた。仕事漬けの生活を送っているが、百年に一度といわれているこの不況で正社員として働けていることはまだ幸せなほうなのかもしれない。デスクに着いて資料の作成をしていると肩を叩かれた。
「なあ週末飲みにいかないか? ちょっと話したいことがあるんだ」
フジタだった。フジタは僕の二歳年上の同期で営業をしている。背が高く色黒で、笑うと白い歯が一層引き立った。頭の回転の速さ、スマートな身のこなし、営業に必要な才能に加えて女の子を簡単に口説き落とす稀有な才能を持っていた。
「どうせたいした用事もないんだろ?」と笑いながら続けた。
「まあね」と僕は溜息交じりに言った。「そっちこそ珍しいんじゃないの? 週末に女の子と予定がないなんて」
「たまには男同士で飲みたい日もあるさ」とフジタはおどけてみせた。
「そういうことにしておくよ」
「じゃあ金曜日あけておけよ」フジタは軽い足取りで自分のデスクへ戻っていった。
iPodのスイッチを入れ、帰り道を歩く。会社から駅へとつづく通りは月曜日の二十二時を過ぎても賑わっていた。等間隔に植えられた桜の木は盛りを過ぎて葉桜となっているが、街の灯りに照らされて輝いて見えた。僕は昔を思い起こさせてくれる葉桜が好きだ。
ホームで電車を待っていると、忌野清志郎の『JUMP』が流れた。純粋な魂から紡ぎ出されるメロディー、絞り出される声を聞くと僕は無性に叫び出したくなる。しかし電車の中でそんなことをしたら他の乗客の冷たい視線が僕を貫くだろう。もしかしたら親切な人は僕をそのまま駅員に引き渡してくれるかもしれない。明日も変わりない生活に戻っていくためにはそんなことはできるはずなかった。
玄関に父の靴はまだない。昔から父は帰りが遅かった。そして朝も早い。休日は母とリビングのソファーに座って話をしているか、二人で出掛けていることが多い。たまに三人でいるとき父は、僕の存在を煩わしく感じているようだった。居心地の悪い空気が僕と父のあいだには常にあり、しだいに僕は父と距離をとるようになっていった。子供の頃から父とまともに会話をした記憶はない。都内に一軒家を購入し、靴や時計そして車をみると、どれも聞いたことのある高価なブランドだった。父は僕の持っていないあらゆるものを持っていた。僕は脱いだ靴にブラシをかけ靴墨を塗りクロスで磨きあげて下駄箱にしまった。それからリビングに繋がる階段を上った。
「ただいま」
「夕飯は?」
「あとで適当に食べるよ。遅いからもう寝たら?」
「まだお父さん帰ってきてないから」
時計は二十三時を回っていた。シャワーを浴び、今日一日の疲労と汚れや心身にこびりついた感情を排水溝に流しこんだ。湯船に入り身体と心を温め、ゆっくりときほぐした。天井を見上げた。それから頭の中で今日起こったことや感じたことを、しっかり自分の糧にするために咀嚼する。料理の素材そのものの味を確かめるように。夕食を済ませ、歯を磨き終えると一日のやるべきことは終わった。僕は布団に潜り込み瞼を閉じた。静謐で、濃密な夜の空気が部屋に満ちていた。やがてその空気は僕の中に入り込んだ。こんなとき僕は本当にひとりであることを感じられずにはいられなくなる。
ヒカリと別れてから何人かの女の子を好きになった。彼女たちも素敵な優しさを持った女の子だった。しかし僕が近いと感じた距離は彼女たちにとって遠く、遠いと思った距離は近かった。そうやってうまく距離をとることができずに僕はひとりのまま生きてきた。二十七にもなれば、恋だの愛だのがすべてではないことはわかっている。愛がなくても生きていけるが、金がなければ生きていけない。愛は生きていく上でそれほど大切なものではない。そう自分に言い聞かせて仕事に打ち込んできた。そして僕は身を焦がし心が震える感動と心臓を引き裂くような辛い思いを失う代わりに、喜びも悲しみもない平坦で穏やかな生活を手に入れた。
弱いから、寂しいから、自分自身ではその感情の飢えや乾きを満たせないから人は人を求めるのではないか? どれだけ人を愛しても人が何を求めて生きているかなんてわかるはずはない。人を100パーセント知ることができないから約束という糸で人を自分に縛りつける。そして果たされたことに喜び、果たされなかったことに対して傷つき、失望する。どこまで行っても独りよがりのマスターベーションのようだ。僕には愛というものがとても醜い感情に思えてならない。けれども僕は愛についてどれだけ知っているだろうか? 人を愛したことも愛されたこともない僕は、実際には赤ん坊の小指の爪ほども愛というものを知らなかった。こんなにも愛について知らない僕は人間として失格なのだろうか? ヒカリから感じたあの優しさは、愛だったのだろうか? 二十七にもなるのにわからないことが多すぎる。やがて夜の空気は僕の意識を違う世界へとさらっていった。遠い、遠い此処ではない世界へ。
枕元に置いた携帯電話のアラームが現実の空気を震わせている。まだ完全に覚醒しない頭をもたげ、テレビのスイッチを入れた。液晶の中ではアナウンサーが通夜に来た弔問客のような面持ちでニュースを読んでいる。世界中で今日も多くの人が死んでいた。殺人、事故、病気。死に方は様々だが死者何人と数字に置き換えられるとそれはもはやただの数字でしかない。金持ちも貧乏人も、有名人も一般人も死んだら仲良く一緒に土に帰っていく。人は死んで初めて平等になれるのかもしれない。なぜ悲しいニュースばかりテレビは言い続けるのだろう? 悲しいニュースを聞き続けていると、悲劇すら日常の中に飲みこまれていき、感情の繊細な部分が摩耗していくのが手に取るようにわかる。慣れなければ、そして忘れていかなければ、生きていけない気がした。しかし感情を摩耗させ、大切なことを忘れてまで生きていくことに何の意味があるのだろうか。
こんな日は食事が喉を通らない。食道と胃の奥に真綿を突っ込まれたような閉塞感があった。僕は朝食をほとんど残して席を立った。出かける前に玄関の姿見で自分の姿を確認すると、ネクタイは絞首刑のロープのように不吉に僕の首を絞めつけていた。
外は今にも雨が降ってきそうだった。うす暗く、重い空が一面に広がっている。僕は溜息をついて前髪を指で軽くねじった。街路樹や紫陽花は空の色に染まり、枯れて色褪せて見えた。駅のホームは人でごった返していた。悲しいニュースにも仕事にも慣れてきたが、朝の満員電車だけは未だに慣れることができなかった。貨車にすし詰めにされ、何も知らずにビルケナウに向かったユダヤ人を僕は思った。幸いにして僕の乗った列車はビルケナウではなく、会社の最寄り駅に着いた。解放されたことに喜ぶのも束の間、押しあい圧しあい改札を目指す。
社内は始業の一時間前だというのに緊張が伝わってきた。パソコンのキーボードを叩く無機質な音だけがフロアに響き渡る。こんな状況なのはいつものことだが、あまり気持ちのよいものではない。営業部のデスクは既に埋まっていて、そこだけ温度が周りよりも高く感じられた。僕は席に着きパソコンのスイッチを入れた。メールの確認を済ませ、今日提出する予定の見積書に目を通す。商品の種類、オプション、金額、どれも問題のないように見えた。しかし何かが引っかかった。僕は何度も見積書を見直した。請求金額の欄で目が止まった。全身の血が津波の前触れのように引いていき、手足が凍りついた。見積りの金額が間違っている。僕はすぐに金額をなおした。心臓の鼓動が大きく響く。今までこんなミスをしたことはない。モニタを眺め呆然としていると、突然後ろから声がした。
「神は細部に宿る」フジタだった。
「大きな案件だから、いつもと同じようにしっかりな」と冗談とも本気ともとれない口調で言って、自分のデスクへ戻って行った。
夕方、僕の作成した提案書と見積書を持って商談に臨んだフジタから、案件が成立したと電話が入った。これで今月の予算達成に向けて大きな弾みがついた。と上司から労いの言葉をもらった。僕は確かな手応えと喜びを感じた。商談から帰って来たフジタは、サヨナラホームランを打ったバッターように手荒い祝福を受けていた。やがて歓喜の輪から僕のもとへ逃げてきた主役は「金曜日は奢らせてもらうよ」と白い歯をみせた。
「喜んで受けるよ」
そう言って僕は新しい提案書の作成を続けた。
金曜日は夕方にもなるとなかなか集中できない。気持ちはすでに夜の街へと向かっている。煌々と明かりを灯すネオンサイン、サラリーマンにOL、学生たちの笑い声や叫び声でいっぱいになる通り、週末の高揚感のなかに酒や煙草、香水の匂いが錯雑する街。働き始めたころはこういった街の雰囲気が苦手だった。何もかもが大袈裟で馬鹿らしくみえた。けれど今は、こういうのも悪くないと思う。夜の街で騒ぐ人々もそれぞれの人生をより良いものにしようと生きていて、そのために日々悩み、迷い、苦しみに耐えている。金曜日の夜くらい羽をのばしてもばちは当たらないだろう。社内の雰囲気も金曜日の夜は落ち着きがない。みな平然をよそおっているが、浮き足立った気持ちが空気を震わせている。僕は早く仕事を終わらせようとモニタの世界に意識を戻した。メールが入っていた。
〈六時までには終わらせましょう。〉
背筋を伸ばしてフジタのデスクを見ると、フジタが笑いながらこちらを見ている。僕は目線をモニタに移し〈了解〉と返した。




