第六章
初めて出会った時、景助は17歳、イチノセは25歳だった。
コロンビア大学の教授であった伯父を訪ねると、彼の研究室に景助がいたのだ。景助は伯父のゼミ生というわけではなかったが、演習で受け持ってから、優秀な景助を伯父はいたく気に入っているようだった。
物心つく以前から伯父にはよくしてもらっていたイチノセは、頻繁に自宅からも近いコロンビア大学へ足を運んでいた。時間がある時には講義にもぐり込んで大学時代を懐かしんだりもした。
その日の講義は医学部のやたらと専門的なもので、マイクを通して聞こえる難解な用語の羅列にイチノセは頭が痛くなってきた。真剣に講義を聞く気がないにしろ、ここまで意味不明だと正直げんなりする。
入る教室を間違えたな、とイチノセが退室しようとすると、出入り口に一番近い席に景助が座っているのに気づいた。伯父が絶賛するほど優秀な学生の彼は、てっきり最前列で教授の講義に耳を傾けるものかと思っていたが、どうも彼は講義開始ぎりぎりか、あるいは遅刻して入室したらしく、講義の受け方もけして真面目とは言い難かった。
適当に広げたテキストに、ちらほらとメモ書きがある程度のルーズリーフ。しかもその顔はひどく退屈そうだ。
今まで特別言葉を交わしたことがあるわけでもないのに、イチノセは景助の横に立って「Hi」と声をかけていた。景助は一瞬怪訝そうな顔をして、思い出したように「ああ」と呟いた。
「こんなところで何やってるんですか」
景助は自然に話しかけてきた。そして、こちらを窺っている教授の目を気にしてか、席をひとつ移動してイチノセの分を空けてくれた。帰るつもりだった講義に再び居座ることになったイチノセだが、伯父が目にかけるこの少年と一度話がしてみたかったので、声をひそめて言った。
「医学部の授業は、いつもこんな意味の分からない単語が飛び交ってるのか?」
「…そうでもないですよ。この教授の授業がややこしいだけ」
景助は欠伸を噛み殺すように、下を向く。
「君は何で医学部に?」
ほぼ初対面と言ってもいい相手に不躾だが、イチノセは素朴な疑問をぶつけた。
「…何でそんなことが知りたいんですか」
「いや、ただ何となくだな。答えたくなかったら、答えなくて構わないよ」
「あんた…よく分からない人だな」
景助は微かに苦笑して、右腕の時計を見た。
「――最後までこの授業受けるつもりですか?」
「え、いや。あまりに理解できないから、途中で抜けようと思ってたところなんだが」
イチノセが頭を掻くと、景助はふっと笑った。
「偶然。俺もなんです」
それ以後、イチノセは時間が取れれば景助と頻繁に会うようになり、同じ東洋人同士という親近感も手伝ってか、本人たちの予想外にも親しい間柄になった。聡明な景助は口数は少ないにしても、話していてイチノセを退屈させることはなかったし、時々覗かせる年相応の少年の顔は微笑ましかった。
年は離れていたが、友人と呼べる仲だった、と思う。信頼に足る相手だということは、今でもイチノセの中では変わらない。
腕を組んで俯いていたイチノセの前で、おもむろに研究室のドアが開いた。そこに立ちはだかるイチノセの顔を見るなり、景助は眉間にしわを寄せた。
「そうあからさまに嫌そうな顔をすることはないでしょう」
イチノセが言うと、景助は無言のまま歩き出した。イチノセはその斜め後ろを付いていく。
「…べつに俺のセキュリティだからって、べったりくっついて歩く必要はないし、第一あんなドアの目の前に立たれたんじゃ威圧感もいいところだ。研究室のメンバーが怖がるからやめてくれ」
「それでは私が職務怠慢だと叱られます。今度からは目立たないように善処します」
「是非そうしてくれ」
「貴方もずいぶん可愛げがなくなりましたよね」
「お互いさまだろ」
景助は大学ではほとんど研究室とこの屋外喫煙所しか利用していない。人目につくのを嫌っているのもあるし、元から行動範囲の広い男ではなかった。
ベンチに腰を下ろして煙草を銜えた景助に、イチノセは言う。
「…何か情報は掴めましたか?」
ライターの火を点ける手をいったん止めて、景助は、
「いや。何もなかった」
「何もなかった、とは…?」
「言葉どおりの意味だよ。戸籍はすべて偽物だった」
「何だって――」
イチノセは言葉を詰まらせる。
「日本に戸籍は存在しない。アメリカでの永住権も偽物の戸籍で取得されたものだった」
景助は煙草に火も点けないままで、腕組みをして俯いている。普段考えごとをする時には煙草をくわえる彼だが、もの凄いスピードで真剣に考えを巡らせている場合には、煙草はおろか完全に外界を遮断することをイチノセは知っている。
景助が煙草に火を点けるまで、イチノセは待った。
「…イチノセ」
不意に景助に名前を呼ばれた。
「何ですか?」
ふっと煙を吐き出した景助が、独り言のように呟く。
「俺は一体何者なんだろうな…」
「……」
「――俺は10歳の時アメリカに行くまで、中国にいた記憶はある。俺は日本人の名前で呼ばれていたし、アメリカで調べたら国籍上日本人になっていたから疑いもしなかった。後になって母さんが中国人だってことは分かったけど、中国での戸籍はずいぶん昔に抹消されていた。そして、父親の存在はまったく見えてこない」
「お母さんからは、何も聞いていないんですか」
「ああ。ずっと…隠していたんだろう」
遠い目をして景助が言う。
(すべて――あいつがやったことなのか…?)
黙って景助は立ち上がり、イチノセが言葉をかける前に、さっさと研究棟の方へ歩いていってしまった。
景助が何を考えているのかは、イチノセには分からない。ここ数年で、景助は極端に周囲を遠ざけるようになった。親しい間柄の人間ほど、その関係をことごとく断ち切っていくようだ。まるで、自ら孤独であることを望むかのように。
イチノセもまた彼が断ち切ろうとした人間の一人だろう。それでもイチノセはこうして彼の近くで、多くを目にしてきた。だからこそ、彼の目が時々イチノセを震撼させるほどの憎しみをはらんでいることが、不安でたまらなかった。あの目ははたして誰に向けられたものなのか。
「…よくないことが起こりそうだ」
そうこぼして、イチノセは景助の後を追った。




