第四章
優也は自分の前に現れたのが、本当に橘景助なのか信じられなくなっていた。
知らない男たちをものともせず薙ぎ倒し、表情ひとつ変えず銃口を向ける姿に、かつての景助の面影はなかった。アメリカで優也とともに過ごしていた頃も、喧嘩が強かった覚えはあるにしろ、自ら進んで他人を傷つけるようなことはしなかった。どちらかと言えば、大人しくて優しい性格をしていた。それなのに。
10年間で、人はこうも変わるものだろうか。優也の中で、疑問が渦を巻いていた。
結局昨日の夜、景助とイチノセは桐島家に帰っては来たが、用意した客間で一睡もしなかったようだった。争っていた連中が何者なのかは分からずじまいだったけれど、景助が今、身を危険に晒される立場にいることはよく理解できた。
朝食も摂らずに、早々と家を出ていった景助と、ほとんど話しができていなかった優也は、その日も城北医科大学の研究室を訪れた。昨日の今日で、景助とは顔を合わせづらい雰囲気になってしまっていたが。
重い足取りでたどり着いた研究室の扉の前には、イチノセが腕組みをして立っていた。
「…こんちは」
気まずいながらも、優也は挨拶をした。
「Mr.橘に会いに来られたんですか」
「そうですけど」
「今は会ってくれませんよ。研究に集中できないからと、私も追い出されました」
クールな態度は崩さず、イチノセが言った。
「そっか。いつぐらいに終わんのかなぁ…」
優也は呟いて、時計を見た。午前11時すぎ。昼には外に出てくるだろうかと、優也はイチノセの隣の壁にもたれて、座り込んだ。
「――イチノセさんは、いつから景助のボディガードやってんですか」
ふと、優也は尋ねてみる。
「なぜそんなことを?」
「なんか…景助すごい変わったからさ。俺の知らない間に何かあったのかなって」
「――私が彼を知ったのは、6年前です。セキュリティとしてではなく、たまたま用事があって行ったコロンビア大学で、私の親戚を通じて話をしたんです。今回私が彼のセキュリティを務めることになったのは、本当に偶然です」
「イチノセさんと会った時、景助はもう今みたいな感じだったのか?」
優也の質問に、イチノセはかぶりを振った。
「今も昔も、彼は変わっていませんよ。少し、人に対して警戒心を抱くようになっただけです」
「なぁ、何で景助は狙われてんだ? やばいことでもやってんのか? 昨日みたいなこと…普通じゃないだろ」
優也が立ち上がって詰め寄ると、イチノセは口を噤んでしまった。
「教えてくれよ! 何で景助が狙われなくちゃなんねぇんだ」
優也が声を荒げると、
「――さっきから、何を騒いでる」
不意に研究室のドアが開いて、白衣を着た景助が現れた。明らかに不機嫌そうな顔をしている。
「すみません。ただ私は職務上、ここで黙って立っていただけなんですが」
「あ、ひど。全部俺が悪いみてぇじゃんか」
優也が口を尖らせると、イチノセは素知らぬ顔で景助に視線を移している。景助とは目が合わせづらかったが、優也は思い切って話を切り出した。
「あのさ、景助」
「何だ?」
「俺やっぱ昨日の夜のこと、気になってさ。景助は知られたくないことかもしんねぇけど、それじゃ俺が気持ち悪いまんまだし。…何よりお前に隠しごとされてんのが、俺は嫌だ」
きっぱりそう告げると、景助はいったん目を伏せて、次にイチノセを見た。
「――優也に何か話したか?」
「特には。…彼には貴方から話すべきでしょう」
諭すようなイチノセの言葉に、景助は小さく「そうだな」と呟いた。そして優也に、
「…煙草、吸いにいくついでになるけど、いいか」
と、尋ねた色素の薄い景助の瞳の中に、それでも自分には打ち明けてくれない事実があるだろうことを、優也は何となく感じていた。
「俺の父親と母親が死んだって話はしたよな」
景助は研究棟の裏の屋外喫煙所のベンチに座って、煙草の煙を燻らせながら話し始めた。優也は横に立ったまま、じっと聞くことにした。
「その後俺を引き取ってくれたのが、ウィンストン財閥の会長だった人で――」
「ウィンストンって…アメリカの製薬グループの…?」
「そうだ。俺は14歳からその人のもとで教育を受けて、大学に入った。俺はその人に言われるままに会社の経営にも参加するようになった」
優也は黙って話を聞き続けた。
「そのうち会長は俺に重要な経営の決定権や、主要な研究の統括を任せるようになった。俺が中心になっていた研究チームでは、ある機関からの依頼でウイルス開発も行っていた――生物兵器のね」
「それって…やばいじゃん」
「やばいなんてもんじゃない。厳重に管理しないと、一週間もしないうちに何十万と人を殺せるウイルスだ。――俺がやってるやばいことが何なのか、分かってもらえた? ついでにそのウイルスのワクチン開発にも携わったけど、何千万ドルって大金が動く話だ。もう数年前の話だけど、いまだにそのデータ欲しさに企業のスパイとかマフィアがつきまとってきて、昨日みたいに俺を無理やり連れて行こうとする奴らもいる」
優也が言葉を失って冷や汗を流している間に、景助は二本目の煙草に火を点けた。
「黙ってて悪かった。俺に拘わりすぎると、お前まで巻き込まれると思ったんだ。…多分、もう遅いけど。だから俺が帰国するまでは、あまり一人で行動するなよ」
「帰国って…お前いつ帰るんだよ?」
「たぶん1ヶ月が限界かな」
「すぐじゃねぇか! もっと長いこといられないのか」
「俺は一応ウィンストングループの主席研究員の身分だからな。アメリカでの研究もほったらかしにできないんだよ」
景助は何か困ったような顔をして口もとに笑みの形をつくった。――景助は、嘘をついている時、こういう顔をする。
気づいたら優也は怒鳴っていた。
「…お前さ、何隠してんだよ。水臭ぇんだよ、さっきからさぁ! 俺たち友達だろ? 拘わりすぎるなとか、何で今更遠ざけようとすんだよ?」
「――優也?」
「お前が嘘ついてんのだって俺には分かんだよ。そりゃお前にだって言いたくないことはあるだろうけどさ、ほんとのこと言ってくれよ。お前、アメリカで何やってたんだよ? 何で生物兵器なんて開発してんだよ? 1ヶ月で帰らなきゃなんないのだって、他に理由があんだろ?」
言いたいことを吐き出した優也は、すっきりして景助をまっすぐ見詰めて、また疑問を抱えることになった。動揺なり困惑なりしていると思った景助の表情が、泣きそうに悲しみに満ちていたからだ。何が悲しいのかが、分からない。
(俺そんなにまずいこと言ったか――?)
かえって困惑させられた優也は、それをごまかすように息をついて景助の隣にどかりと腰を下ろした。
「別にお前を責めるつもりはねぇよ。お前にだって色々事情はあるだろうからさ」
「…悪い。――けど今は言えないんだ。いつか必ず話すから。待っててくれるか」
景助がこちらを向いて、今度は嘘のない目で言った。
「いいよ。俺ら友達じゃん」
優也が笑って答えると、景助は嬉しそうに微笑んだ。彼のこんな顔を見るのは、随分久しぶりだった。衝動的に優也が抱きつくと、景助は声を上げて笑った。 自分が景助にとって、すべてを打ち明けられる存在でなくなったことは、言いようもなく淋しい。ただ、昔のように笑い合えるだけで、優也は満足だった。それ以上を望もうとは思わなかった。
――そんな時間でさえ、長くは続かないような気がしていたから。




