第二章
久しぶりに訪れる東京は、住み馴れたカリフォルニアの気候より肌寒く感じられた。機内から一歩外へ踏み出した瞬間、アメリカとは異なる空気に違和感を覚えた。これまで数々の地を転々としてきたが、景助はもはや己の属する場所がどこにもないことを妙に納得した。
今回研究員として派遣された先の城北医科大学の岩崎教授は、コロンビア大学での研究実績があり、景助が修士課程に在籍していた際色々と世話になり、私生活の面でも面倒を見てもらっていた。再会を楽しみにして岩崎の研究室を訪れたところ、さらに懐かしい相手との再会を果たすことになった。
「見苦しいものを見せて、悪かったな」
放心していた優也を研究室の外へつまみ出した岩崎は、ばつが悪そうにして景助に応接用ソファを勧めた。
「いえ、彼とはよく知った仲ですから。会えてよかったですよ」
「ああいう学生が、毎年一人は必ずいるんだ。ただの馬鹿じゃすませられねぇから、こっちも困るんだ」
「でしょうね。彼もあの論文に疑問を抱いたからこそ、あんな曖昧でおかしな結論になったんでしょう。内容を理解していないのなら、あそこまでは書けないだろうし」
「マグレじゃねぇかと思うよ、時々」
岩崎は癖なのか、よく頭を掻く。
「で? スタンフォードから客員研究メンバーの紹介があった時は驚いたが…元気にしてたか?」
父親のような口調で岩崎が尋ねる。
「おかげさまで」
「親父さんは? 第一線から退いたって話を聞いた時は、てっきりお前が後を継ぐのかと思ったけどよ」
「俺はそんな器じゃありませんよ。会社も納得しないですし」
「そんなことはないだろう。あの会社の業績アップにお前がどれだけ絡んだか、上の連中だって知ってるだろう」
「関係ありませんよ。俺に面倒なことだけ押しつけて、今はのうのうと暮らしてます」
「まったくいいご身分だな」
「本当です。…ご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、今日からよろしくお願いします」
景助が頭を下げると、岩崎はあからさまに嫌そうな顔をして、
「勘弁してくれよ…俺にだってできることとできないことがあるんだぜ」
「可能な限り自分の力で何とかします。――何かあれば、すぐにアメリカに帰ります」
「へぇ…ま、どっちにせよ俺は受け入れ許可を出しちまったわけだし。ここでお前を追い返しても大学のメンツに関わるしな」
岩崎がにやりと笑って、白衣のポケットから取り出したIDカードを机に置いた。
「君の頭脳を貸してやってくれ。これから頼むぞ、橘君」
コロンビア大学を卒業してる――?
医学博士号――?
てかスタンフォードってどこだ!? それってすごいのか!?
ウイルス学研究室の入り口前に座り込んだ優也の頭の中で、疑問がぐるぐると渦を巻いていた。とりあえず、景助がすでに大学を卒業して、博士号まで持っているというからには、自分より遥かに出来がいいことくらいは分かる。コロンビア大学が、アメリカの名門校であることも知っている。ただあまりに縁がない世界なので、具体的なことはほとんど想像がつかないのだ。
――まるで景助が雲の上の存在であるかのような。
「マジかよ、景助…」
優也が顔を覆って天井を仰ぐと、
「あの、すいません…そこ、どいてもらえませんか」
上から声がした。手をどけて見ると、女子高生が困った顔をして立ち尽くしていた。思えば優也は研究室のドアの前を堂々と占領し、人が通ることはかなわなかった。
「あ、すんません。すぐどくから…」
標準から考えても可愛い顔をした彼女に頭を下げつつ、優也がゆっくりと立ち上がったところへ、背後でいきなり開いたドアがぶつかってきた。1メートルほど弾かれた優也が恨みがましく睨んだ先には、岩崎と景助が立っていた。
「なんだ、お前まだいたのか」
岩崎の言葉にむっとしながらも、優也はぐっとこらえて「悪いですか」と一言呟いた。
「別に悪かねぇが――おぉ薫。来てたなら早く言え」
岩崎の関心は、すぐに少女に移ったようだ。
「今来たばっかりだよ。この大学広いから、迷子になりかけた」
「そうか、わざわざすまねぇな」
「いいよ、お父さんの研究室、一回見てみたかったし」
こんな可愛い子が岩崎教授の娘ってのは何かの冗談か、と優也が突っ込みそうになった時、
「それじゃ、岩崎先生。また明日からお願いします」
景助が横をすり抜けて歩いていってしまう。岩崎に単位の話で喰らいつきたかったが、この状況ではどうにも無理そうであるし、景助が待っていてくれる様子もない。優也は仕方なしに岩崎に挨拶をし、どんどん先に行ってしまう景助の後を追った。
研究棟の廊下の角を曲がって、あと少しで追いつけるというところで、優也は足を止めた。
見知らぬ長身の男が景助の後ろについて歩いていた。さっきまではあんな男はいなかったはずだ。何か英語で話しており、優也にとって聞き取るのに苦労はないが、随分と早口だ。
『上手くいきそうですか』
『どうだろうな。岩崎教授はなかなか手強そうな相手だよ』
『時間はまだありますから。くれぐれも頼みます』
そこまで言って、男が不意に立ち止まった。ややあって、こちらを振り返る。優也と正面から目が合った。
まだ若い東洋人らしいが、精悍な顔つきは日本人らしからぬものだ。こういった顔をしているのは、どの国でも大概は――
「どうした、イチノセ」
遅れて景助も顔をこちらに向けた。
「彼は――?」
イチノセと呼ばれた男が、鋭い目つきで優也を見据える。
「俺の知り合いだ。変に警戒するな」
「しかし」
「いいんだよ。――優也、もう岩崎先生と話は済んだのか。単位、もらえそうか?」
イチノセと話していた時の険しい表情から一変、景助が柔かな笑みを交えて優也に声をかけた。景助が、別人のように思えてならなかった優也は、イチノセの目線が気になりつつも、ほっとして首を横に振った。
「いーや。今日はもう諦めた。あの教授、ちっとも落ちねぇの。また明日あたり、手段を変えて頼み込んでみる」
優也が手のひらを返してみせると、景助は面白そうに目を細めた。そして、イチノセを顎で指し、
「彼はイチノセ。特例で、俺のボディガード役で派遣されてきてる。やたらまわりを警戒してるけど、気にしないでくれ。これも仕事のうちなんだ」
「はぁ…」
優也が畏まって小さく会釈すると、イチノセが英語で尋ねた。
「Mr.橘、彼は何という…?」
「桐島優也。俺の日本人学校での友人だ。だから英語で話しても、全部聞き取られてる。油断して内緒話をしないことだな」
そう言って、景助が不敵に笑った。何やら二人の間に、えもいわれぬ空気が漂っている。
優也は若干びくつきながら、
「へ、へぇ…ボディガードとか、すごいのな。そんな、狙われるような立場なのかよ?」
「どうだろうな。見張りって言った方が正しいかな」
「――Mr.橘」
景助が口元を歪ませると、イチノセがその肩を掴んで言葉を止めさせた。
何だか、とてもよそよそしい。彼らは他人に知られてはいけない何かを抱えている。優也はそう感じた。
「そうだ、景助。お前どこ泊まるんだよ? まさかずっとホテル暮らしすんのか」
何とか『普通の』景助に戻ってほしくて、優也は話題を変えた。
「とりあえず大学に近いマンションを借りることになってるけど…今日はホテルかな」
景助の言葉に、イチノセが頷く。
「だったら今晩、ウチに来いよ! 俺の実家、こっから電車で二駅なんだけどさ。親父もお袋も懐かしがるだろうし! 汚いけど、部屋はちゃんとあるから」
優也の提案に、景助は少々面食らった様子だった。
「いや、でも…」
「心配いらねぇって! イチノセさんにもちゃんと泊まってもらえるし…お前さえよければ、さ? 景助」
あまり強引なことは言えないし、記憶では景助は下手に出られると弱かったはずだ。優也はイチノセの顔色も窺ってみるが、彼は一生かかってもうんと言ってくれそうになかった。
「俺は別に…優也が迷惑じゃなければ」
「Mr.橘!」
「いいだろ。今日だけだ」
景助が言い放つと、イチノセは渋い顔でため息をついた。ボディガードも苦労が多そうだ、と優也はほんの少し同情した。




