第一章
暗く閉ざされた空間である。
外界からは一切遮断され、まるで自分がこの世のものではないようにさえ感じられる。
この場所へ連れてこられてから3日経つが、相変わらず自分がなぜここにいるのかまったく理解できないでいる。
学校から帰宅するなり、突然周りを囲まれ拘束された。
(――俺が一体なにをしたっていうんだ…?)
警察に拘束されるような覚えはなかった。ただ、その場で告げられた『殺人罪』の容疑が何かの間違いでかけられてしまったことだけは認識できた。それきり、自分の意見を聞き入れてもらうことなく「お前がやったんだろう」の一点張りの刑事との口論にも疲れ果て、今はもう何かを口にしようという気も起きないでいる。
このまま黙秘を決め込んでもいいが、そうすると自分が解放されるのはいつになるだろうか。
やり残した課題がたくさんある。友達と出かける約束だってあった。
(――あいつ、怒ってるかな)
ぼんやりと友達のことを思い浮かべていると、警官が一人、部屋に入ってきた。また身に覚えのない罪を白状しろと怒鳴られ続けるのかと肩を落とすと、
「釈放だ」
と、予想しない言葉が頭上から降ってきた。
「――え?」
一瞬言葉の意味が理解できず、顔を上げて問い直す。
「だから、釈放だと言ったんだ。迎えが来てるぞ」
少しいら立った口調で警官が言い、乱暴に立ち上がらせてくる。その力のままに腰を上げ、薄暗い部屋から何事もなく外へ出た。先ほどまで永遠に手が届かないものだと感じていた自由が、あっけなく手に入った。
狭く長い廊下を歩きながら、先を行く警官に尋ねる。
「あの…迎えって、誰が来てるんですか…?」
返事はない。
自分にはもう、ここまで迎えに来てくれるような存在はいない。あまりにも残酷な形で失ってしまった。
――一体、だれが。
廊下の先にあるソファに腰かけていた人物が、こちらを振り返るとゆっくり立ち上がった。柔らかな物腰で、品があるということが、その動作だけで見て取れた。
仕立てのよいスーツに身を纏った男は、自分を見つめて言った。
「迎えに来ました。今日から貴方は私の息子です」
冬の寒さも薄れ、すぐ側までやって来ている春を待つばかりになったころ。
桐島優也は城北医科大学のウイルス学研究室を訪れていた。
「教授、頼みます! 俺に単位ください! 一生のお願いです」
先ほどから、研究室長の岩崎教授に30分近く頭を下げ続けている。
「さっきからしつけぇな。一回『F』がついちまったもんは仕方がねぇだろう」
「だからそこを何とか! この2単位がないと進級できないんですってば」
「そんなのはお前の責任だろうが。俺は評価を誤ったつもりはねぇぞ」
「だとしても、何か救済の余地くらいないんですか? レポートでも何でも出しますから」
「そもそもお前があんな根拠のねぇレポート書くから、俺は『F』をつけたんだ!」
とりとめのないやりとりが延々と続いており、研究室の人間は呆れた色を隠せない。後期成績発表のこの時期、似たような状況は幾度となく目にしてきた彼らではあったが、ここまで粘った学生は彼が初めてだった。
「俺もう4年ですよ。ここでダブってらんないんですよ」
「いや、お前には十分その価値があると思うぞ。いっぺん脳ミソ入れ替えて、来年俺を唸らせるレポートを仕上げてから、またここに来い。その時はちょっと考えてやる」
「それじゃ意味ないっすよ、教授…」
優也が肩を落としたところへ、「教授、お客さんですよ」と研究室の院生が来客を告げた。
「おう、分かった。――じゃ、残念だったな、桐島」
このままでは話をはぐらかされる、と危機感を抱いた優也は、「待ぁーーった!」と叫んで、立ち上がった岩崎の行く手を阻んだ。いわゆる通せんぼだ。
「単位、ください。本気で」
「あのなぁ…」
呆れかえった様子の岩崎が片手で顔を覆う。大概しつこいと自分でも思うが、何としてもここで単位を取得しなければならない理由が優也にはあった。優也が真剣な表情で岩崎に訴えかけていると、
「取り込み中なら、後で出直しましょうか」
背後から男の声がした。客が来ている、つまりアカの他人に自分の醜態を見られているということを忘れていた優也は、急に恥ずかしくなって、慌ててそちらを振り返った。
「すんません、もう終わるんで――」
そこに立っていた男の姿を見て、優也は一瞬固まった。
記憶が間違っていなければ、彼は。
急激に懐かしさが胸にこみ上げてくる。
「お前…景助か? アメリカの学校で一緒だった…」
「久しぶり。まさかこんなところで会うとはね」
そう言って、橘景助は穏やかに笑った。
優也と景助は、10歳から14歳までの4年間を同じアメリカの学校で過ごした。優也が父親の転勤でアメリカに移り、その家の近所に景助が住んでいたのだ。もともと日本人の少ない地域で、二人はお互いに絶好の遊び相手だった。父親の再びの転勤で、優也は日本に戻ってきたのだが、なぜかその後アメリカの景助とは連絡が取れなくなってしまい、ことしで10年がたとうとしていた。
「しかしお前変わったな。…背もだいぶ伸びたよな?」
「優也は相変わらずだな。後ろ姿を見た時はまさかと思ったけど」
「あんなとこ見られたなんて…まぁそれよりさ、おばさん元気か? もう10年もたつわけだろ」
二人が――特に優也がはしゃいで言葉を交わしていると、
「おい、桐島。ダチとの再会を喜ぶのはいいけどな、橘君は俺に用事があって来たんだよ。お前の用は済んだだろ? さっさと帰れ」
憮然とした岩崎が口を挟んだ。そういえばここが研究室であることも、岩崎の存在も忘れて話し込んでいた。しまったと思いつつ、肝心なことを流されてはまずい。
「済んでませんよ。単位くれるまで、俺は帰りません。――悪いな、景助。進級かかってるからさ」
「俺は構わないけど。岩崎先生、どうなさるんですか」
景助が面白そうに言う。何の用事があってここに来たのかは知らないが、景助を味方につければそれなりの効果はありそうだった。
「どうもこうも…橘君、こいつのレポートを読んでやってくれるか。俺がこいつに単位をやりたくない気持ちがよーく分かるはずだ」
頭を掻きながら、岩崎がデスク上にあったレポートを景助に手渡した。
岩崎に酷評されているが、このレポートは優也が時間がないなかでも――提出締切日前日に、一夜漬けで――自信を持って仕上げたものだった。確かに研究の論証は曖昧で、結論に至るまでの過程が整然としていないことは認めるが、なにも『F』評価をつけるほどのことはない、というのが優也の主張だ。
レポートに目を通しながら、景助は興味深いといった表情をしている。
「てか景助、それ読んで分かんのか? もしかして、お前も医学部進んだのか。そういやアメリカにいたころも、得意科目は同じだったもんなぁ」
優也が暢気なことを口走ると、岩崎が鬼のような形相に変わり、その場にあった雑誌を丸めて思いきり頭を叩かれた。
「痛ってぇーー! 何するんすか、いきなり!」
事情が分からないままに叩かれた頭をおさえる優也に、岩崎は吐き出すように言った。
「いっそお前は1年生からやり直せ。お前がいかに勉強してないかが分かった」
「はぁ? そりゃ勉強不足に関しては反論できないですけど…」
首を捻る優也に、景助がレポートを差し出した。
「このレポート、半年前のネイチャー誌の論文を題材にした?」
「ああ、まぁ…」
「この論文じゃ仮説と結論が矛盾してる。3ヶ月前のネイチャーに載った俺の論文も読んだ?」
「は?」
「読まなかった? 俺の学位論文」
完全に思考が停止してしまった優也に、岩崎がため息まじりに説明する。
「橘君はスタンフォード大学からの客員研究メンバーだ。ちなみにコロンビア大学を卒業して、現在は医学博士号をお持ちだ。進級がかかった2単位にすがってるお前とは次元が違う」
優也は思わず景助を振り返った。はにかんだように笑う景助は、7年前までの、優也がよく知る景助とは遠くかけ離れた存在に思えた。




