第05話
「あの、お恥ずかしいのですが……」
そんな恥じらいを見せつつも、その人物は手を動かす。黒を基調として所々に青と白の装飾が施された和装の帯を、細くしなやかな指先が解き、パサリと優しく床へ羽で優しく触れるかのように落ちる。向かいに立つ人物がより近くに来れるように、すらりと綺麗な脚線美を持ちながらも肉感的でどこか扇情的なその両脚を広げる。帯を亡くした和装はそれにつられて足元から左右へ広がっていき、吸い付きたくなるような内腿をさらけ出す。
「あんまり、見ないで下さいね」
そう言葉を繋げつつ、帯を外した手は襟元へ持っていき、胸元を見せるように和装をずらしていく。その両腕に抱えられるようにされたその胸にある大きな二つの果実は、零れ落ちんばかりに押し上げられてしまっている。胸元が見えるまで大きくずらされ、下を見ればその肉感的でいて神秘的な内腿が覗く。その姿は特別な嗜好を持つ者を除いては、理性を我慢できる雄は居ないであろう扇情的な姿。それにも拘わらず、その姿からは気品さえ感じられる。
正面に立つ人物――カエルム神国衛兵隊副隊長ルシェルは、自分が女性で良かった、と心から思わずにはいられない。
(いや、女性同士だからこそ、このまま親交を温めるというのも……)
そう思考が横道に逸れかけた時、はっと自制心を取り戻す。
(い、いけない! 私は何てことを考えているのでしょうか! それに私は逞しい男性がタイプなのです。決して、同じ女性に衝動を覚えるなどあり得る筈がありません! そう、例えこんなに吸い付きたくなるようなフトモモでも、飛び込みたくなるようなお胸でも、えへ、えへへへ)
訂正。自制心は取り戻せなかったようだ。益々深みに嵌ってしまっている。このまま放置すれば、女性の花園への新たな入園者が誕生してしまうであろう。
「あの、ルシェル様?」
「あ! ……じゅる! はい、なんでしょうカ!?」
やや恵子が困惑気味に涎を垂らし始めたルシェルに恐る恐る声を掛ける。流石にルシェルはその声に自分の醜態を自覚し、声を上擦らせながら慌てて返事をした。長い耳の先まで真っ赤に染まっているが。
「えっと、クリスタルの波動の計測には胸元にお手を当てられるのですよね? もう少し服をずらした方が良いですか?」
首をかしげながら恵子が問う。その手は再びずらした襟元へ掛けられ、更に下げようとしている。
(いけない、この先はイケナイ。そう、イケナイ!)
その仕草の先を想像してしまいそうになり、鼻血が出そうになり上を向くルシェル。この先に待つ甘美な世界の気配に背筋に冷や汗が噴き出る。勿論、本人は隠せているつもりだが、その愛らしい顔にも玉の汗がびっしょりぐしょぐしょである。
噴き出そうな鼻血を根性と根性と根性で抑える事に成功したルシェルは、息も絶え絶えに恵子を制止する。
「はぁ、はぁ。け、恵子様。も、もう大丈夫です! ご馳走様でした! もう十分、計測できますので!」
危ない言葉を口走ってしまった気もするが、勢いで誤魔化すルシェル。もう、色んな意味で乙女の矜持が懸っているのだ。
「とにかく! 身に纏っているレイを胸の中心にあるクリスタルに意識して集めるように集中してください! ……で、では、失礼しますね」
恵子に指示を出し、恵子が言われた通りに意識を集中し始めるのを見ると、ルシェルはごくりと喉を鳴らしながら手を恵子の胸元へ伸ばす。
(……く! な、なんて過酷な任務なの! 私が、私で無くなってしまう様だわ!)
相変わらず、理性を正常に取り戻せては居ないようだが。
それから幾許かの時間が過ぎた頃、大きく息を吐いてルシェルが手を放す。
「――ふぅ、終わりました。恵子様、服を戻されて結構ですよ。ご協力、有難うございました」
ルシェルは左腕に着けている時計型の晶科学によって作られた通信無線機を操作する。空中にいくつもの画面が表示され、その中の一つに接続先の一覧が表示される。その中の一つをタップすると暫くして接続先
「本部、こちら副隊長ルシェル。検体データを送信するので黒犬との照合されたし」
『こちら本部、照合了解です。お疲れ様です、ルシェル隊長』
「結果が出たら連絡を頼む」
本部へ連絡を完了したルシェルは改めて恵子へ向き合う。内心、恵子の着崩した和装が直されていた事にちょっと残念な気持ちになったのは乙女の秘密だ。
「恵子様、ワーカーをご夫婦でされてらっしゃるんですよね。大変ではありませんか?」
ルシェルがプロビデンス機構のエージェントやワーカーが、場合によっては命の危険を伴う依頼をこなさなければならない事を思い出して尋ねる。
「勿論、危険と隣り合わせな事もありますから、常日頃気を張って疲れてしまう事もありますね。でも、私たちにとっては必要な事ですので、力を合わせてなんとかやっています」
どこか儚げな表情を浮かべて答える恵子に、ルシェルはその姿に砕けたガラスを接着剤でくっつけたような、そんな危うさを本能的に感じた。やや焦り気味にルシェルは疑問をぶつける。
「こんな事をお伺いするのは失礼かもしれません。お答え頂けなくても結構です。恵子様、恵子様たちに必要な事はワーカーでなければ出来ない事ですか? 私どもカエルム神国に頼ることはできませんか?」
それは心からの心配であった。ルシェルはかつて今より幼いころの自分に降りかかった災厄を前に、炎に包まれる中で只立ちつくしかなかったことを思い出す。そしてルシェルが自身の命は勿論、かけがえの無い者達の命をも諦めてしまいそうになっていた。
その時、どこからかいつの間にかやってきた一人の若い兵士がルシェルに手を差し伸べたのだ。その兵士は当時無名であったにも関わらず、ルシェルを含めた幾人もの命を救い、その災厄と戦った。彼の奮闘により災厄はその地を去り、後に残された者達は失ったものを嘆き悲しみ、ある者は途方に暮れ只ひたすら呆然と立ち尽くした。そしてルシェルはその名も知れぬ若い兵士から目を離せなくなっていた。
あれから幾年もの年月が経ち、もしあの災厄がまた降りかかってきたとしても、彼女は大切な者達を自らの手で守るだけの力を身に着けたと自信を持って言える。そしてその機会を与えてくれたかの兵士、ひいては彼という人材を必要な時に必要な場所へ采配したカエルム神国へも恩義を感じている。自らが民を守る側の立場になって以降、それまで自分の知らなかった場所でどんな人々が暮らしているのか、その暮らしはどのように守られているのかを知ったルシェルは、指導者側に立つ一人の人物をマスターに戴き、忠誠心を捧げるようになった。
自らの手で多くの者を衛兵隊として護って来ただけに、もし恵子に困ったことがあり、それが個人の力で解決する事が困難であるならば。例えカエルム神国出身の者でなくても、この街に住む者同士、頼れるものなら頼ってほしいと思う。それが、色々な生命が根付くこの世界で、少しでも多くの災厄を祓う事に繋がるとルシェルは信じているから。
「ルシェルさん、有難うございます。でも、これは私たち自身の手でしなければならない事なのです。そのお気持ちだけでも十分嬉しいです。でも、どうしてそこまで気にして下さるのですか?」
恵子も先ほど会ったばかりで、ましてや黒犬捜査の最中の兵士であるルシェルが、自分たちに気をかける理由がいまいち掴めなかった。ルシェルの表情から、何かしら悲しい事あるいは辛いことがあったのだろうとは予想は出来る。だが、それが何故この国にとっては外部の人間であり、危険も自己責任は周知のワーカーである自分たちを気遣うのか、疑問に感じた。
「それは……私にとって、手の届く限り困っている人には手を差し伸べたいのです。少なくとも、手を差し伸べられる状況で、見て見ぬふりをすることだけは出来ません。私の自己満足ではあるんですけどね」
そういって笑ったルシェルもまた、恵子とは違った儚さを持っていた。
「そうですか。もし、ルシェルさんに頼らせて頂く事があれば、その時は存分に頼らせて頂きますね」
恵子はきっとその時は来ないだろうと、来てはいけないのだろうと思いつつも言った。
「は、はい! 絶対ですよ、約束ですよ! 遠慮なく頼ってくださいね!」
恵子の言葉を聞いたルシェルは先ほど浮かべていた儚げな笑顔ではなく、心からの満面の笑顔を見せた――その時、廊下から爆発音とも呼べるような轟音が鳴り響き、ドアが暴風に晒されたかのようにガタガタと激しく震えた。
「――なっ、これはダンカン隊長の波動!? まさか!」
ルシェルがいち早く反応し、ドアへ向かう。その手にはいつの間に準備したのか、蒼くたゆたうように紋の入った細剣を握りしめていた。その背中を視線で追いかけながら、恵子はテーブルの上に準備していた幾つかのアイテムを手に取る。
(ダンカンさんとはいえ、流石に確実な証拠は持っていないはず。恐らくこれは探りね。どこで怪しまれたのかは分からないけれど。タクちゃんが下手を打たなければ良いんだけど)
手に取ったアイテムをいつでも行使できるよう密かにレイを集めながら、恵子もまたルシェルの背中を追って部屋のドアへ向かう。普段は抜けた所のある夫だが、致命的なミスは犯さない。その足取りは優雅で微塵も焦りを感じさせないものだった。
時間は少し戻り、二階から一階へ下る階段の踊り場で向き合うタクマと、衛兵隊隊長ダンカン・レガリア。暫しの沈黙を持ってダンカンが藪から棒に言い放つ。
「――お前、黒犬だな?」
それは断定にも等しい言葉であった。
「――え?」
ダンカンが突然放った言葉はタクマを激しく揺さぶった。予想もしていなかった展開に暫し呆然となる。
(な、なんで? どこでバレた!? さっきまでは只座ってただけだぞ!)
恵子がダンカン達と話している間、自分は座っているだけだったのだ。ボロを出すことがそもそもできなかった自分を見て、ダンカンが何かを掴んだとは考えにくい。ということは。
(もしや、おっさんの直感か? なんたってこの人、獣だし。理屈抜きで正解に辿りついても不思議じゃない)
ダンカンはこの街どころかこの国全体でも知らぬ者は居ないであろう知名度を持つ。当然、彼にまつわる逸話は数多あり、もっぱら酒の肴となっている。その逸話の中に、街の貧困層の子供を狙った人攫いの集団達を、今まで誰もその尻尾を掴む事すらできなかったにも関わらず、ダンカンが介入したその日に解決してしまったという話がある。何といっても驚きなのが、捕縛に至った直接の原因は、ダンカンと街で人攫いの集団が偶然すれ違ったからである。犯罪者の集団でも日頃は日常の風景に溶け込み、必要な物を調達したりカモフラージュしている。傍目から見ても住民との区別は普通であればつかないであろう。だが、ダンカンは只一度すれ違っただけで違和感を感じ、人知れず尾行をして人攫いたちの拠点を突き止め、一人で十数人の武装した集団を制圧してしまったのだ。
そんな逸話を持つダンカンであれば、己の直感だけで断定するのも十二分に有りうる。
(だが、人攫いたちと違い、俺が黒犬だと示す証拠は何もない。何せ、何も盗んでいないんだからな)
流石のダンカンも証拠が無ければ仮にこの場でタクマを捕縛したところで、精々が数日拘留できる程度だろう。何も証拠が挙がらないともなれば、解放せざるを得ない。そしてその証拠はこの世に存在しないのだ。となれば、ここは慌てずにダンカンに自分に不審な点等ないことを説明すればいいだろう。しかし、説明する機が訪れる事は無かった。
「ふん、その沈黙が何よりの証拠だ! 大人しく投降するならばよし、手向かうなら痛い目に遭う事になるぞ、覚悟しろ!」
ダンカンはタクマが考えている間に痺れを切らし、捕縛するべく腰を落とし両手を見紛える。その様はまるで中国拳法のようだ。
それに慌てたのはタクマである。ここで衛兵隊と事を構えるメリットは何もない。むしろ大きすぎるデメリットしかない。ダンカンを制止しようと試みる。
「ま、まってダンカンさん! ここは冷静に話し合って解決しよう! 話せば分かる!」
「何を今更! 問答無用!」
直後、ダンカンはタクマを取り押さえるべく、一瞬でタクマの背後へ回り腕を取って関節を極めようとする。武術の心得がある者であっても、獣人種中トップクラスの俊敏性をもつ、白銀豹人種レガリアであるダンカンの動きについて来れるものはそういないだろう。しかし、対処する方法がない分けではない。
「――なにっ!?」
ダンカンが驚愕の声を上げ、背後へ飛びずさる。背後へ回り込む際に、左右の動きに弱い人間種の視界の死角を突く為、向かって左を一足飛びに跳躍したのだ。この距離で捕縛に失敗した事は数えるほどしかない。にも関わらず、今こうしてダンカンはその動きを封じられてしまっている。なぜなら――
「それが貴様の晶霊武具、か。盾……いや、大盾か」
ダンカンの俊敏な動作を妨げたのは、タクマとダンカンの間に屹立するようにして突然出現した大型の盾である。紺色の盾の淵は黒く縁どられており、派手さは無いものの確かな力強さを感じさせる意匠をしている。
晶霊武具――それは、その身にクリスタルを宿す者であれば修練を積めば誰でも具現化する事ができる、レイを凝縮して形成する固有の武器あるいは防具である。中でも他にはない個別の能力を持つ者は固有晶霊武具と呼ばれ、戦闘においては非常に強力な装備となる。個人によってはどちらか一方だけしか具現化できない者もいる。プロビデンス機構に所属するエージェントは例外なく両方発現できるが、ワーカーでは晶霊武具を行使できるものは二人に一人。さらにその中で武器も防具も実用に耐えるレベルで具現化できる者は三人に一人の割合であろう。ワーカーたちの間ではいずれか一方を具現化できて一人前、両方とも具現化できるようになれば実力者として捉えられる。そしてその基準は世間一般にも浸透しているのである。
ダンカンの率いる衛兵隊はその職務上、晶霊武具を扱える事は必須条件である。その為、入隊資格として武器および防具の具現化が求められる。実用に足る晶霊武具を具現化するまでは、衛兵隊の中では如何に武術を修めた者であっても、見習いとして扱われる。最も、ダンカンが隊長に就任して以来、過酷な訓練により見習いという存在は強制的に根絶されたが。
(盾だけということは、こいつは武器を具現化する事はできないのか。それとも何か狙いがあるのか)
ダンカンも当然、晶霊武具を具現化する事はできる。それも彼に非常に強力な力を与えてくれる能力を有した、相棒ともいえる固有晶霊武具だ。だが彼はまだ具現化していない。先の黒犬と対峙した時でさえ、無手で構えていたのだ。それは決して驕りではなく、対晶霊武具の制圧戦においてカエルム神国において比肩する者のいない体術を修めている彼であればこその行動だ。これが対象の捕縛が目的ではなく、命を懸けた戦いであれば彼も躊躇なく晶霊武具を具現化するであろう。また、彼でなくても大盾しか出せないような無名のワーカー程度であれば、隊員でも十分勝利を収める事ができるとダンカンは思っている。だが、今は黒犬と呼ばれる散々自分に苦汁を舐めさせた者を、安易に命を絶つのではなく、捕縛して法の裁きに賭けねばならない。それが、衛兵隊に入隊する事を決めたときからの譲れない方針であり、彼自身の矜持にも関わることである。
(ふん、何か企んでいるのだとしても、正面から突破するのみ!)
そう考えるや否や、ダンカンは腰だめに構えた右手にレイを凝縮して集中させていく。高度な技術で凝縮されたレイはダンカンのクリスタルの影響を受け緑色の閃光を放っているように激しく脈動する。
(やばい、アレはやばい!)
それを見てタクマは焦りを覚える。これまで幾つもの危機をこの大盾は防いで救ってくれたが、今回は相手が悪い。この街どころかカエルム神国にその名声を轟かせる有数の実力者である、衛兵隊隊長ダンカンのレイを籠めた一撃は簡単にやり過ごすことは出来ないだろう。下手に受ければ重傷を負ってしまう事が確信できるほどのプレッシャーに威圧される。唯一の救いは、ダンカンに闘志はあるものの殺意は無い事か。だからといって、現状をどうにかできるわけでもないが。
「お、おっさん! TPOを考えて行動しろよ! 仮にも衛兵隊だろ!」
ダンカンから一瞬でも視線を離さないよう集中しつつ、大盾を右手で強く持ち、左手を添え衝撃を受け流すべく備える。
「あぁ、考えている。貴様を一秒でも早く確保すれば、他に迷惑がこれ以上かかる事もないわ!」
タクマの制止の声を一蹴し、ダンカンは軸足の右足から体重移動しつつ、左足をタクマが構える大盾の手前へ踏み込む。それもかなり深く。自然とダンカンの体は深く沈み、タクマを下から見上げる形になる。そのまま、アッパーをするかのように大盾へ緑色の閃光が迸る右手を叩きつけ、大盾に拳が触れた瞬間レイを解放する。
――タクマの身体は大盾ごと踊り場から二階の廊下へと吹き飛ばされ、廊下の壁に激しく激突した。タクマの大盾に叩きつけられたダンカンの一撃は、まるで爆弾が爆発したかのような甲高く一際大きい爆音を民宿韋駄天中に鳴り響かせ、宿屋そのものに飽き足らず近隣の家屋までその振動で震わせた。この民宿韋駄天が普段から諍いごとを考慮して耐衝撃用の窓ガラスではなく、一般的な窓ガラスを嵌めていればその全てが砕け散っていたであろう。その衝撃に深夜眠りについていた宿のスタッフや宿泊客は愚か、近隣の住民すらも飛び起き慌てて外に飛び出し、辺りは一時騒然とした。宿屋の前に待機させていた衛兵隊の兵士が事態を治めた為大事にはならなかったのだが、ダンカンがそれを知る事は無かった。
「く、いつつ。全身が痛いな。骨は折れてないが……素手でなんて威力だ、おっさん。衛兵隊隊長の名は伊達じゃないな」
壁に激突し床に崩れ落ちたタクマは、あの衝撃の中でも手放すことは無かった大盾を支えに立ち上がる。
(今のはあくまでも小手調べなんだろうが、それでも今の俺には全力で受けても流す事すら出来ないな)
タクマは今のダンカンの動きを瞬きひとつせずに観察していた。全身をバネに力を一点に集中させたその体術、膨大なレイを短時間で高い圧縮率で凝縮するその晶霊術の技術の高さ。それら全てがタクマの遥か上をいく水準であった。到底、ダンカンと直接対峙して何かできるとは思えない。しかも、彼はまだ晶霊武具を具現化すらしていないのだ。衛兵隊隊長であることを示す赤の皮鎧のみが、今の彼の唯一の装備である。実力差は誰の目にも歴然だ。
「さぁ、そのままじっとしてろ。拘束用晶道具で身柄を確保する」
ダンカンがタクマの挙動に警戒しつつ、腰の後ろにあるポーチから輪っか状の晶道具、拘束用晶道具を取り出す。対象者に使用する事で簀巻きのように身柄を拘束する事ができ、尚且つ使用者がレイで牽引すれば重さを感じることなく運搬できるという、治安に携わる者ならば必須の晶道具だ。衛兵隊でも標準装備として各隊員に支給されている。
大盾を杖代わりにして立っていたタクマはダンカンが近づいてくると、気力を振り絞って身をおこし、大盾を再びダンカンの攻撃に備え構える。
「ふん、その心意気や良し。だが、ただ防御に徹するだけでは俺の手から逃れられんぞ。それが嫌なら、貴様の全力を――」
――スパァァァァン!
「はぅあ!?」
「は?」
不敵に拘束用晶道具を指先で回しながら近づいていたダンカンの後頭部へ、小気味良い音を出しながらスリッパのような履物が突如直撃した。それを目の前で目撃していたタクマは驚愕し、その偉業を成し遂げた人物へと目を向ける。少なくとも、ダンカンはタクマの目から見て隙があるようには決して見えなかった。もし構えている大盾のわきから同じように何か投擲したとしても、彼は苦もなく避けるどころか、その隙をついて逆にこちらを一瞬で制圧してしまっていただろう。そのダンカンへ不意打ちとは言え、一撃(履物が当たっただけだが)を与えた人物とは、如何程の実力者か。
「ダンカン隊長! どうして隊長はいつも拳で語ろうとするんですか! 隊長はその気になれば、触れなくてもクリスタルの波動なんか一瞬で調べられるのに。そんなんだからマイ・ロードから中々昇格試験の認可が下りなかったんですよ!」
二階の廊下の奥――タクマ達の止まっている部屋がある突き当り――から歩いてきたのは、小精霊にしては大きく愛らしい瞳の美女と美少女の中間にあるような可憐な女性――その眉間に深い皺が刻まれておらず、腰に両手をあて仁王立ちしているその身体から、怒気にあてられたレイが揺らめいていなければ、だが――、衛兵隊副隊長ルシェルその人であった。その後ろからはタクマの妻である恵子もゆっくりと歩いてきているのが見える。
ルシェルは廊下へ出た途端、大盾を支えによろめくタクマと、無意識に獰猛に笑っているダンカンをみてすぐに状況を理解した。手に持っていた細剣を散らすと、手近にあった宿泊客用のスリッパのような履物を手に取ると、間髪入れず全力でダンカンの頭部へ投げつけたのだ。それを見た恵子は警戒を解き、手に持っていたアイテムをこっそりアイテムボックスへ収容した。
「ルシェル! だが、俺の直感はこいつが黒犬だと言ってるんだ! 俺の直感が外れた事は無い!」
鬼のような形相をするルシェルに慌てて弁明するダンカン。その姿にはもはや先程まで鋭利なプレッシャーを放っていた武人の雰囲気は欠片もない。
「確かにダンカン隊長の直感は当てにはなりますが、それとこれとは別です! 手順を踏まずに率先して暴れてどうするんですか! それではならず者と変わりません」
「そ、それは……その通りだ。済まない」
全くもって正論なルシェルの言葉に項垂れて観念するダンカン。重ねて言うが、その姿からは武人の雰囲気は微塵の欠片もない。項垂れたダンカンを見て大きく溜息を吐くルシェル。
「はぁ。私に謝ってどうするんですか。まず、恵子様のご主人に謝罪して下さい。それから速やかにクリスタルの計測を」
「わ、わかった! この通りだ、手荒な真似をして済まなかった。手間を取らせて申し訳ないが、クリスタルの波動を計測させて欲しい。不満があれば、計測の後であれば俺を殴ってくれてもいい」
自分の非を認めたダンカンはすぐさまタクマに詫びる。突っ走ってしまう所もあるが、素直に人の意見を受け入れる器量の広さがある。だからこそ、彼は聖都プロメアの住民に親しみを持たれ、衛兵隊の隊員たちもそんな彼の為ならばと躊躇なく危険の中へも身を投じる事が出来るのだ。そうでなければ、衛兵隊の隊長になどなれなかったであろう。
そのダンカンの謝罪に心からの誠意を感じ取ったタクマは、大盾を散らして苦笑しながらも答える。
「いぇ、お詫び頂けたのなら大丈夫ですよ。謝罪を受け入れます。それに、お互い怪我も無かったのですし、噂に聞くダンカン隊長の実力を身を持って体感できたのは、ワーカーである俺にも十分為になりましたので」
「それは、有難い。重ねて感謝を。では早速だが、計測させて貰っても宜しいか?」
「えぇ、構いませんが……先に治療しても良いですか? ダンカンさんの一撃を受け流そうとしただけで、体中が悲鳴を上げています」
大盾の支えの無いタクマは、実のところ気力だけで立っている。気が抜いたら崩れ落ちてしまいそうなのだ。
「これは申し訳ない。治癒系の晶術は俺は使えないのだ。ルシェル、頼む」
バツの悪そうな顔をしながらダンカンがルシェルに振り向いて言うと、それを予想していたかのように既にルシェルはレイを集め始めていた。
「シンイ様、この度は申し訳ありません。すぐに治療させて頂きますので、そのまま動かないで下さいね。光小治癒」
ルシェルはそう言いながらタクマに向け両手をかざし、晶術を発動させる。その両手からは淡く白い光が発せられ、薄くタクマの身体を包んで温もりを与える。数秒ほどそのままでいたタクマは、悲鳴を上げていた身体の痛みが引いて次第に治っていくのを感じた。完全に痛みが消えた頃、タクマを包んでいた光もまたルシェルの手から消えていた。
「これでもう大丈夫です。ご迷惑お掛け致しました」
その愛くるしい姿で純真そうに微笑みながら、ルシェルは軽く頭を下げる。温もりを感じて幾らか気が落ち着いたタクマは、ルシェルのその可憐な姿にほっこりしそうになり――ダンカン以上のプレッシャーを感じて気を引き締めた。決して、ルシェルの背後を見てはいけない。決して。
「いぇ、ありがとうございます。ルシェルさんは光晶術をお使いになられるのですね。光系の治癒晶術は初めて見ました」
「あら、そうでしたか。私の主属性は風ですが、多少であれば光も扱えるのです」
実際、五行教会が主神と崇めている五柱の神々はそれぞれ、火、水、風、土、空の属性を司っており、それ以外の属性を扱える素質を持つ者は五大神国の中では少数派なのだ。五柱神をそれぞれ頂点に戴く五大神国では、国民の大多数がその国の神の加護を最も受けるためだ。例えば、空神ヒンメルの座すこのカエルム神国では主属性が空属性の者が生まれる者が多かったり、などだ。だがそれは決して、他の属性を主属性に持つ者を差別する事には繋がっておらず、向き不向き程度に捉えられている。これは、五行教会の教えに依る部分が大きいだろう。
五柱神の司る五つの属性を五大属性と呼ぶが、この中で治癒系の晶術を発動できるのは水属性のみである。その為、五大神国の中でも治癒晶術を扱えるものは少数派であり、且つその属性が水属性以外となれば、更にその術者の数は減る。要は、珍しいのだ。危険と隣り合わせのプロビデンス機構所属の者でも、パーティーを組む際には、エージェントやワーカーには関係なく、治癒晶術を扱えるものは重宝される。集団戦には必須と言っても良い。
「ルシェル、謙遜するな。全身打撲に近い怪我を数秒で治すのが多少なものか。まぁ、我が衛兵隊の副隊長であれば、それぐらいはして貰わんと困るがな」
それまで横で治療を見ていたダンカンがやや誇らしげに話に入る。あまり人前で部下を褒める事の無いダンカンの分かりやすい賞賛に、ルシェルは顔を赤らめる。
「ダンカン隊長、急に困ります。それはそうと、これ以上お二方のお時間を頂戴するわけにも参りません。隊長の直感を確認するためにも、シンイ様のクリスタルの計測をお願いします」
ルシェルはそういうとタクマから離れ、入れ替わりにダンカンがタクマに近づいてくる。恵子はその三人の様子をやや遠巻きに見守っている。小道具はストレージにしまったが、いざとなればリスクを無視して時空転移すべく、精神を研ぎ澄ませていく。ダンカンに気取られてはならない為、レイはまだ操作せず意識だけその時に備えて集中する。傍目からは、優しく主人を見守る妻、という体を崩さずに。
念の為、部屋に残っているソルにも指示を出しておく。
『ソル、もし私達が跳躍したら、すぐに貴方も後を追ってね。マーカーを残していくから』
『はいなのです、奥様! いつでも大丈夫なのです!』
恵子たちの準備が密かに整えられたとき、ダンカンが計測用の晶術をタクマに触れずに瞬時に発動した。これは、黒犬と接触した際にも用いた、契約領域形成の対人用に縮小された術式である。対象の人物の周囲を領域として設定する事で、領域内のありとあらゆる情報をダンカンは把握する事ができる。
(タクマ・シンイ――名乗りに偽りは無し、か。俺の直感が正しければ黒犬と繋がる点がある筈だ。それを探る)
ダンカンは目をつむり、脳内に次々と現れる情報を精査しながら振り分けていく。
――そして、ダンカンはタクマのクリスタルにある痕跡を見つけた。
「これは、なんだ!?」
それは黒犬とタクマを決定的に結び付ける証拠では無かった。今までダンカンが触れた事の無いものであった。ダンカンの脳裏に浮かぶ映像では、理解できない文字や図柄で構成された呪印が、タクマのクリスタルに纏わりついていたのだ。