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十五年ぶりに謝りに来た元婚約者へ、夫を紹介します

掲載日:2026/10/14

「落としたのは、孫なんだがね」


 お客様は包みを開く前にそうおっしゃった。

 私が受取帳を広げると、奥の作業台から夫が顔を上げた。


「前にも、そう聞いた気がします」

「前は私だ。今回は本当に孫なんだ」


 小さな竪琴の枠に割れ目が入っていた。トマは布の上へ横たえ、持ち込んだ老紳士と一緒に覗き込んだ。私は受取帳の端へ、傷の位置を描きつけた。

 修理代の見積もりを聞くと、お客様は一度ひげを撫で、それで頼むと頷いた。


「来週の土曜には、お渡しできます」

「孫に弾かせてやりたくてね」

「では、私も音を確かめておきますね」


 老紳士は帰り際に戸口を振り返り、孫はまだ五歳で、持たせるには早かったと付け足した。

 トマは扉が閉まるのを待ち、こちらを見た。


「きっと、本人も弾いたんだ」

「修理の内容は、それで変わらないでしょう」

「いや。あの人は自分で弾く時、いつも細い弦を強く引っ張る」


 受取帳へ注意を書き加えると、夫は満足そうに仕事へ戻った。

 店の表では楽器や弦を売り、奥で修理をする。私は調律を引き受け、持ち込めない楽器ならお屋敷へも出向く。結婚して十年、この狭い店で、お互いの動く場所を少しずつ決めてきた。

 トマの足元だけは、いつまでたっても削り屑が多い。


「お客様の椅子まで積もらせないでね」

「今やろうと思っていた」


 彼がいつもの返事をしたところで、扉の鈴が鳴った。

 閉店前に掃くつもりだった床を、磨き上げた靴が踏んだ。

 顔を見るより先に、よく知っている立ち方だと思った。右足をわずかに引き、相手から声をかけられるのを待つ。


「レナ」


 名前の呼び方も同じだった。

 リシャール。十五年前、私との婚約を解消した人。

 髪の生え際は少し後退し、目の脇に細かな皺があった。けれど、私を見つけて唇を開く顔は、二十一歳だった頃と重なった。

 いらっしゃいませと言おうとして、喉が詰まった。

 腹が立った。

 私はもう三十五だ。この人の顔を見ただけで、声も出せなくなるなんて。


「ここだと、聞いて」

「楽器の御用ですか」


 ようやく言うと、彼は手にした帽子を見た。楽器も、その包みも持っていなかった。


「謝りに来た。学園でのことを」


 奥で道具を置く音がした。

 トマは作業台を離れた。私の隣までは来ず、棚の端に手を掛けて立っていた。


「十五年も前のことです」

「ああ」

「今さら、何を」

「君は、彼女を突き落とそうとしたんじゃなかった」


 受取帳を閉じようとした手が止まった。


「知っていた。俺は見ていたんだ」


 学園の階段の踊り場で、別の令嬢に手首を掴まれた。

 離してほしくて腕を振った。彼女は後ろへよろめき、階段を転げ落ちた。私は伸ばした手を宙に残したまま、下から響く悲鳴を聞いていた。

 その出来事は、婚約者を奪われるのを恐れた私の嫉妬が原因だとされた。

 彼女と親しくしていたリシャールは、階段脇にいた。その場でも、後で私を呼び出した部屋でも、私と目を合わせなかった。

 手を払っただけだと何度言っても、まだ認めないのかと言われた。

 父が頭を下げ、婚約は解消された。私は学園を去った。


「見ていたのに、黙っていたのですか」


 リシャールは頷いた。

 私は受取帳を閉じた。紙の間に挟んだ指が痛くて、引き抜いてから、もう一度表紙を押さえた。


「椅子を出そうか」


 トマが尋ねた。

 私はすぐには頷けなかった。客に座ってもらえば、その人の用が済むまで話を聞くことになる。

 けれど、聞かなかったことにもできなかった。


 ◇


 トマは椅子を出す前に、私の返事を待った。

 私は頷き、店先の札を裏返した。まだ閉める時刻ではなかったが、途中で別のお客様の応対をする自信はなかった。

 夫は卓の向かいへ椅子を置き、私のためにも一脚引いた。


「奥にいようか」

「ここにいて」


 小声で頼むと、彼は棚の前へ戻った。

 リシャールは腰を下ろし、帽子を膝に置いた。縁を何度も指で押しては、手を離す。


「何を見たのか、聞かせてください」

「彼女が君の手首を掴むところから」


 私は両手を膝の上に置いた。

 掴まれたのは右手だった。今でも、手首に指を当てれば、掴まれた位置が分かる。


「君は彼女の背を押していない。前にいた彼女の手を振り払った。俺の所からは、二人の腕が見えていた」

「あの時、そう言えたのですね」


 彼は答えず、帽子を握った。


「すまなかった」

「私が何をしたか、あなたにも聞かれました。覚えていますか。後で呼び出された部屋で」

「覚えている」

「私が話す前に、なぜあんなことをしたんだと言いました」


 リシャールの顎が下がった。

 私はあの部屋で、最初から説明していいのか、それとも先に否定すべきなのか分からなくなった。何から話しても、言い訳だと言いたげな顔をされる。

 この人だけは分かってくれると思っていた。

 けれど、分かっていたのだ。


「彼女が泣いて、君に押されたと言った。みんなも、そのつもりで話し始めた」

「ええ」

「あの頃は、俺も若くて。彼女の家と、うちの父との付き合いもあったから……」


 彼は言葉を切った。

 私は待った。続きを助ける気はなかった。


「いや。父には、俺が見たことを話していない」


 リシャールは顔を上げた。


「彼女の話を否定したら、それまで親しくしていた自分のことも聞かれる。君の婚約者なのに何をしていたのかと。俺は、そちらへ話が向くのが嫌だった」

「だから、私が悪いことにした」

「ああ」


 怒鳴ってくれた方が、昔のままで済んだのかもしれない。

 そんなことはしていない、君の勘違いだと言われれば、扉を指して帰ってもらえた。今さらあなたの顔など見たくないと、すらすら言えると思っていた。

 リシャールは目を伏せた。


「婚約を解消する時も、君のしたことが許せないと言った。本当は、俺が見たことを話さずに済ませたかった」


 卓の上には、お客様が持ち込んだ竪琴の包み紐が残っていた。

 結び目をほどいて巻いておかなくては、と考えた。そんな用事を思い出す自分がおかしくて、紐から目を離せなくなった。


「どうして、今日なのですか」


 ようやく尋ねた。


「昨日でも、十年前でもなくて、なぜ今日、謝りに来たの」


 リシャールは懐から封筒を出した。こちらへ差し出しかけて止め、中の手紙を広げて自分の前へ置いた。


「学園が、創立の記念誌を出す。卒業生として、昔の話を書いてくれと頼まれた」


 私は封筒に押された印を見た。学園からの便りにいつも押されていた印だった。


「当時の記録を取り寄せたら、あの件も載っていた。俺の名で出した説明も」

「私が嫉妬して突き落とそうとした、という説明ですか」

「そうだ。君から離れた後、俺がどう立ち直ったかを書いてほしいとまで言われた」


 喉の奥が熱くなった。


「私に謝れば、その続きを書けると思ったの?」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 トマが棚から手を離した。私はそちらを見ず、卓の手紙を見つめた。


「長い年月を経て、互いに分かり合った。今ならあの頃を懐かしく思える。そう書きたくて、ここへ来たのですか」

「それは書かない」

「書く前に、私の暮らしを見に来たのね。幸せそうだったら、少し気が楽になるから」


 リシャールは返事に詰まった。

 すぐ否定しなかったことが、いっそう腹立たしかった。


「元気でいてくれたらとは、思っていた。会えば、俺が少し楽になるかもしれないとも」


 膝の上で、帽子の形が崩れた。


「そんなつもりはなかったとは言えない。けれど、あの説明をまた世に出すことはできない。取り消させてほしい」

「私に聞かなくても、嘘は取り消せます」

「……ああ」


 彼は手紙を畳み直した。

 遅すぎた、と言えば、この人も同じ言葉で頷くだろう。それでも私の二十歳は戻らない。戻してほしいと言うつもりはなかったが、済んだことだと片づけるのも嫌だった。

 トマが水を持ってきた。私の前へ置き、リシャールの分も卓へ置いた。

 私は飲まずに、杯を両手で包んだ。

 冷たかった。


「あの記録には、何と書いてあるのですか。覚えているところを、そのままの言葉で教えてください」


 ◇


 リシャールが覚えていたのは、当時の記録に残る、彼自身が書いた説明だった。

 私はリシャールと彼女の仲を疑い、何度か口論になった。その果てに、階段で彼女の背を押した。彼はそう説明したという。


「口論したことは、あります」


 私は言った。

 彼女はリシャールと出掛けた先の話を、私に聞かせた。彼も、知り合い同士で集まっただけだと言った。私は納得せず、二人とも困らせた。

 その口論まで嘘だったことにする気はない。


「だからといって、私は背を押してはいない。あなたは、そのことを知っていた」

「知っていた」

「怪我をさせようとしたわけでもありません」

「ああ。君が手を振り払った時、彼女が後ろへよろめいた。俺には、そう見えた」


 聞きながら、右の袖口をつまんだ。

 私の手首に、あの時の痕はもうない。毎日糸巻きを回す指には、小さな傷も荒れたところもある。十五年前の手とは、少し形が違う。


「あの部屋で、そう言ってほしかった」


 リシャールは唇を結んだ。


「私だけが何度も説明して、みんなは黙って聞いていました。私が泣くと、話を変えようとしていると言われた。だから泣かずに言わなくてはと思って」


 急に声が出なくなった。

 おかしい。そんな昔の話をしているだけなのに。

 杯の縁が二つに見え、私は目を閉じた。すると涙が頬へ落ちてしまった。


「すまなかった。君にあんなことを言わせたのは、俺だ」


 リシャールが身を乗り出した。

 私は顔の前へ手を上げた。慰められたくなかった。けれど、今聞いた言葉は、たしかに聞きたかったものだった。

 情けなかった。

 あなたのおかげで今は幸せです、と笑って言うつもりだったのに。


 トマが脇に来て、畳んだ手拭いを置いた。

 私は礼を言おうとし、うまく言えずにそれを取った。自分の手拭いは、壁に掛けた上着のポケットにある。分かっているのに取りに立てなかった。

 トマは椅子を持ってきて、少し離れた所へ座った。

 リシャールを睨みつけるでも、私の肩を抱くでもなかった。ただ、組んだ手に力が入っていた。


「少し、待ってください」


 二人に言った。

 水を飲み、目元を押さえた。言いたいことを頭の中で並べても、途中であの部屋の声が割り込んだ。

 もういいだろう。いつまで同じことを言うんだ。

 今は誰もそう言わなかった。私はもう一度水を飲んだ。


「学園へ、訂正を届けてください」


 リシャールが頷いた。


「あの日の説明は、あなたが書いたものです。私が改めて潔白を訴えた、という形にはしないでほしい」

「分かった」

「見ていたことと、あの時は話さなかったことを、あなたの名前で書いてください。私が許したとも、今は気にしていないとも、書かないで」


 彼は懐から紙と筆記具を取り出した。

 仕事の用件を控えるように、私の言葉を書いた。ふと、よく知る字だと思った。昔は、封筒の宛名を見るだけで胸が弾んだのに。


「記念誌にも、君が望むなら……」

「私の暮らしの話は要りません。あなたが苦難を乗り越えたという話も」


 私は一度息を継いだ。


「記念誌にこの件を載せるなら、誤った説明をした事実と、訂正だけにしてください。皆に知ってもらうのは、嫌ではありません」


 リシャールは紙へ目を落とした。

 読まれたくはないだろう。自分の名が、昔の不正を認める文章の下に残るのだから。

 それでも彼は、書き留めた言葉を消さなかった。


「あの場にいた先生や、当時の関係者にも送る。君のご家族にも」

「父にも、お願いします」


 声がまた震えた。

 父は私の話を最後まで聞く前に、相手の家へ詫びた。娘を守るためだった、と後から聞かされても、私はその時の父の背中を忘れられなかった。

 父と何を話すかは、手紙が届いてから考えよう。


「記録の写しと訂正文を、先にこちらへ送ってください。私に関するところは確かめたいので」

「そうする」


 私は手拭いを畳んだ。濡れた面が内側になるよう、角を合わせた。


「謝りに来たことは、分かりました。聞けてよかったとも思っています」


 リシャールがこちらを見た。


「けれど、許したとは、今は言えません」


 彼は口を開きかけ、頷いた。

 そこで、やっと私は隣へ顔を向けられた。


「夫のトマです」


 トマは姿勢を正した。


「この店で一緒に働いています。結婚して、十年になります」


 言った後、私は夫の上着についた削り屑を一つ摘んだ。すぐ落ちそうな所についていて、気になったからだった。

 トマは私の手を見てから、リシャールへ会釈した。


「妻から、昔のことは聞いています」


 それ以上は言わなかった。

 リシャールは椅子から立ち上がった。私の後ろの作業台を見て、店先の棚を見た。


「忙しいところを、すまなかった」


 今度の謝罪には頷けた。

 店の札を戻せば、またお客様が来る。受取帳には二人で引き受けた仕事が並んでいた。

 リシャールは帽子を持ち、戸口で振り返った。何かを言いかけ、結局は頭を下げた。

 鈴が鳴って、扉が閉まった。


 ◇


 トマが客の椅子を片づけた。

 私は店先の札へ手を伸ばし、閉店のままにしておいた。もう、いつもの時刻を過ぎていた。

 卓の上には水の入った杯が二つ残っている。片方には、ほとんど口がつけられていなかった。


「後で、拭くわ」


 そう言うと、トマは持ち上げた椅子を床へ戻した。


「今日は、そのままでもいい」


 彼は私の向かいへ座った。

 昼には老紳士が座り、それからリシャールが座った場所だった。卓の下で私の膝に触れると、トマはいつものように膝を少し斜めに引いた。


「来ると思っていた?」

「いいえ」


 夫は頷いた。

 それ以上は何も尋ねなかった。私は目元をもう一度拭いた。泣いた後は皮膚がつっぱって、笑おうとしても、うまく笑えない。


「驚いたでしょう」

「ああ」

「あなたには、もう済んだ話のようにしていたから」


 結婚する前に話した。

 婚約を解消された理由も、学園を去ったことも。トマはそれを聞いて、それなら店の奥でお茶を飲む時、わざわざ行儀よく座らなくていいと言った。

 それは元の家で身についた癖だから、嫌なことばかりではないのよと、私は説明した。彼は困った顔をして、そうかと言った。

 今より少し若い、あの顔を思い出した。


「本当は、一度会ってみたいと思っていたの」


 トマの指が止まった。


「あの人に?」

「ええ。私が元気でいることを見せて、何とも思っていない顔をしてみたかった。謝ってくれたら、そんなこともありましたねって、笑ってみせるつもりだった」


 私は濡れた手拭いを広げた。

 そんなこともありましたね。

 言えるはずがなかった。


「本当に謝られたら、腹が立つばかりで、泣いてしまったわ」


 トマは椅子の背から体を起こした。


「まだ、あの人が好きなのかと思った」


 私は夫を見た。


「君のあんな顔は、初めて見た。怒っているのは分かったけど、会いたかったとも言われると」


 彼は口を閉じた。

 私はすぐに、違うと言い切ろうとした。けれどあの人の顔を見た時、十五年前に好きだった人だと思った。それまでなかったことにしたら、トマにまた、平気な顔だけ見せることになる。


「昔は、好きだったわ」


 夫の手が卓の縁を押さえた。


「あの人に、ちゃんと好きでいてほしかった。私の話を聞いてほしかった。本当のことを知っていたのに黙っていたと、今日分かって……思っていたより、ずっと悲しかった」


 トマは頷かなかった。

 しばらくして、分かった、とも言わずに息を吐いた。


「あいつが羨ましかった。あれだけ君を傷つけて、まだ、君を泣かせるほどの場所にいるんだと思って」


 私は手拭いを置いた。


「十年一緒にいるのに、と思った。馬鹿な話だけど」

「馬鹿だとは思わない」


 そう返すと、夫は目を上げた。

 私があの人を見返したかったことも、トマがあの人を羨んだことも、聞けばすぐ笑って済ませられる話ではなかった。


「今が幸せなら、あんなふうには泣かないはずだと思っていた。だから、あなたの前で泣いたのも恥ずかしかったの」


 トマは私の手拭いを見た。


「それで笑おうとしてたのか」


 私は頷いた。

 彼は腕を伸ばし、卓越しに私の指へ触れた。握ろうとして、手拭いの濡れた端まで一緒に掴んでしまった。私が端を引き抜く間、二人とも黙っていた。

 今度は指だけを握った。


「うまいことが言えない」

「返事に困る話をしたものね」

「聞かなければよかったとは、思っていない」


 私は彼の手を握り返した。

 指の腹が硬い。手の甲にある古い傷は、結婚して二年目に作ったものだ。夜ごと巻き直した包帯のことや、私が力を入れすぎると大げさに顔をしかめたことを思い出した。


「今夜は、あなたといたいわ」


 トマが私を見た。


「晩ご飯を食べた後も。私が一人で考えたいだろうと思って、仕事へ戻らないでほしい」

「竪琴の続きは、明日にする」


 彼は立ち上がり、私が椅子を引くのを待った。

 奥の居間へ戻る前に、私は店の錠を確かめた。夫は卓の杯を両方持ち、灯りを一つ残して待っていた。


 ◇


 老紳士の竪琴を、約束の土曜にお返しした。

 その一週間後、リシャールから厚い封筒が届いた。


 先に送られてきた記録の写しには、覚悟していたよりも冷たい言葉が並んでいた。私は嫉妬深く、再三の忠告も聞き入れなかったとされていた。

 訂正文には、リシャールが見た二人の動きと、当時は私に非があると説明したことが分けて書かれていた。

 私は文面を確かめ、出来事の順序を一か所直して返した。今の私が何をしているかは、どこにも書かれていなかった。


 今回の封筒には、署名を入れた訂正文と、学園が受け取ったことを示す書面が入っていた。

 学園では訂正文を元の記録に添付して保管し、記念誌には誤った説明を訂正する文章を掲載するという。当時の教師や関係者へ送った日と、その宛先も記されていた。

 父の名があった。

 別便で父から届いた短い手紙は、リシャールの書面を受け取ったという報告から始まっていた。私は最後まで読んで、すぐには返事を書かなかった。

 あの時のことを父と話すには、もう少し時間が要った。


「それ、しまうのか」


 トマが尋ねた。

 私はリシャールの署名をもう一度見た。十五年前にこれがあれば、と考えた。その頃とは字の傾きが少し違っていた。


「ええ。捨てたくはないわ」


 受取帳や領収書の入っていない引き出しを開けた。

 学園の印が見えないように書面を裏返しかけ、そのまま封筒へ戻した。隠すようにしまうこともないのだが、机に出しておきたいわけでもなかった。

 リシャールへの返事には、書面を受け取ったことと、訂正の内容を確かめたことを書いた。

 許したとは書かなかった。


 その夕方、トマは店で売る古い竪琴の修理を終えた。

 閉店してから、私が弦の音を確かめた。夫は向かいの椅子に座り、私が指を止めるたび、どこだ、と顔を上げる。


「まだ何も言っていないでしょう」

「眉が動いた」

「音を聴いているだけよ」


 トマは座り直した。

 私は低い弦から順に鳴らし、気になる音を合わせた。それから短い曲を弾いてみた。まだ習い始めた頃、何度も間違えて、家でも繰り返した曲だった。

 夫が棚から笛を取ってきた。

 途中から入ろうとして、私より一拍早く音を出した。つられて指が止まり、今度はトマだけが吹いていた。


「続けてくれよ」

「あなたが急ぐから」


 彼は笛を膝へ下ろした。少し笑うと、昼間には目立たなかった目尻の皺が寄った。

 私も笑い、竪琴を持ち直した。


「もう一度、初めから」


 今度はトマが頷いた。

 扉の外を荷車が通り、遠ざかっていく音が聞こえた。店の中は、私たちだけだった。

 私は最初の弦に指を掛けた。トマが息を吸うのを待って、二人で音を出した。

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