十五年ぶりに謝りに来た元婚約者へ、夫を紹介します
「落としたのは、孫なんだがね」
お客様は包みを開く前にそうおっしゃった。
私が受取帳を広げると、奥の作業台から夫が顔を上げた。
「前にも、そう聞いた気がします」
「前は私だ。今回は本当に孫なんだ」
小さな竪琴の枠に割れ目が入っていた。トマは布の上へ横たえ、持ち込んだ老紳士と一緒に覗き込んだ。私は受取帳の端へ、傷の位置を描きつけた。
修理代の見積もりを聞くと、お客様は一度ひげを撫で、それで頼むと頷いた。
「来週の土曜には、お渡しできます」
「孫に弾かせてやりたくてね」
「では、私も音を確かめておきますね」
老紳士は帰り際に戸口を振り返り、孫はまだ五歳で、持たせるには早かったと付け足した。
トマは扉が閉まるのを待ち、こちらを見た。
「きっと、本人も弾いたんだ」
「修理の内容は、それで変わらないでしょう」
「いや。あの人は自分で弾く時、いつも細い弦を強く引っ張る」
受取帳へ注意を書き加えると、夫は満足そうに仕事へ戻った。
店の表では楽器や弦を売り、奥で修理をする。私は調律を引き受け、持ち込めない楽器ならお屋敷へも出向く。結婚して十年、この狭い店で、お互いの動く場所を少しずつ決めてきた。
トマの足元だけは、いつまでたっても削り屑が多い。
「お客様の椅子まで積もらせないでね」
「今やろうと思っていた」
彼がいつもの返事をしたところで、扉の鈴が鳴った。
閉店前に掃くつもりだった床を、磨き上げた靴が踏んだ。
顔を見るより先に、よく知っている立ち方だと思った。右足をわずかに引き、相手から声をかけられるのを待つ。
「レナ」
名前の呼び方も同じだった。
リシャール。十五年前、私との婚約を解消した人。
髪の生え際は少し後退し、目の脇に細かな皺があった。けれど、私を見つけて唇を開く顔は、二十一歳だった頃と重なった。
いらっしゃいませと言おうとして、喉が詰まった。
腹が立った。
私はもう三十五だ。この人の顔を見ただけで、声も出せなくなるなんて。
「ここだと、聞いて」
「楽器の御用ですか」
ようやく言うと、彼は手にした帽子を見た。楽器も、その包みも持っていなかった。
「謝りに来た。学園でのことを」
奥で道具を置く音がした。
トマは作業台を離れた。私の隣までは来ず、棚の端に手を掛けて立っていた。
「十五年も前のことです」
「ああ」
「今さら、何を」
「君は、彼女を突き落とそうとしたんじゃなかった」
受取帳を閉じようとした手が止まった。
「知っていた。俺は見ていたんだ」
学園の階段の踊り場で、別の令嬢に手首を掴まれた。
離してほしくて腕を振った。彼女は後ろへよろめき、階段を転げ落ちた。私は伸ばした手を宙に残したまま、下から響く悲鳴を聞いていた。
その出来事は、婚約者を奪われるのを恐れた私の嫉妬が原因だとされた。
彼女と親しくしていたリシャールは、階段脇にいた。その場でも、後で私を呼び出した部屋でも、私と目を合わせなかった。
手を払っただけだと何度言っても、まだ認めないのかと言われた。
父が頭を下げ、婚約は解消された。私は学園を去った。
「見ていたのに、黙っていたのですか」
リシャールは頷いた。
私は受取帳を閉じた。紙の間に挟んだ指が痛くて、引き抜いてから、もう一度表紙を押さえた。
「椅子を出そうか」
トマが尋ねた。
私はすぐには頷けなかった。客に座ってもらえば、その人の用が済むまで話を聞くことになる。
けれど、聞かなかったことにもできなかった。
◇
トマは椅子を出す前に、私の返事を待った。
私は頷き、店先の札を裏返した。まだ閉める時刻ではなかったが、途中で別のお客様の応対をする自信はなかった。
夫は卓の向かいへ椅子を置き、私のためにも一脚引いた。
「奥にいようか」
「ここにいて」
小声で頼むと、彼は棚の前へ戻った。
リシャールは腰を下ろし、帽子を膝に置いた。縁を何度も指で押しては、手を離す。
「何を見たのか、聞かせてください」
「彼女が君の手首を掴むところから」
私は両手を膝の上に置いた。
掴まれたのは右手だった。今でも、手首に指を当てれば、掴まれた位置が分かる。
「君は彼女の背を押していない。前にいた彼女の手を振り払った。俺の所からは、二人の腕が見えていた」
「あの時、そう言えたのですね」
彼は答えず、帽子を握った。
「すまなかった」
「私が何をしたか、あなたにも聞かれました。覚えていますか。後で呼び出された部屋で」
「覚えている」
「私が話す前に、なぜあんなことをしたんだと言いました」
リシャールの顎が下がった。
私はあの部屋で、最初から説明していいのか、それとも先に否定すべきなのか分からなくなった。何から話しても、言い訳だと言いたげな顔をされる。
この人だけは分かってくれると思っていた。
けれど、分かっていたのだ。
「彼女が泣いて、君に押されたと言った。みんなも、そのつもりで話し始めた」
「ええ」
「あの頃は、俺も若くて。彼女の家と、うちの父との付き合いもあったから……」
彼は言葉を切った。
私は待った。続きを助ける気はなかった。
「いや。父には、俺が見たことを話していない」
リシャールは顔を上げた。
「彼女の話を否定したら、それまで親しくしていた自分のことも聞かれる。君の婚約者なのに何をしていたのかと。俺は、そちらへ話が向くのが嫌だった」
「だから、私が悪いことにした」
「ああ」
怒鳴ってくれた方が、昔のままで済んだのかもしれない。
そんなことはしていない、君の勘違いだと言われれば、扉を指して帰ってもらえた。今さらあなたの顔など見たくないと、すらすら言えると思っていた。
リシャールは目を伏せた。
「婚約を解消する時も、君のしたことが許せないと言った。本当は、俺が見たことを話さずに済ませたかった」
卓の上には、お客様が持ち込んだ竪琴の包み紐が残っていた。
結び目をほどいて巻いておかなくては、と考えた。そんな用事を思い出す自分がおかしくて、紐から目を離せなくなった。
「どうして、今日なのですか」
ようやく尋ねた。
「昨日でも、十年前でもなくて、なぜ今日、謝りに来たの」
リシャールは懐から封筒を出した。こちらへ差し出しかけて止め、中の手紙を広げて自分の前へ置いた。
「学園が、創立の記念誌を出す。卒業生として、昔の話を書いてくれと頼まれた」
私は封筒に押された印を見た。学園からの便りにいつも押されていた印だった。
「当時の記録を取り寄せたら、あの件も載っていた。俺の名で出した説明も」
「私が嫉妬して突き落とそうとした、という説明ですか」
「そうだ。君から離れた後、俺がどう立ち直ったかを書いてほしいとまで言われた」
喉の奥が熱くなった。
「私に謝れば、その続きを書けると思ったの?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
トマが棚から手を離した。私はそちらを見ず、卓の手紙を見つめた。
「長い年月を経て、互いに分かり合った。今ならあの頃を懐かしく思える。そう書きたくて、ここへ来たのですか」
「それは書かない」
「書く前に、私の暮らしを見に来たのね。幸せそうだったら、少し気が楽になるから」
リシャールは返事に詰まった。
すぐ否定しなかったことが、いっそう腹立たしかった。
「元気でいてくれたらとは、思っていた。会えば、俺が少し楽になるかもしれないとも」
膝の上で、帽子の形が崩れた。
「そんなつもりはなかったとは言えない。けれど、あの説明をまた世に出すことはできない。取り消させてほしい」
「私に聞かなくても、嘘は取り消せます」
「……ああ」
彼は手紙を畳み直した。
遅すぎた、と言えば、この人も同じ言葉で頷くだろう。それでも私の二十歳は戻らない。戻してほしいと言うつもりはなかったが、済んだことだと片づけるのも嫌だった。
トマが水を持ってきた。私の前へ置き、リシャールの分も卓へ置いた。
私は飲まずに、杯を両手で包んだ。
冷たかった。
「あの記録には、何と書いてあるのですか。覚えているところを、そのままの言葉で教えてください」
◇
リシャールが覚えていたのは、当時の記録に残る、彼自身が書いた説明だった。
私はリシャールと彼女の仲を疑い、何度か口論になった。その果てに、階段で彼女の背を押した。彼はそう説明したという。
「口論したことは、あります」
私は言った。
彼女はリシャールと出掛けた先の話を、私に聞かせた。彼も、知り合い同士で集まっただけだと言った。私は納得せず、二人とも困らせた。
その口論まで嘘だったことにする気はない。
「だからといって、私は背を押してはいない。あなたは、そのことを知っていた」
「知っていた」
「怪我をさせようとしたわけでもありません」
「ああ。君が手を振り払った時、彼女が後ろへよろめいた。俺には、そう見えた」
聞きながら、右の袖口をつまんだ。
私の手首に、あの時の痕はもうない。毎日糸巻きを回す指には、小さな傷も荒れたところもある。十五年前の手とは、少し形が違う。
「あの部屋で、そう言ってほしかった」
リシャールは唇を結んだ。
「私だけが何度も説明して、みんなは黙って聞いていました。私が泣くと、話を変えようとしていると言われた。だから泣かずに言わなくてはと思って」
急に声が出なくなった。
おかしい。そんな昔の話をしているだけなのに。
杯の縁が二つに見え、私は目を閉じた。すると涙が頬へ落ちてしまった。
「すまなかった。君にあんなことを言わせたのは、俺だ」
リシャールが身を乗り出した。
私は顔の前へ手を上げた。慰められたくなかった。けれど、今聞いた言葉は、たしかに聞きたかったものだった。
情けなかった。
あなたのおかげで今は幸せです、と笑って言うつもりだったのに。
トマが脇に来て、畳んだ手拭いを置いた。
私は礼を言おうとし、うまく言えずにそれを取った。自分の手拭いは、壁に掛けた上着のポケットにある。分かっているのに取りに立てなかった。
トマは椅子を持ってきて、少し離れた所へ座った。
リシャールを睨みつけるでも、私の肩を抱くでもなかった。ただ、組んだ手に力が入っていた。
「少し、待ってください」
二人に言った。
水を飲み、目元を押さえた。言いたいことを頭の中で並べても、途中であの部屋の声が割り込んだ。
もういいだろう。いつまで同じことを言うんだ。
今は誰もそう言わなかった。私はもう一度水を飲んだ。
「学園へ、訂正を届けてください」
リシャールが頷いた。
「あの日の説明は、あなたが書いたものです。私が改めて潔白を訴えた、という形にはしないでほしい」
「分かった」
「見ていたことと、あの時は話さなかったことを、あなたの名前で書いてください。私が許したとも、今は気にしていないとも、書かないで」
彼は懐から紙と筆記具を取り出した。
仕事の用件を控えるように、私の言葉を書いた。ふと、よく知る字だと思った。昔は、封筒の宛名を見るだけで胸が弾んだのに。
「記念誌にも、君が望むなら……」
「私の暮らしの話は要りません。あなたが苦難を乗り越えたという話も」
私は一度息を継いだ。
「記念誌にこの件を載せるなら、誤った説明をした事実と、訂正だけにしてください。皆に知ってもらうのは、嫌ではありません」
リシャールは紙へ目を落とした。
読まれたくはないだろう。自分の名が、昔の不正を認める文章の下に残るのだから。
それでも彼は、書き留めた言葉を消さなかった。
「あの場にいた先生や、当時の関係者にも送る。君のご家族にも」
「父にも、お願いします」
声がまた震えた。
父は私の話を最後まで聞く前に、相手の家へ詫びた。娘を守るためだった、と後から聞かされても、私はその時の父の背中を忘れられなかった。
父と何を話すかは、手紙が届いてから考えよう。
「記録の写しと訂正文を、先にこちらへ送ってください。私に関するところは確かめたいので」
「そうする」
私は手拭いを畳んだ。濡れた面が内側になるよう、角を合わせた。
「謝りに来たことは、分かりました。聞けてよかったとも思っています」
リシャールがこちらを見た。
「けれど、許したとは、今は言えません」
彼は口を開きかけ、頷いた。
そこで、やっと私は隣へ顔を向けられた。
「夫のトマです」
トマは姿勢を正した。
「この店で一緒に働いています。結婚して、十年になります」
言った後、私は夫の上着についた削り屑を一つ摘んだ。すぐ落ちそうな所についていて、気になったからだった。
トマは私の手を見てから、リシャールへ会釈した。
「妻から、昔のことは聞いています」
それ以上は言わなかった。
リシャールは椅子から立ち上がった。私の後ろの作業台を見て、店先の棚を見た。
「忙しいところを、すまなかった」
今度の謝罪には頷けた。
店の札を戻せば、またお客様が来る。受取帳には二人で引き受けた仕事が並んでいた。
リシャールは帽子を持ち、戸口で振り返った。何かを言いかけ、結局は頭を下げた。
鈴が鳴って、扉が閉まった。
◇
トマが客の椅子を片づけた。
私は店先の札へ手を伸ばし、閉店のままにしておいた。もう、いつもの時刻を過ぎていた。
卓の上には水の入った杯が二つ残っている。片方には、ほとんど口がつけられていなかった。
「後で、拭くわ」
そう言うと、トマは持ち上げた椅子を床へ戻した。
「今日は、そのままでもいい」
彼は私の向かいへ座った。
昼には老紳士が座り、それからリシャールが座った場所だった。卓の下で私の膝に触れると、トマはいつものように膝を少し斜めに引いた。
「来ると思っていた?」
「いいえ」
夫は頷いた。
それ以上は何も尋ねなかった。私は目元をもう一度拭いた。泣いた後は皮膚がつっぱって、笑おうとしても、うまく笑えない。
「驚いたでしょう」
「ああ」
「あなたには、もう済んだ話のようにしていたから」
結婚する前に話した。
婚約を解消された理由も、学園を去ったことも。トマはそれを聞いて、それなら店の奥でお茶を飲む時、わざわざ行儀よく座らなくていいと言った。
それは元の家で身についた癖だから、嫌なことばかりではないのよと、私は説明した。彼は困った顔をして、そうかと言った。
今より少し若い、あの顔を思い出した。
「本当は、一度会ってみたいと思っていたの」
トマの指が止まった。
「あの人に?」
「ええ。私が元気でいることを見せて、何とも思っていない顔をしてみたかった。謝ってくれたら、そんなこともありましたねって、笑ってみせるつもりだった」
私は濡れた手拭いを広げた。
そんなこともありましたね。
言えるはずがなかった。
「本当に謝られたら、腹が立つばかりで、泣いてしまったわ」
トマは椅子の背から体を起こした。
「まだ、あの人が好きなのかと思った」
私は夫を見た。
「君のあんな顔は、初めて見た。怒っているのは分かったけど、会いたかったとも言われると」
彼は口を閉じた。
私はすぐに、違うと言い切ろうとした。けれどあの人の顔を見た時、十五年前に好きだった人だと思った。それまでなかったことにしたら、トマにまた、平気な顔だけ見せることになる。
「昔は、好きだったわ」
夫の手が卓の縁を押さえた。
「あの人に、ちゃんと好きでいてほしかった。私の話を聞いてほしかった。本当のことを知っていたのに黙っていたと、今日分かって……思っていたより、ずっと悲しかった」
トマは頷かなかった。
しばらくして、分かった、とも言わずに息を吐いた。
「あいつが羨ましかった。あれだけ君を傷つけて、まだ、君を泣かせるほどの場所にいるんだと思って」
私は手拭いを置いた。
「十年一緒にいるのに、と思った。馬鹿な話だけど」
「馬鹿だとは思わない」
そう返すと、夫は目を上げた。
私があの人を見返したかったことも、トマがあの人を羨んだことも、聞けばすぐ笑って済ませられる話ではなかった。
「今が幸せなら、あんなふうには泣かないはずだと思っていた。だから、あなたの前で泣いたのも恥ずかしかったの」
トマは私の手拭いを見た。
「それで笑おうとしてたのか」
私は頷いた。
彼は腕を伸ばし、卓越しに私の指へ触れた。握ろうとして、手拭いの濡れた端まで一緒に掴んでしまった。私が端を引き抜く間、二人とも黙っていた。
今度は指だけを握った。
「うまいことが言えない」
「返事に困る話をしたものね」
「聞かなければよかったとは、思っていない」
私は彼の手を握り返した。
指の腹が硬い。手の甲にある古い傷は、結婚して二年目に作ったものだ。夜ごと巻き直した包帯のことや、私が力を入れすぎると大げさに顔をしかめたことを思い出した。
「今夜は、あなたといたいわ」
トマが私を見た。
「晩ご飯を食べた後も。私が一人で考えたいだろうと思って、仕事へ戻らないでほしい」
「竪琴の続きは、明日にする」
彼は立ち上がり、私が椅子を引くのを待った。
奥の居間へ戻る前に、私は店の錠を確かめた。夫は卓の杯を両方持ち、灯りを一つ残して待っていた。
◇
老紳士の竪琴を、約束の土曜にお返しした。
その一週間後、リシャールから厚い封筒が届いた。
先に送られてきた記録の写しには、覚悟していたよりも冷たい言葉が並んでいた。私は嫉妬深く、再三の忠告も聞き入れなかったとされていた。
訂正文には、リシャールが見た二人の動きと、当時は私に非があると説明したことが分けて書かれていた。
私は文面を確かめ、出来事の順序を一か所直して返した。今の私が何をしているかは、どこにも書かれていなかった。
今回の封筒には、署名を入れた訂正文と、学園が受け取ったことを示す書面が入っていた。
学園では訂正文を元の記録に添付して保管し、記念誌には誤った説明を訂正する文章を掲載するという。当時の教師や関係者へ送った日と、その宛先も記されていた。
父の名があった。
別便で父から届いた短い手紙は、リシャールの書面を受け取ったという報告から始まっていた。私は最後まで読んで、すぐには返事を書かなかった。
あの時のことを父と話すには、もう少し時間が要った。
「それ、しまうのか」
トマが尋ねた。
私はリシャールの署名をもう一度見た。十五年前にこれがあれば、と考えた。その頃とは字の傾きが少し違っていた。
「ええ。捨てたくはないわ」
受取帳や領収書の入っていない引き出しを開けた。
学園の印が見えないように書面を裏返しかけ、そのまま封筒へ戻した。隠すようにしまうこともないのだが、机に出しておきたいわけでもなかった。
リシャールへの返事には、書面を受け取ったことと、訂正の内容を確かめたことを書いた。
許したとは書かなかった。
その夕方、トマは店で売る古い竪琴の修理を終えた。
閉店してから、私が弦の音を確かめた。夫は向かいの椅子に座り、私が指を止めるたび、どこだ、と顔を上げる。
「まだ何も言っていないでしょう」
「眉が動いた」
「音を聴いているだけよ」
トマは座り直した。
私は低い弦から順に鳴らし、気になる音を合わせた。それから短い曲を弾いてみた。まだ習い始めた頃、何度も間違えて、家でも繰り返した曲だった。
夫が棚から笛を取ってきた。
途中から入ろうとして、私より一拍早く音を出した。つられて指が止まり、今度はトマだけが吹いていた。
「続けてくれよ」
「あなたが急ぐから」
彼は笛を膝へ下ろした。少し笑うと、昼間には目立たなかった目尻の皺が寄った。
私も笑い、竪琴を持ち直した。
「もう一度、初めから」
今度はトマが頷いた。
扉の外を荷車が通り、遠ざかっていく音が聞こえた。店の中は、私たちだけだった。
私は最初の弦に指を掛けた。トマが息を吸うのを待って、二人で音を出した。




