記憶
記憶とは曖昧な物だ
こんな事があった、あんな事があっただとか
でもふと考えるとこれはどこかで見た事であって自分の記憶かどうか定かではない部分がある
こんな経験をしたんだという物でさえ、印象深く残っているという物で自分の物ではないかもしれない。
大きな経験はそう上書きのような状態にならないだろうが、小さな経験はそうもいかない。
例えば、山に登ったが事実だとしてそこで綺麗な川を見た経験があるとしよう。
そうして、人から山で大きく綺麗な山桜を見て具体的にこう綺麗だったとかそういう話を聞いたとしよう。
何年も経てば気づけば自分はあの日山に登り、綺麗な川を見て、山桜を見たんだ、あれは立派だった今度見に行ってみるといいという話を人にしたとする。
そうすると行った人はあの山に行き、綺麗な川を見たが山桜は無かったと話す。
そうなるとよくよく思い出すが、詳細まで聞いていた山桜がどうもあった気がしてならず、整合性を求め結果何かがあって切られた、無くなった、折れた、倒れた、と偽りの経験になる。
事実で無いのかどうなのか写真を多く撮っていても、思わずあの時は疲れていて撮り忘れただとか、バッテリーが無かっただとかそう考えてしまえば、元からなかったはずの物が実際はあったんじゃないかと思える。
記憶や経験でさえ、時と共に怪しくなる。
嘘をついている自覚無く、嘘となる。
しかしそれは悪意がある訳でも無ければ嫌がらせだとかではない。
ただただ美しい景色があったのだと、話したかった見てほしかっただけである。
記憶が曖昧になってしまう事は悪い事もあるだろうが、何も全て悪意があった訳ではない。
面白い事にその無いはずの山桜が偶然後からその山に生えたなら、ほら!あったぞ!と大きさ関係なく言ってしまうのである。
そして、昔からあるにしては小さすぎると言ってしまえば、折れてきっと生えたんだ!だとか理由を探し与えてしまう。
人は今を生きている、過去には生きていないのだから今を見てそれっぽい理由を考えてしまう。
記憶が事実かどうか確かめるすべが無い時どう受け入れるべきだろうか?
私は嘘の証明、事実の証明どちらも正確か否かなど最善を尽くして不明だったのならば、妥協点を探すというのが今の答えである。
あなたはどう考えるだろう?
さて、私のこのエッセイはあなたの記憶に刻まれたでしょうか?
数年後あるいは数十年後に、ふと記憶の話をしたのなら、その時の例え話に山桜が登場するでしょうか?ご拝読いただき、ありがとうございました。




