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Incubus  作者: 英 李生
1/2

01 Tyler Grant



 フロントのベルがけたたましく鳴り響く。いら立ちのこもる連打音に、デミアン・ブレイクは溜息を呑み込みながら顔を上げた。安モーテルのフロントデスクに腰を下ろして、まもなく二時間──時計の針はとうに深夜を回っている。目の前の客が苛立ちを隠そうとしないのも無理はない。


「まったく、うるさくって眠れやしない。真上の部屋からずっとドタバタ音がしてるんだ。おまけに声も筒抜けときた」


 デミアンはまぶたを重たく瞬かせる。


 二階の角部屋──誰が泊まっているかなんて、火を見るよりも明らかだった。


 タイラー・グラント。またの名をインキュバス。


 週に幾度となくやってきては夜ごとに違う相手を連れ込み、朝になれば酒と煙草の匂いをまとわせ、気怠げな面持ちでモーテルを後にする常連客。

 手を出した相手をすべからく熱に浮かせておきながら、誰ひとり心には立ち入らせないと聞く。まさしく悪魔だ。その名を冠するにふさわしく、貞操観念も情もあったものじゃない。デミアンにとって、最も軽蔑に値する人物の一人だった。


「二一五号室ですね」

「勘弁してくれ。ここは売春宿じゃあないだろう」


 とげのある物言いに、デミアンは小さく息を吐く。彼の言うことはもっともだ。だが、客の素性に関わらず、金の支払いさえあれば鍵を渡し、面倒が起きれば朝まで持ち越さないよう処理をする。それがこのモーテルのやり方であり、デミアンの仕事だった。


「すぐに対応します。ご不便をおかけしました」


 うわべだけの丁寧な言葉を返し、マスターキーの束をポケットにねじ込んで、かび臭いフロントを離れる。階段へと向かう足取りは重かった。夜風に震える身の奥で、漠然としたざわめきが広がっていく。


 タイラーに会うのはこれで何度目だろう。こちらは店番で、あちらは客。それ以上の接点はない。けれど彼がモーテルを訪れるたび、明白な嫌悪感と、説明のつかない引力とが、同時に心をかき乱すのだ。


 二一五号室の前に立つと、中から確かに乱暴な物音が漏れていた。叩きつけるような呻き声も。デミアンは深く息を吐き、ノックした。


「モーテルの者です。静かにしていただけますか」


 一瞬、気配が途切れた。ドアノブがきしむ。開いた隙間から現れたタイラーの顔に、デミアンはぎょっとした。頬を赤く染め上げているのは、どう見たって殴打の痕だ。そのうえ、口角には血が滲み、首にはくっきりと指の形が残っている。


「悪いな。騒がしかったか?」


 タイラーの声は掠れていたが、口ぶりは軽快だった。背後には床に崩れた男の影──ぴくりとも動かない。酒と汗と血のにおいが混ざり、空気がねっとりと肌にまとわりつく。こんな状況で薄ら笑いを浮かべていられるなんて、正気じゃない。


 タイラーの視線は一瞬だけ床の男に落ち、またすぐにデミアンを捉えた。


「死んじゃいないよ」


 デミアンは反射的に後ずさった。底知れぬ闇のようにどこまでも黒い瞳だった。心臓がいやな鼓動を刻む。居心地の悪さを誤魔化すように、低く吐き捨てた。


「次は出禁にする。忘れるな」


 踵を返そうとした瞬間、手首を掴まれた。呼吸が止まる。


「ちょっと付き合えよ」ぞっとするほど魅惑的な顔でタイラーは笑んでみせた。「こいつと二人きりにするのか?」


 抵抗むなしく中に引き込まれ、ベッドの端に座らされる。

 最悪の展開を想像して身を固くしたデミアンであったが、そんな彼をよそに、タイラーは壁にもたれると、煙草にそっと火を灯した。


 形のいい唇から吐き出された煙が、ゆったりと天井に流れていく。視線はその動きを追いながら、気づけばタイラー自身に吸い寄せられていた。

 彼は美しかった。ブルネットの長い前髪の下に覗く額から煙草を持つ指先に至るまで、彼は神の申し子なのではと、ばかげた考えを抱かずにはいられないほどに。


「吸うか?」


 デミアンは慌てて目を逸らし、しかめ面で首を横に振った。


「遠慮する」


 顔を背ける。部屋に充満した煙の向こう、力なく床に横たわる男の姿に焦点が合う。デミアンの視線の意図を汲んだように、タイラーが唇の端で薄く笑った。


「キスを拒んだ結果がこれだよ」

「は?」


 間の抜けた声が出た。


「ファーストキスは、だれかを愛することができたらって決めてる。そう言ったら、俺はおまえの特別だと思ってたとかなんとか、わけのわからないことを言って、手をあげてきやがった」

「からかったのか?」


 もっともな疑問だった。それ以上のことをしているのだ。キスの一つや二つくらい、なんでもないだろうに。


「まさか」タイラーは肩をすくめ、煙草の先を軽く弾いた。「本気だよ。誰も信じちゃくれないけどな」


 それだけ言って目を伏せたタイラーの横顔に、人間の輪郭を見た気がして、妙に胸の奥がそわついた。


「こういうこと、よくあるのか」


 思わず問いがこぼれた。

 悪魔の名を冠する彼ではなく、タイラー・グラントという青年の奥に宿る体温を、確かめたかったのかもしれない。


「少なくないね」


 だが、吐き出された煙とともに返る言葉は、驚くほど軽かった。


 デミアンは眉間に皺を寄せ、口をついた。


「自業自得だな。火遊びはやめろって、()()からのお告げさ」


 神様だって。自分に口から飛び出た言葉に、吐き気が込み上げた。信じてもいない神が、まだ舌の奥で息をしている。


「あんたが言うんだ、それ」


 タイラーの口角が、わずかに吊り上がった。


「え?」

「いつだったかな。男と一緒にいるのを見た。ブロンドで、背の高い」


 デミアンの胸がすっと冷えた。否定の言葉を探すが、タイラーの追撃は容赦ない。


「俺が罪を犯してるってんなら、あんたも同じだ」


 喉が塞がる。言い返す言葉はなにも浮かばない。ただ見据えられる。黒い瞳には、虚勢も軽蔑も通じない。置き捨てたはずの十字架の感触がよみがえり、気づけば胸元をくしゃりと握りしめていた。


「あんたのことが気に入った。あのブロンド野郎に愛想を尽かしたら電話をくれよ」


 タイラーはベッド脇のメモ用紙を破り取り、さらさらとなにかを書きつけると、それをデミアンのポケットに無遠慮に押し込んだ。胸の奥で火花が弾ける。


「二度とここへ来るな!」


 デミアンは怒声を残し、乱暴にドアを閉めた。


 からかわれたのだ。少しでも同情した自分がばかみたいだった。

 廊下の冷気が全身に刺さる。なのに、胸の奥は焼けつくように熱い。手首には、まだタイラーの指先の感触が残っていた。



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