86. 海か山か、それが問題だ!
「ねえ、チューしてよ」
楓の声は、そよ風に乗って俺の耳に届いた。一瞬、心臓が止まったかと思った。いや、止まったどころか、猛烈な勢いでドクン、ドクンと鳴り響き、全身の血が一気に顔に集中するのを感じた。目の前には、普段のおっとりとした雰囲気とはまるで違う、少し悪戯っぽい光を宿した楓の瞳。その瞳が、俺を真っ直ぐに見つめている。
「え?」
間の抜けた声が出た。俺の脳内では、警報が鳴り響き、同時に緊急会議が開催されていた。「おいおいおい、マジか?」「これは夢か?」「いや、現実だ、現実!」「どうする、圭吾!?」
楓は、そんな俺の狼狽を面白がるように、ふふっと小さく笑った。その笑い声が、なぜかやけに色っぽく聞こえる。山の頂上、澄み切った青空の下、心地よい風が吹き抜ける草原。二人きり。このシチュエーションが、俺の理性を揺さぶり始める。
「たまには、いいじゃん。変わったことしても。チュー」
変わったこと?いやいや、これは「変わったこと」の範疇を遥かに超えているだろう!俺は既婚者、楓だって既婚者。しかも、よりによって俺の妻と、楓の夫は、幼馴染で親友だ。この状況、まるで昼ドラじゃないか。だが、楓の言葉には、妙な説得力があった。まるで、この状況が、ごく自然なことであるかのように。
彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。視線が絡み合い、俺の視界は楓の顔でいっぱいになった。透き通るような白い肌、少し上気した頬、そして、ほんのり赤く色づいた唇。唇が、触れる。
その瞬間、俺の脳裏をよぎったのは、妻の桜の笑顔だった。そして、親友である大樹の、どこかのんびりとした顔。ああ、俺はなんてことを……。
俺の心臓は、まるでマラソンを完走したかのように激しく鼓動し、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。このまま、この甘美な快楽に身を委ねてしまってもいいのだろうか?理性と本能が、激しくぶつかり合う。
その時、一陣の風が吹き抜け、楓の髪が俺の頬をくすぐった。その瞬間、俺の脳裏に、なぜか桜の「もう、圭吾ったら!」と拗ねた顔が浮かび、同時に、大樹の「いやー、困ったもんだね」という間の抜けた声が聞こえた気がした。
「はっ!」
俺は、我に返った。危ない、危ないぞ圭吾!これはラブコメだ、昼ドラじゃない!
楓は、俺の唇からゆっくりと離れ、満足そうに微笑んだ。その笑顔は、まるで全てを見透かしているかのようで、俺は思わず目を逸らした。
「ふふっ、圭吾くん、顔真っ赤だよ」
くそっ、見抜かれている!
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「やっぱ海でしょ!」
「いいや山だね!」
また始まった、いつもの夫婦喧嘩。今日も日帰り旅行の行き先を巡って、桜と意見がぶつかっていた。リビングのソファにそれぞれ陣取り、互いに一歩も譲らない。まるで、どちらが先に瞬きをするかを競っているかのようだ。
海か山か、どちらも譲れない。いや、正確には、俺が山で、桜が海だ。食事の好みも同じだ。俺はお肉が食べたい、桜はお魚が食べたい。こんな些細なことで、なぜこうも意見が食い違うのか。若い頃は、どちらかが折れてすぐに仲直りしていた。桜が「圭吾の好きなものでいいよ」と可愛く言ってくれたり、俺が「桜が行きたいところに行こう」と男気を見せたり。ああ、あの頃は可愛かったな、桜も俺も。
しかし、歳を取るにつれ、二人とも意地を張ることが多くなった。頭が固くなってしまったのか、それとも夫婦としての年季が入った証拠なのか。しょうもないことでケンカすることが増えていた。
「だって、海は開放感があるじゃない!潮風を浴びて、波の音を聞いて、心も体もリフレッシュできるのよ!」桜は熱弁する。
「開放感なら山だって負けてないだろ!澄んだ空気、鳥のさえずり、壮大な景色!心が洗われるってこのことだ!」俺も負けじと反論する。
結局、この議論は平行線を辿り、結論が出ないまま、その日の夜は更けていった。
俺の名前は圭吾。今日はいつもの仲間との飲み会だ。俺たち4人は元々幼なじみで、俺、妻の桜、友達の大樹、楓の4人で小学生の頃からいつも一緒に遊んでいた。まるで、少年漫画の主人公とその仲間たちだ。定期的にどちらかの家に集まっては、くだらない話で盛り上がったり、時には真剣な悩みを打ち明けたり、そしてもちろん、愚痴を言い合うのが恒例だった。
今夜の会場は、大樹と楓の家だ。玄関を開けると、香ばしい匂いが漂ってくる。楓が腕を振るってくれたのだろう。桜は料理が苦手なので、楓の手料理はいつも俺たちの胃袋を掴んで離さない。
「お邪魔しまーす!」桜が元気よく声を上げる。
「いらっしゃーい!」楓がにこやかに迎えてくれる。
リビングに入ると、すでに大樹がビール片手にくつろいでいた。
「おう、圭吾、桜!待ってたぜ!」
「大樹、もう飲んでるんだなー」俺が言うと、大樹は「家なんだからいいだろ!」と笑う。
テーブルには、楓が作ったであろう美味しそうな料理が並んでいる。唐揚げ、サラダ、煮物、そしてなぜか、巨大なプリン。
「うわー!楓ちゃん、いつもありがとう!」桜が目を輝かせる。
「いいのいいの。みんなで食べるのが一番美味しいからね」楓は謙遜するが、その顔はどこか誇らしげだ。
ビールで乾杯し、食事をしながら、いつものように愚痴大会が始まった。今回の愚痴は、今度の日帰り旅行で海と山で揉めた話だ。俺が夫婦喧嘩の一部始終を話すと、大樹は「うちもだよ、うちはお互いが決められないからなかなか決まらなくて」と笑っていた。
「そうなの?」桜が驚く。
「そうなんだよ。俺が『どこ行きたい?』って聞くと、楓が『大樹くんの好きなところでいいよ』って言うだろ?そしたら俺も『いや、楓の行きたいところがいいよ』って。それで、結局何も決まらないんだよな、楓?」
大樹が楓の方を見ると、かえでは「うん、そうだねー」とおっとり頷く。
俺たち夫婦は意見を出し合ってぶつかるが、大樹たち夫婦は優柔不断でなかなか決められずにケンカになるようだ。性格も対照的だ。俺と桜は自己主張が強いが、大樹と楓は相手に合わせるタイプ。まさに、凸凹コンビとふわふわコンビといったところか。
「でもさ、何も決まらないのも困るよね」桜が言う。
「そうなんだよ!結局、いつも俺が適当に決めて、後から『あれ、本当にここが良かったのかな?』って不安になるんだよな」大樹が嘆く。
「じゃあさ、多数決で決めよ!」桜が突然、名案を思いついたかのように提案した。
「お!それいいな!」俺も賛成する。
「せーの!」
「海!」
「山!」
意見が割れた。俺と楓が山、桜と大樹が海。まさかの2対2。
「あぁ、これじゃ多数決になんないじゃん。どうする?」桜が肩を落とす。
その時、珍しく楓が提案した。「んじゃ、バラバラで行く?」
その一言に、場が静まり返る。バラバラ?夫婦が?幼馴染とはいえ、男女で?
「え!良いじゃんそれ!」桜がそれに乗っかる。
「マジかよ、桜!」俺は思わず叫んだ。
「だって、圭吾は山に行きたいんでしょ?私は海に行きたいし。大樹くんも海だもんね?楓ちゃんは山でしょ?だったら、それぞれ行きたいところに行けばいいじゃない!」
桜の目は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラ輝いている。
「でもさ、夫婦でバラバラって、なんか変じゃないか?」大樹が心配そうに言う。
「何言ってんのよ!別に浮気するわけじゃないんだから!たまにはこういうのも新鮮でしょ!」桜は聞く耳を持たない。
結局、桜の押しに負け、バラバラで日帰り旅行に行くことになった。俺は楓と山へ、桜は大樹と海へ。なんだか、不思議な気分だ。
旅行の数日前から、桜は楽しげに準備を始めた。リビングには、カラフルなシュノーケリングセットや、フリル付きの可愛らしい水着が広げられている。
「ねえ、圭吾!こんなのどう?この水着、私に似合うかな?」
桜は、鏡の前で水着を合わせながら、楽しそうに問いかけてくる。その姿を見て、俺は微笑んだ。正直、ちょっと寂しい気持ちもあったが、彼女が楽しそうで何よりだ。彼女たちは海でシュノーケリングツアーに参加するようだ。
「似合う似合う。桜はなんでも似合うよ」俺は適当に答える。
「もう!適当なこと言わないでよ!」桜は頬を膨らませるが、その顔は嬉しそうだ。
俺たちは素人でも登れるハイキングに行くことにした。楓と二人きり。気心は知れているからそこまで緊張はしなかったが、俺は少し後ろめたい気持ちを抱えていた。まるで、秘密のデートにでも行くかのような、妙な背徳感。いやいや、これはあくまで幼馴染との健全なハイキングだ。自分に言い聞かせる。
旅行当日。朝早く、待ち合わせの場所に集合した。
「おはよー!」桜が手を振る。
「おはよー、夜はまたみんなでご飯食べようね!」楓がにこやかに言う。
「うん!楽しんでねー!」桜が笑顔で応える。
挨拶もそこそこに、バラバラに車に乗り込み、それぞれ出発した。桜と大樹を乗せた車が、あっという間に見えなくなる。俺は、助手席の楓をちらりと見た。彼女は、窓の外をぼんやりと眺めている。
「良かったのか?楓」俺は、思わず口に出した。
「ん?なにが?」楓は、いつものおっとりとした声で受け答えする。
「いや、なんでもない。さすがにちょっとドキドキするな」
「そうなんだ。ふーん」楓は、特に気にする様子もなく、また窓の外に視線を戻した。俺のドキドキは、彼女には伝わっていないのだろうか。それとも、伝わっていても、気にしていないのか。
「大丈夫だよ、今日は楽しもう!私、お弁当も作ってきたんだよ」
楓が、にこっと笑って、助手席の足元に置かれた大きなリュックを指差した。その笑顔に、俺の胸のざわつきは少しだけ収まった。
「おお。ありがとう」
少しぎこちないながらも、新鮮な時間はあっという間に過ぎ、目的地に着く頃には、心地よい疲れと期待が胸に広がっていた。青空の下、目の前には往復5時間のハイキングコースが待ち構えている。
「さぁ、行くか」
俺は意気込んで、険しいハイキングコースを登り始めた。最初は緩やかな坂道だったが、徐々に勾配がきつくなる。息が上がり、心臓がドキドキと音を立てる中、足元の石に注意を払い、一歩一歩慎重に進んでいった。
道中、俺が「休憩しようか?」と提案しても、楓は笑顔で「大丈夫」と答える。その姿は、桜なら「しんどーい!もう無理ー!」と嘆くだろうなと思いつつ、頑張り屋さんの楓らしいと、心の中で微笑んでいた。楓は、普段は控えめだが、一度決めたことは最後までやり遂げるタイプだ。その芯の強さが、俺は好きだった。いや、好きだったというのは語弊があるな。尊敬していた、という方が正しい。
頂上に近づくにつれ、俺たちの息はさらに荒くなり、心臓の鼓動が速まった。足元の石が滑りやすく、注意を怠れば危険だ。
「ここ滑るぞ」
俺は、楓の手を掴み、バランスを保たせる。楓は「ありがと」と小さく呟き、お互い支え合いながら一歩一歩慎重に進んだ。まるで、人生という名の険しい道を共に歩む夫婦のようだ。いや、違う違う。俺たちは幼馴染だ。
そしてついに、頂上にたどり着いた。目の前に広がる絶景に、俺と楓は言葉を失った。どこまでも続く山々の連なり、遥か彼方には街の景色が小さく見える。澄み切った青空には、白い雲がゆっくりと流れていく。
「すごーい!」楓が感嘆の声を上げた。その瞳は、感動で潤んでいる。
「ああ、すごいなー」俺も、ただただその景色に見とれていた。こんな景色、なかなか見られるもんじゃない。
「みんなで見れたら良かったのにね」楓が呟く。
「あいつらは頂上まで車で来たいって言うだろうけどな」
俺は笑いながら答える。桜と大樹が、この険しい山道を登ってくる姿なんて、想像もできない。きっと、途中でギブアップして、文句を言いながら引き返すだろう。
「ふふっ。そうだね」楓も、俺の言葉に納得したように笑った。
しばらく新鮮な空気を吸いながら景色を堪能していると、楓が「さぁ、お弁当食べよっか!」と、見事なお弁当を広げてくれた。色鮮やかなブロッコリーやにんじん、カラリと揚がった唐揚げ、焼き色がついた卵焼き。桜は料理が苦手なので、普段は俺が一緒に作ることが多い。だから、こんな手の込んだお弁当は、久しぶりだ。
「美味しそうだな」俺は素直に喜んだ。
「食べて食べて」
楓が、卵焼きを箸で挟み、俺の口元に差し出した。内心ドキドキしながらも、俺は口を開けて卵焼きを食べた。甘くて優しい味が口の中に広がる。
「うん、美味い」
俺が言うと、楓は嬉しそうにしていた。その笑顔は、まるで小さな子供のようだ。腹いっぱいになった後、そのまま二人で、山の心地よい風に身を任せていた。
そして、冒頭のシーンへと繋がる。
俺と彼女はキスをし、そのまま二人ともそよ風の渡る草原に倒れ込んだ。俺の頭の中は「どうする、どうする、どうする!?」という思考でいっぱいだった。楓は、俺の胸に顔をうずめ、小さく息を吐いている。その吐息が、俺の心臓をさらに激しく揺さぶる。
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「今日はどうだった?」
しばらくして、楓が顔を上げて、俺の目を見上げて尋ねた。その瞳には、先ほどの悪戯っぽい光は消え、いつものおっとりとした優しい光が戻っていた。
「え?楽しかったよ」俺は、精一杯平静を装って答えた。心臓はまだバクバク言っているが、なんとか声は震えなかった。
楓は、ほっとしたように微笑んだ。
「でもほんとは桜と来たかったでしょ?」
その言葉に、俺はギクッとした。図星だ。いや、図星というよりも、当たり前のことだ。俺の妻は桜だ。
「いやいや、そんなこと言ったら、楓だって大樹と行きたかったでしょ?」
俺は、とっさに反論した。お互い様だ、と言いたかった。
お互い沈黙が流れる。気まずい沈黙。だが、その沈黙は、決して不快なものではなかった。むしろ、お互いの気持ちを確かめ合うような、不思議な沈黙だった。
楓といることに何の不満もない。むしろ、いつもと違う新鮮な刺激があった。それは楓も同じだろう。離れ離れになったことで、お互いの妻、夫を愛しているんだと再認識していた。この一時の「浮気」のような体験が、むしろ夫婦の絆を深める結果になったのだから、人生とは面白いものだ。
「そうだね、でも私、結構楽しかったよ!たまにはこういうのも良いかもね!」楓が、にこっと笑った。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。
「あぁ、そうだな。山登りはあいつら絶対にしてくれないから、ハイキングはまた楓に頼むわ。美味しいお弁当も食べられるしな。ハハ」
俺は、冗談めかして言った。楓の手の込んだ弁当は、本当に美味しかった。
「もう!食事係じゃないんだよ!でもまたどこかハイキング行こうね」
楓は、頬を膨らませて抗議するが、その目は嬉しそうに細められていた。
それから俺たちは山を下り、帰路に着いた。少しだけ別々で行動することに不安を抱えていたけど、俺たちは男女でも友情があることを証明できた。いや、友情だけではない。夫婦としての絆も、再確認できた。
待ち合わせのポイントで、桜と大樹に合流すると、二人の姿を見て、俺と楓は思わず吹き出した。
「ぷっ、あはははは!」
「何よ、圭吾!笑わないでよ!」
桜と大樹の顔は、ゴーグルの日焼け跡がくっきりと目の周りに付いて、真っ赤になっていた。まるで、パンダの逆バージョンだ。いや、むしろ、目の周りだけ白くて、他が真っ赤だから、逆逆パンダか?
「もう、笑わないでよー!」桜は恥ずかしがって、顔を手で覆う。
「いやー、これはひどいね、大樹くん」楓が、まだ笑いをこらえながら言う。
大樹も苦笑いしながら「まさかこんなにくっきり残るとは思わなかったよ」と頭を掻いた。
「ねえ、どうだった?」桜が興味津々に聞くと、楓は目を輝かせて「すっごい綺麗な景色だったよー!圭吾くんのおかげで、無事に頂上まで登れたし!」と答えた。
「お、おう」俺は、楓の言葉に少し照れた。
桜と大樹も大きなトラブルはなく、お互い友人として付き合えたようだ。海でのシュノーケリングも楽しかったらしい。
「でもさ、やっぱり圭吾がいないと、なんか物足りないんだよねー」桜が、俺に抱きついてきた。
「俺もだよ、桜」
俺は、桜の頭を優しく撫でた。やっぱり、この温かさが一番落ち着く。
この後の食事をどこに行こうか相談していると、桜が突然「んじゃせーので言おうか!」と提案した。
「せーの!」
「焼肉!」
「お寿司!」
また、俺と楓は焼肉、桜と大樹はお寿司と分かれてしまった。4人は大笑いし、どこに行くかスマホで探し始めた。結局、多数決で決まらないなら、じゃんけんで決めるか、と盛り上がった。
俺たち4人は夫婦同士でもあり、友人同士でもある。今回のバラバラ旅行で、お互いの大切さを再認識できた。このままの関係を続けられるように、たまには今日のような日を作っても良いもんだなと俺は思った。もちろん、日焼け止めは忘れずに、だ。




