習作(字数制限10000文字)
導術と呼ばれる遠隔通信が普及している世界における、古代中国。
万里の長城建設現場において、騎馬民族匈奴と中原の民との攻防戦が繰り広げられていた。
1. 拝命・準備
「今回”は”逃げねえよな?」
上司の張が、シパクに迫る。
「逃げねえよな?」
新しい木簡が運ばれる音。
「もう後がねえんだよ」
墨が研がれる匂い。
「長城を抜かれたら、俺たち全員攫われるぞ。農民もだ」
男達が出入りする足音。
「前みたいに持ち場から逃げたら、どうなる?」
張は室内を見渡す。シパクは思わず振り向く。
詰所の中にいる数名の導術士たち。窓の外には、無数の人間。
「それでもやるか?」
「やります」
乾いた口から自然と言葉が漏れた。
「ハッキリと言え」
「私が今回の指揮を取ります」
張は静かに頷く。
「なら、仕事場はここじゃねえだろ」
自らに支給された緑色の冠を頭に被って、シパクは外へ出る。
地平線の彼方が茶色に染まっている。
緑色の草原と晴れ渡った青い空の間で、連中だけが不自然なほど目立っている。
毎年北から凍り付いた黄河を渡って来る野蛮人ども。
時折馬の嘶きが鳴り響く。それ以外は物音一つ立てない。
「匈奴め……」とシパクは呻く。
その数、おおよそ数百騎。中でもひと際目立つ首飾りをしている者がいる。
左右の共連れへ指示しつつ、馬の上からこちらの建設現場を凝視している。
お前らがこうして攻め込んでこなければ、こんな長い城壁を造らずに済んだのだ。
シパクは後ろを見渡す。
農民たちは必死で城壁を造っている。だが完成にはほど遠い。
長城に駐留する兵士の数は精々百人。農民を含めても頭数は二百がいいところ。
こんな状況でどうしろというのか。
導術士の本領は、遠隔通信で発揮される。
二種類の波‐トンとツー-の組み合わせを単語に対応付け、頭に被った緑色の冠から送信する。
今もシパクが隣の砦へ文章を送信している。
《第二燧へ。第三燧。導術士、一名、シパク。出張》
これだけで隣の砦である第二燧へシパクが出張に行くことが伝わる。早速返答が返って来る。
《第三燧へ。第二燧。了解》
元々中原にある七つの王国が互いへの防壁として、長城を作り上げた。
数年前、七つあった王国は統一された。
だが長城の建設工事は未だに続いている。今度は匈奴への城壁として。
シパクは張の方へ視線を向ける。
「それでは行ってきます」
「おう、なるべく、兵士と弩をたくさん仕入れてきてくれ」
弩とは、引き金式で解き放つ矢のことだ。中原では広く普及している。
「借り入れの目標はどれくらいですか?」
「もう数十人は兵士が欲しい。弩はあればあるだけ。弩へ装填する弓矢も」
シパクは思わず苦笑する。
絶対的な人数不足を少しでも補うためとはいえ、
隣の砦から人手や機材を借り入れるのはとても難しい。
「困ったら俺の名前を使え。それくらいの貸しは方々に作ってる」
やるだけやってみます、とだけ言ってシパクは導術士の詰所を後にする。
2.陣地構築
シパクの苦労が実ったか、はたまた張の悪名が轟いているせいか。
兵士の数は徐々に増え始めている。ただ手放しでは喜べず、
便所不足だの食堂が手狭になるだのといった問題が生じてしまった。
今倉庫として使っている部屋から機材を取り出して臨時の寝室兼食堂とするしかない。
もっと切実な問題があった。匈奴騎兵の勢いを削ぐための陣地構築だ。
労役に駆り出された農民たちが、地面に対して斜めに杭を打ち込んでいる。
地面に対して斜めに打ち込まれた杭は、効果的に馬を押し返す。
杭の後ろには、深さは大人の胸元ほどもある溝が見える。
溝を掘っているのは、やはり農民たちだった。長城の手前に掘られている。
馬の突撃を効果的に予防することだろう。
かと思うとこちらでは馬止めの柵を地面に埋め込む、といった次第。
弩の弓を引くためには恐ろしく時間が掛かるので、こういった柵が不可欠なのだ。
柵と長城の間には、結構な幅があった。
農民は単調なリズムの歌をずっと繰り返している。
あちらでは楚の歌、こちらでは斉の歌といった具合。いずれも秦に滅ぼされた国だ。
時々秦の言葉は、監視役の兵士か工兵からしか発せられない。
彼らは滅多に喋らない。命令の形式は、厳密に規則で決まっている。秦の軍規は厳格だ。
時折昔の国どうしで喧嘩する事もあるが、大抵はすぐに収まる。喧嘩した双方が罰せられるからだ。
導術士も、非番の者は残らず陣地構築の監督に駆り出されている。
シパクは、この仕事が堪らなく嫌だった。今も冠を通じて導術波が感じられる。
《第七建設現場。作業員、一人、死亡》
また一人死んだ。
死体を埋葬する為の穴を掘る職人が、シパクの脇を通り過ぎる。
連中はここ何年も長城の建設現場に常駐していた。
3. 交渉
その頃張は、欠かすことの出来ない交渉に参加していた。
匈奴の将軍との会談である。
会談は、匈奴らしく草原に張った天幕の中で行われた。
張は軍使を示す白旗を携えて天幕の中へ入る。
意外と中は暖かい。
ただ調度品の類にやたらと白いものが目立つな、とは思った。
絨毯の上には豪勢な首飾りをしている男が一人にこやかな表情で手を振っている。
『貴君は誤解しているようだ』
ゾリグと名乗った匈奴の将軍がまずは切り出した。
『我らは戦いに来たのではない。話し合いに来たのだ』
匈奴の言葉を翻訳されると、張はこう切り返す。
「ならばなぜそちらは武装しているのか」
『武装ではない。狩りの準備だ。草原の嗜みだよ』
ゾリグは微笑んで、茶を勧めてきた。湯呑みがやけに白い。
「この湯呑みは面白い色合いをしているな」
と何気なくつぶやくと、ゾリグは微笑んでこう応じた。
『人間の骨で出来ているからな』
張は湯吞みを手から床に滑り落とす。
『勿体ないぞ。元々君たちの仲間の身体から造ったのに』
『私は主からこう言うように言われている。
そちらの農民百名と導術士を四、五名欲しい。家畜があれば言うことはない』
「我が方はそれで何を手に入れるというのか」
『誰も死ななくて済む』
天幕の中で竈の火がはぜる音だけが聞こえる。
『君たちを平和を手に入れ、我々は中原の農民と導術士を手に入れる』
「これは交渉なのか、それとも降伏を勧めているのか」
『平和な交易だ。そうだろう?ただ我々は戦いを恐れない』
張とて匈奴との交渉が無事にまとまるとは夢にも思っていない。
元から彼の任務は引き延ばしだ。けれどもそれも限度がありそうだ。
「そちらからの要望は、こちらの上へ伝えた後に回答させてもらう」
『そんなに悠長なことで大丈夫なのかな?』
ゾリグは微笑んだままだ。彼はそれまで嵌めていた手袋を取る。
人間の皮膚で出来ていることが、張の目にもわかった。
『我らは気が短い。
君たちがこの手袋みたいになりたくなければ、もっと迅速に動かないとな』
あぁ、これは持たせて後三日だな、と張は悟る。
4.戦闘
馬止めの柵の隙間から、未だ未完成な長城の壁が見る。
ところどころ歯抜けた様になっており、その奥にはさらに地平線に沿って茶色く濁った線が見える。
その線は徐々に太くなってきた。
シパクは自分の手が震えてきたことを隠すために懐に手を入れる。
傍らにいる兵士と目が合った。彼の顔も心なしか震えている。それがわかると少し怖くなくなる。
不思議なものだ。まるで少し前の自分を見せつけられている気分になる。
一年前の秋、シパクは初陣に近い状態で長城防衛戦に参加した。
殆ど役に立たなかった。飛んでくる弓矢を見ただけで頭が真っ白になった。
隣で血を流して倒れている仲間を見る。近くから鼓膜が破れんばかりに大声が聞こえてきた。
煩いなと思って周りを見渡してから初めて気付いた。大声を出していたのは自分だ。
途中から張に羽交い締めにされて長城の片隅に押し込まれた。
戦いが終わるまでずっと死んだフリをしていた。
今回は違う。新しく考案された新戦術を試すいい機会でもある。
歩兵の指揮官に話しかけられる。
「頼むよ、アンタらが頼みの綱なんだからな」
百人近い歩兵に守られるのは悪い気分じゃないと思いつつ
「なるべく死なないようにするよ」
とだけシパクは答える。指揮官は頷く。互いにそれで十分だ。
歩兵達は弩を斜めに構えている。普通は見える位置にいる敵を撃つためにまっすぐ構えるものだが、
今回に限っては見えない敵を撃つ。壁の向こう側から迫って来る匈奴を、城壁越しに。
シパクは無言で導術波を放つ。その波を受信した導術士たちが、手に持っている太鼓を鳴らし始める。
城壁の各所で鼓が叩かれる音が聞こえてくる。射撃開始の合図だ。
城壁のこちら側から弩が放たれる。次から次へと。まるで雨のようだ。
実際あちらでは血の雨が降り注いでいることだろう。
叫び声が聞こえてくる。何を言っているのか解らない。だから少し安心する。自分たちじゃない。
一旦弩を放つや、使用済みのものは瞬く間に回収される。
歩兵たちの表情に熱がこもっていく。これは行けるだろう、と。
けれどもシパクはなかなか発射命令を出そうとはしない。理由は単純で、矢の残弾数だった。
「導術士どの」と指揮官が話しかけてくる。
「残弾はあとどれくらいだ」
およそ三千、という数字をシパクは返す。
三百人の歩兵にとって、十回斉射してしまえばそれでお終いだ。
聞いた指揮官は、黙って頷くとすかさず叫んだ。
「第二射、準備!」
弓矢を装填された状態の弩が新たに兵士へ手渡される。
今頃農民たちが必死で弩に新しい矢を装填している最中なのだろう。
「ギリギリまで引き付けよう」
とシパクに語る指揮官。
「落ち着いてな」
彼も古参だ。去年のシパクの体たらくを知っている。シパクは黙って頷く。
ゾリグには理解できなかった。いきなり空から雨が降ってきた。かと思うと部下たちが倒れていく。
『弓矢の雨?』
と自分の口から零れ出た言葉に、我ながらハッとした。
長城の手前には堀が掘られており、斜めに杭まで打ち込まれている。全て馬の突撃を予期していたかのようだ。
ゾリグはおかしくなって笑ってしまった。気が付いてみれば単純なことだ。
中原の連中は、馬術で我らに敵わない。だから馬に乗らずに勝てる状況を作りだした、それだけだ。
『そこまで我らが怖いか』
寧ろ血が昂っている。当初、実に詰まらない任務を仰せつかったと思っていた。
地平線沿いにズラリと兵士を並べて敵を脅す、それだけの任務だと。
だがここまでやられては引き下がれない。草原に生きる男としての沽券に関わる。
よく見ると、方々で混乱が広がっている。
『これは何だ?』『魔法か?』
などと寝言を抜かす連中までいる始末だ。今のうちに締めておかないと混乱が広がって総崩れになる。
ゾリグは背を向けて逃げ出そうとしている騎兵の足元へ弓矢を放った。それから語りかける。
『いいか、貴様ら!よく聞け!
奴らは俺たちが怖い!だからあんな城壁を造った!俺たちが怖いんだ!
いいか!今のはただ弓矢が頭から降ってきただけだ!魔法ではない!単なる弓の矢だ!』
騎兵たちの表情が少しずついつも通りに変わっていく。
騒めきが消えていく。いい兆しだ。あと一押し要るが。
『お前たちは草原の男だ。誇り高い草原の男がやられ放しでいいのか?
いい訳がない!そうだ。あの城壁を越えてみせろ!
敵の導術士か指揮官の首を上げた奴には、褒美として好きな家畜を取らせるぞ!』
騒めきが叫び声に変わる。焦りと恐怖が熱狂に変わる。そうだこれでいいのだ。
ゾリグは先頭に立って、再度こう叫んだ。
『私が先頭だ。褒美が欲しければ。勇気があるならば。俺に続け!』
地面を揺るがすほどの叫び声が高らかに響き渡る。
ゾリグを先頭に匈奴騎兵による再突撃が始まる。
匈奴騎兵が城壁に迫って来つつある。だがもう恐怖は感じない。
「奴らは馬鹿なのか?」
とシパクはあきれ果てた。匈奴どもは混戦に持ち込んでくるものとばかり思っていた。
こちらに弩による射撃をさせない為に。
けれども奴らの叫び声が聞こえたと思うと、又連中は力押しで攻めてきた。最初と同じく。
「こちらの射耗を誘ってる?」とシパク。
解らない、と歩兵の指揮官は首を振って答える。
「ともかく先ほどと同じやり方でやってみよう」
シパクは再び導術波を放つ。これで斉射できるのは残り七回。
再び弓矢の雨が降ってきた。ゾリグは声の限りに『怯むな』と叫ぶ。
ただ自分でも何を言っているのか解らない。愛馬にも弓が当たる。
傍らで一緒にいた騎兵の頭にも弓が当たった。
それでもゾリグは突き進む。自分の腕を振り回しつつ。
勢いに任せて堀を飛び越える。下の方に味方の馬が倒れ込んでいるのがわかった。
だがもう止まらない。目の前に杭が迫って来る。斜めの杭がここまで恐ろしいとは思わなかった。
遠くから見れば針のようだが、近づけば近づくほどに巨大な柱のように思える。
逃げ場は何処だ?
ゾリグは左右を見渡した。杭が埋めこまれていない隙間が辛うじて見つかる。馬と共に滑り込んだ。
だが彼の部下たちはそこまで器用ではなかった。
ある者は馬の胸に杭が突き刺さる。またある者は杭を飛び越えようとして失敗し、馬ごと地面に叩きつけられる。
それでも騎馬隊の突撃は止まらない。後から後から押し寄せてくる。
もう少し、もう少しだ。城壁の中をこじ開けてしまえば、こじ開けさえすれば。
その時、ゾリグの視界に緑色の冠が目に入る。
あぁ、あいつらか。
ゾリグは瞬時に事の次第を呑み込む。
そうか、そうか。お前らなんだな。
草原の男たちの誇りを踏みにじるような、
機織り機で仕事するかのような、
農作業だか城壁造りの延長じみた、ふざけたやり方で俺達の味方を皆殺しにしていったのは、お前らなんだな。
ゾリグは愛馬の上で自分の弓を構える。
耳の周りを空気が切り裂く音が聞こえる。狙われているんだろう。
だがそれが戦場というものだ。
いい気分だ。お前さんにも味わわせてやろう。戦というのはこういうものだ、という事を理解させてあげよう。
彼は緑色の冠めがけて弓矢を射る。
シパクは目を疑うしかなかった。単独で城壁の中に切り込んでくる荒武者がいた。
これが匈奴というものなのか?
奴の首には立派な首飾りが見える。
相当に立場が上の将軍だろう。なぜ将軍がこんな前線で指揮をとっているのだ。
「アイツを狙え!敵の将軍首だぞ!!」
指揮官が叫び、実際城内で待機していた騎兵たちがこの荒武者を狙う。
だが不思議と当たらない。何故か。解らない。理屈を超越しているのか。
シパクは必要なことを行った。再度の一斉射撃だ。
こういった状態であれば、城壁付近は匈奴のたまり場となっているだろう。
彼は最大出力で射撃命令を送信する。
視界が歪んだ。目の端に雪が見える。雪?いや、弓矢かも知れない。
崩れ落ちそうになるシパクを指揮官が支える。城内のあちらこちらから太鼓が鳴る音がする。
傍らにいた指揮官が叫ぶ。
「一斉射撃!一斉射撃」
だがシパクは踏みとどまる。彼に肩を貸そうとする指揮官へ首を振る。
ここで気を喪ったら前と同じだ。
再び弩から矢が放たれる。青い空が一瞬茶色く染まった後で、再び城壁の向こう側から叫び声が木霊した。
シパクの顔が歪む。ざまぁ見ろ、とでも言いたい気分だ。
お前達は長い間俺達を相手に狩りをしてきた。だが今日の獲物はお前たち自身だ。
笑いながら敵の荒武者が視界に入る。ヤツはまだ逃げようとしない。
それどころかその荒武者は、まさしくシパクへ弓矢を放とうとしている。
弓矢が放たれた。
飛んでくる。
点になる。
衝撃。
激痛。
視界が霞む。
何も考えられない。
どうすればいいのか。
「おい、シパク!大丈夫か!おい!」
だがシパクはそんな声を聞いてなかった。
彼の目には、敵の荒武者の目だけ見えている。
「そうかそうか。お前か。お前さんが撃ったんだな」
シパクは静かに口走る。それから声の限りに怒鳴りつくした。
「総員!俺に構うな!このまま各自の判断で射撃し続けろ!あとな」
そして敵の荒武者を指さす。
「あの匈奴。首飾りをしているアイツ、結構偉い奴だぞ」
また敵が弓矢の雨を降らせる。もうゾリグにも味方が滅茶苦茶になっていることなど解っている。
だが彼も草原の男だ。ここまでやられて黙って引き下がる訳にもいかない。
大体おかしいだろう。さっき緑色の冠に向かって放った矢は確かに相手に当たっている。
だが相手はそんな事気にもせず、この自分に向かって何か訳の解らないことを捲し立てている。
なんだあの眼は。
おまけにこちらを指さして微動だにしない。
この距離だと表情がよく見える。
笑ってる。
『化け物め……』
ゾリグは自分の口から漏れた言葉の意味に気が付く。
まさかこの俺が怯えている?中原の間抜け共に?まさかな。でも怖い。
口の中が乾いているのに気が付く。
頭に昇った血がとうに引いた。
ふと後ろを振り返る。酷い様だ。
彼の軍団は完全に崩壊していた。
ある者は死んでおり、またある者は慌てふためいた様子で逃げている。
愛馬と共に地面で動かなくなっている者。ただ地面に立ちすくみ、呆然としている者。
後から続く騎馬の群れに圧し潰されて原型を留めていない死体も見られた。
こうなったらもう取返しがつかない。完敗だ。宿営地に戻らねば。
そこで彼は自分の身体に弓矢が刺さっていることに気が付く。胸、腕、脚。
不思議と痛くはない。ただ耐えがたいほどに熱い。何も考えられなくなる。
上下が逆さまになり、視界が歪む。もう何も見えない。
「奴を捕らえろ!」
とシパクは叫びながら飛び出していく。城壁の隙間からは匈奴の騎兵が這出てくるものの彼は気にしなかった。
「良い服を着てるぞ!コイツは将軍首かも知れねえ!皆、コイツを捕らえるんだ!」
秦の軍隊の気風である。秦では生まれは問われない。
ただ戦場で勇気を示せるかどうか。それだけで人生が変わってくる。
雄たけびが城壁に木霊する。
農民までもが武器を持って戦いに馳せ参じている。
歩兵が剣を抜いて次々と長城から打って出ている。
騎兵が馬に跨って匈奴の残敵の首を刎ねている。
だがここでもシパクは冷静だった。
「殺すな!絶対に殺すな!生かしたまま捕らえろ!いいか殺すなよ!」
殺せば、捕虜としての価値が消える。
生かしておけば少なくともこちら側の手元に置いておく間は、匈奴も手出しできない。
歩兵指揮官がシパクと共に敵の荒武者を縄で括っていく。
勝負は既に着いたも同然だった。
『ここは何処だ』
見慣れない一室だった。ゾリグは外を見ようとするか、身体が動かない。
「おい敵の総大将がお目覚めだ。通詞呼んで来い」
張がそばにいた導術士に命じる。
「お久しぶりだね?」
お前は、とゾリグが言いかけたのを張は手で制した。
「言葉わかんないだ。ともかく飲め。体力付けろ。死んでもらっちゃ、こちらが困るんだよ」
ゾリグは自分の置かれた状況をようやく把握した。彼は捕虜となったのだ。
『今どういう状況なんだ』
通詞に訳して貰うと、張は答える代わりにとある導術士を紹介する。
「コイツに見覚え、あるんじゃねえのか?」
ゾリグは目を見開く。そうだ。この目だ。この男だ。
『お前だったのか?』
ゾリグはシパクを見つめたまま、それだけを口にする。
「アンタはこうやって横になってる。俺達がこうして駄弁ってる。もうわかったろう?」
ゾリグは目を瞑った。自分は敗北したのだ。
「シパク、よくやったな。弓矢で撃たれても逃げねえのみならず、敵将まで捕らえるなんてな」
「捕らえたのは私ではありません。兵士たちですよ」
「似たようなもんだ。お前さんが糞度胸見せつけた。だからこうして勝てたんだよ」
シパクは何も言わず、ただ下を向いているだけだ。照れくさいのかそれとも言うべき言葉が見当たらないのか。
『張殿、そこのお方の名前を聞いても宜しいかな』
ゾリグはシパクの方へ視線だけを向ける。
「おいお前、敵将から名前を聞かれてるぞ。凄いな、名乗ってやれよ」
シパクは顔を顰め、だが礼儀もあって考えなおす。
左手を握って右手で受ける秦軍式の敬礼を見せる。
「シパクと申します。姓も字も名もありません。シパクとお呼びください」
『私は、ゾリグだ。ご存じかとは思うが、君たちが匈奴と呼んでいる。将軍を任されていた』
「えぇ、そうでしたね」
『一つ聞かせろ。命を狙われて、何を考えた』
シパクはしばらく何も言わなかった。ただゾリグの視線だけを見る。
彼の視線には、敵意は感じられなかった。嘲りも賞賛もなかった。ただ好奇心だけが映っていた。
『お前みたいな目をした人間は、滅多にいない。
私がこれまでそういう目をした人間にあったのは、一度か二度だ』
「その目をした人間はどういう人なんですか」と張が口を挟む。
『私の主だ。名前をバートゥルという』
張がシパクへ囁いた。おい、バートゥルって、匈奴の親玉の息子だぞ、と。
『バートゥル様に仕えているのは、彼が英雄だからだ。
知っているか?あのお方は昔、隣の氏族へ人質に差し出されていたが、殺されそうになった。
今の単于‐つまり我らの皇帝だ‐がその氏族へ突然攻め込んだからだ。
バートゥル様は、馬を盗み出して単身我らの宿営地に戻ってこられたのだ』
シパクは無感動そのものといった口調で、その話を聞いていた。
「そんな偉い人を引き合いに出して貰ってなんですけど。
俺は別に何も考えなかったよ。俺は英雄になりたいだなんて考えたこともない。
ただこれまで真面目に仕事をこなしてきた。それだけだ」
『今回の戦術、これは誰の考案なのだ』
「…俺ですけど?」
ゾリグはそこで苦笑し、『やはりな』とだけつぶやいた。
「やはりってどういう意味ですか」
ゾリグはそれに答えず、ただ
『一度でいいからお前とわが主を引き合わせたいものだ』
とだけ喋った。
城壁の彼方には既に匈奴の姿は全く見えない。
今回の勝利によって、第三燧には再び青い空と緑色の地平線が戻った。
「来年はどうなるんですかね」とシパク。
「ゾリグの捕虜交換が済んだら、またやって来るよ」
張は現実極まりない意見を吐く。
「それからな、シパク」
彼はシパクを見つめる。
「よくやった。特に弓矢で撃たれたときに、そのまま突っ込んでいったな」
張が部下を手放しで褒めることなど、滅多にない事だった。
「前に城壁の片隅で震えていたのが嘘みたいだ。上司として、本当に誇らしかった。ありがとう」
張は秦軍式の敬礼をシパクに送る。
「これからもこの燧を頼むぞ」
それだけ言って、張は詰所に戻る。
シパクは少しの間何も言わずに立ち尽くしていたが、彼も詰所へ戻った。
また仕事塗れの日々が始まろうとしていた。
この作品は、短編での作品技術習得を目指した習作です。
作成には、claudeSonnet4.1を編集として使いました。