第3話 阿瀬さんは部活に入る
私の技量不足により、打ち切ります。
春の朝。
教室の黒板には、色チョークで大きくこう書かれていた。
『部活動紹介 本日午後から』
ざわめく教室。新入生の期待と不安が入り混じる。
そんな中で、阿瀬玲奈はどこか他人事のように窓の外を眺めていた。桜はもう散り終わり、若葉が陽を透かしている。
(部活、ね……どうせまた、期待されるのかしら)
彼女はスポーツも、勉強も器用にこなしてしまう。
それは便利な才能であるとともに、同時に小さな監獄でもあった。
できる人と見られるほど、息が詰まる。
中学で味わったあの重さを、もう繰り返したくはなかったのだ。
(高校では、もう少し静かに過ごしたいのに)
そんな願いを胸に秘めながら、阿瀬はため息をつく。
「おはよ、委員長さん。なんかテンション低くね?」
気楽な声が、夢想を破る。
隣の席の蘇芳瑠偉。例の問題児。
ネクタイはゆるく、寝癖は誇らしげに立っている。
「あなた、少しはシャキッとできないの?」
「いやぁ、春は眠くなる季節なんだよ。生物の摂理だね」
「都合のいい摂理ね」
「今日は部活動紹介だぞ。人生の分岐点、テンション上げてこ!」
「あなたのテンションは年中無休でしょ」
瑠偉は口を尖らせて笑った。
「まあ、俺はもう入るとこ決めてるけどな」
「へぇ。どこ?」
「写真部」
「……なんで?」
「楽そうだから」
即答。きっぱりと言い切る姿が清々しかった。
真面目に生きることが馬鹿らしくなるほどに。
「適当に決めたら、あとから後悔するわよ」
「いやいや、俺みたいな天才怠け者にはちょうどいいんだよ。あと、カメラってロマンあるじゃん?」
「……ロマンで片づけるのもどうかと思うけど」
(やっぱりバカだわ、この人)
阿瀬は頭を抱えながらも、どこかその無邪気さがうらやましかった。
午後、体育館。
全校生徒が集まり、ステージ上では各部活動の紹介が始まった。
壇上では各部が順にマイクを握り、明るく未来を売り込んでいる。
バスケ部は汗の輝きを、軽音部は音の高揚を、吹奏楽部はハーモニーを。
青春のかけらが、ひとつずつ放たれている。
マイクを握る上級生たちの声が響くたび、体育館は歓声と拍手に包まれた。
阿瀬は、静かに見守る側。
しかし、その存在感は隠しきれない。
同学年の男子はヒソヒソとささやき、女子もちらちらと視線を送る。
「阿瀬さん、どこ入るんだろ」
「絶対、陸上でしょ」
「文化部でも絵になるなぁ」
(もう、放っといてほしいんだけど……)
そんな阿瀬のもとに、次々と上級生が現れた。
「阿瀬さんだね? 君、運動神経いいって聞いたよ。バスケ部来ない? 即レギュラーいける!」
「ねぇ、阿瀬さん! 軽音部どう? ボーカル顔してるよ!」
「チアに来てよ! 可愛い子大歓迎!」
続けざまに、美術部・吹奏楽部・バドミントン部・バレー部──。
名刺のように勧誘のチラシが手の中で折り重なっていく。
断るたびに、胸の奥に小さな罪悪感が積もる。
ため息をついた瞬間、ステージから透き通った声が聞こえてきた。視線をやるが、人混みでうまく見えない。
「こんにちは! 写真部です。写真部は、シャッターを切るたびに思い出が生まれます! あなたの視点で世界を切り取る楽しさを体験してみませんか?」
放課後。
昇降口のあたりは、勧誘合戦の戦場になっていた。
ポスター、声、ビラ、拍手。どれもが押し寄せる。
「阿瀬さーん! ちょっと話だけでも!」
「ねぇ、お願い! 体験入部だけでも!」
まるで彼女は、優等生という看板を背負わされた商品だった。
阿瀬は人の波を抜け、校舎の裏手へと逃げる。
(どうして、私はこんなに選ばれることに疲れてるんだろ)
そのとき──視界の隅に、見慣れた後ろ姿があった。
夕方の中庭。ベンチに腰かけ、カメラを構える瑠偉。
「……なにしてるの?」
「見てわかんない? 芸術だよ、芸術」
「あなたの芸術って、寝るかふざけるかの二択でしょ」
「今日は真面目。ほら、春の光がいい感じなんだ」
ファインダーの向こうで、風が草を撫でていた。
枝の先の花弁が一枚、ひらりと舞う。
その瞬間、シャッターの音が静かに響いた。
「……ほら」
差し出された液晶画面には、揺れる花と、淡い陽の輪郭。
なんてことのない景色なのに、心の奥が静かに動いた。
「綺麗……ね」
「まあな。俺、たまに天才だから」
「たまに、ね」
阿瀬は思わず笑った。
その笑いが風に溶けていく。
「写真って、こんなに綺麗に撮れるんだ」
「だろ? 一瞬を閉じ込めるって、けっこうロマンだぜ」
ロマンという言葉が、意外と悪くなかった。
阿瀬はそのままカメラを受け取り、空を撮ってみた。
光が指先をすり抜け、シャッター音が胸に落ちる。
(……気持ちいい)
理由はわからない。ただ、息がしやすくなった気がした。
「ねぇ、蘇芳」
「ん?」
「まだ入部届……余ってる?」
彼が目を丸くした。
「おいおい、まさか──」
「勘違いしないで。ただ、ちょっと興味が出ただけ」
「つまり、俺に惚れ──」
「違う」
遮る声に、瑠偉が苦笑する。
その笑顔が、なぜかまぶしかった。
──放課後。
夕陽が廊下を茜色に染めていた。
足音をひとつひとつ確かめるように、阿瀬は旧校舎の階段を上っていた。
写真部の部室は、なぜか最上階の一番奥。
まるで忘れられた時代の箱庭のような場所にある。
(ほんとにここで合ってるのかしら)
埃っぽい空気、すりガラス越しの光、遠くで聞こえる吹奏楽部の音。
どれも懐かしいようで、少し寂しい。
扉の前に立ち、深呼吸をひとつ。
ノックをしようと手を上げたその時──。
「阿瀬ちゃん、やっぱり来たのね」
背後から、柔らかくもよく響く声。
振り返ると、瑠羽徠が立っていた。
いつも通り、完璧な姿勢と微笑。制服の着こなしさえ、舞台衣装のようだ。
「もしかして……あなたも?」
「もちろん。私、写真って運命を写す芸術だと思うの。ねぇ、素敵でしょ?」
「いや、知らないけど」
「だって、カメラって人の心を盗めるじゃない。そういうの、好きなの」
阿瀬は、こめかみを押さえた。
なんというか──悪い予感しかしない。
(よりによって、この人と同じ部活……?)
そう思っていると、瑠羽徠が阿瀬の肩に手を置いた。
「でも安心して。私、あなたのことは特別に認めてるの。ライバルとして、ね」
「なにその、上からの宣言……」
「だって、そうでしょ? 頭もよくて綺麗で、男子から人気。私、そういう人を倒すのが好きなのよ」
「戦う気満々ね……」
「仲良くしようね、阿瀬ちゃん」
「矛盾してるわよ、それ」
二人の間に、目に見えない静電気が走った。
夕陽が窓を焼く。どちらの瞳にも、微妙な光が揺れていた。
カラリ、と古びた扉が開いた。
先に部屋へ入った瑠羽徠が、満面の笑みを浮かべる。
「お邪魔しまーす♪ あっ、いるじゃない」
部室の中央、カメラをいじっていたのは──もちろん、蘇芳瑠偉。
相変わらず制服は乱れ、髪は春風のまま。
瑠偉は顔を上げ、驚いたように笑った。
「おお、委員長! まさかほんとに来るとは」
「一応、入部するつもりだから」
「マジで!? へぇ、嬉しいな。これで俺のモチベも上がるわ」
「……何のモチベよ」
「撮影意欲?」
「嘘ね。どうせサボり意欲でしょ」
「バレたか」
そのやり取りの最中、横から甘ったるい声が割り込む。
「ねぇ、蘇芳くん。私も今日から入部するの。よろしくね」
「え、泰聖も? マジで?」
「うんっ♪ だって、あなたがいるんだもの」
瑠羽徠は、まるでドラマのヒロインのように微笑んだ。
距離が近い。というか、近すぎる。
肩に手を置き、軽く腕を絡め、ひそやかに覗き込む。
「ねぇ、写真って二人で撮る方が楽しいよね」
「……いや、まあ、そうかもな」
「ほら、光って混ざるともっと綺麗になるでしょ?」
「え、えーっと……?」
「あなたが光で、私が影。そういう関係がいいなぁ」
「……え、俺、影じゃダメ?」
「ダメ♡」
完全に一方的なテンションだった。
蘇芳は明らかに困っているが、逃げ方を知らない。
阿瀬は、腕を組んでその光景を無言で見ていた。
(何この茶番。……いや、恋愛劇場?)
阿瀬の額に静かに青筋が浮かぶ。
理性が「気にするな」と告げるのに、胸の奥では何かがざわついていた。
(別に。別に、どうでもいい。私はこの人に興味なんて──)
そう言い聞かせるたびに、瑠羽徠の笑い声が、やけに耳についた。
「ねぇ阿瀬ちゃん、もしかして嫉妬してる?」
「……は?」
「大丈夫よ。私、譲る気はないけど」
「ちょっと、何勝手に戦線布告してるのよ!」
「だって、見ればわかるもの。あなたの視線、優しいもん♡」
「っ……!」
瑠羽徠の挑発的な笑顔。
阿瀬は口を開きかけて、ぐっと飲み込んだ。
沈黙の数秒。
その後、いつもの冷静なトーンで返す。
「あなた、ほんと面倒くさい女ね」
「それ、最高の褒め言葉として受け取るわ」
「……自由すぎるでしょ、あなた」
瑠羽徠は笑い、阿瀬はため息をつく。
その温度差の中で、蘇芳だけがきょとんとしていた。
「え、なんか女子ってすげぇな……」
「あなたが原因よ」
「マジで?」
「マジで」
***
その後も、瑠羽徠と蘇芳の絡み合いが続いた。
阿瀬は、溜息をひとつこぼし帰ろうとしていた。
そのときだった──
部室の扉が、ゆっくりと開いた。
静かな足音。空気が少し張り詰める。
現れたのは、長身で端正な顔立ちの上級生。眼鏡の奥に、理知的な光が宿っている。
「やあ、ようこそ写真部へ」
低く柔らかな声。
阿瀬はその顔を見た瞬間、息をのんだ。
「……まさか」
「久しぶりだね、阿瀬君。いや、元・生徒会長殿」
軽やかな笑み。
彼女の名は──九条司。
かつて京神中学校の生徒会長であり、彼女の前任者であった。
才気とカリスマを兼ね備えた完璧人間。
中学時代、阿瀬が唯一「追いつけない」と思った相手。
その九条が、今はこの学園の写真部部長として君臨している。
「九条先輩……どうしてここに?」
「ふふ、どうしてって……僕の部活だよ?」
「え……部長、なんですか?」
「そう。君たちを導く、偉大なる師だ」
瑠偉と瑠羽徠が顔を見合わせた。
その間、九条は阿瀬にだけ視線を向ける。
穏やかなのに、どこか特別な光を帯びている。
「阿瀬君。君が入ってくれるなんて光栄だ。君の観察眼なら、きっとこの部に新しい風を吹かせてくれるだろう」
「……お世辞はいいです。先輩こそ、また天才ぶってるんじゃないですか?」
「はは、手厳しいな。変わらないね、君は」
「そちらこそ」
笑顔の裏に、ほんの少しの火花が走る。
尊敬と対抗心。
彼女にとって、九条司は憧れであり、超えるべき壁でもあった。
「でもね、阿瀬君。僕は嬉しいんだよ。君みたいな人がここに来てくれたことが」
その言葉に、阿瀬は少しだけ表情を和らげる。
「……ありがとうございます、部長」
「やっぱり部長って呼び方、いいなぁ。なんかくすぐったいね」
九条は眼鏡を押し上げ、優しく笑う。
その笑みには、かすかな“好意”の色があった。
阿瀬は視線を逸らし、頬に指を当てる。
(やっぱり、この人……少し苦手)
尊敬している。けれど、距離が近いと呼吸が乱れる。
彼女の完璧主義を見透かしてくる数少ない人間。
だからこそ、宿敵でもあった。
一方で瑠羽徠は、そんな二人を眺めながらにやりと笑った。
「ふぅん……これは面白くなりそうね」
「え、何が?」
「青春の構図、ってやつよ。天才と天才。そして、私の王子様」
「誰が王子様だ」
「勿論、蘇芳くん以外にいないわよ」
「……そうか」
九条は小さく笑い、部室を見回す。
「うん、にぎやかでいい。いいスタートだね──写真部、今年は面白くなりそうだ」
その言葉に、誰もが無意識に頷いた。
それぞれの思惑と感情が交錯しながら、春の光がゆっくりと傾いていく。
阿瀬玲奈は、その光の中で小さく息をついた。
──また、馬鹿を見てしまった。
でも、どういうわけか、悪い気分ではなかった。
◆情報──《阿瀬玲奈》
私立鳳桜学園高等部1年生。
本年度の外部首席合格者の才女。
学業成績は常にトップ、容姿端麗、運動神経も抜群――その実力から周囲からは「完璧超人」と称される。
しかしその完璧さゆえに同級生から距離を置かれることが多く、本人は孤独感を抱えている。
基本的には真面目で几帳面であり、正論をズバッと言うタイプ。
無駄なことや馬鹿げたことが嫌い……のはずだが、なぜか「バカ」と呼ばれる人間を観察する癖がある。
冷たい印象を与えがちだが、困っている人を放っておけない優しさを隠し持つ。
表向きの華やかさと、内面のささやかな弱さとのギャップが魅力。
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