第3話 幼なじみは全てお見通し?
教室の片隅では、湊の幼なじみである藤咲玲奈が、その様子を面白そうに見ていた。彼女の茶色の瞳には、いたずらっぽい光が宿っていた。
「ねぇ、湊」
玲奈は昼休み終わりに湊の席にやってきた。ポニーテールを揺らしながら、彼女は身を乗り出す。
「朝倉さんと仲良くなったの?」
「別に」
湊は素っ気なく答える。手元の問題集に視線を落としたままだった。
「ふーん」
玲奈は意地悪く笑った。
よく見ると、湊の問題集のページが、さっきから変わっていないことに気づいているようだった。
「でも朝倉さん、湊のこと気にしてるみたいだよ?」
「気のせいじゃないか?」
湊は平静を装った。
「そうかなぁ」
玲奈は湊の反応を楽しむように、からかう口調で言った。
「女子の勘ってやつ。あっ、私の勘はけっこう当たるんだよ」
「ところでさ、湊って昔から人の微表情に敏感だったよね」
玲奈が急に話題を変えた。
「覚えてる? 小学校3年の夏祭り。あの時も湊だけが、迷子になった女の子の気持ちがわかったよね」
湊は少し驚いて玲奈を見た。彼の記憶の奥に封印された光景がぼんやりと浮かぶ。
「覚えてないよ」
「嘘つき。今の湊の目、あの時と同じだよ」
玲奈の声が少し低くなる。
「あの事故の後から、湊は変わったよね。人の嘘を見抜くようになって……」
湊は一瞬、硬直した。
脳外科医である父が巻き込まれた医療事故。「大丈夫だよ」と笑った父の嘘に、初めて気づいた瞬間。
あの日、父の言葉が赤く見え始めたのだ。「大丈夫」と言いながら、実は精神的にかなり追い詰められていたこと。子どもに不安を与えないようにと笑顔を見せながら、一時はメスが握れなくなっていたこと。
湊は子供ながらにその「嘘」を見抜き、恐れおののいた。
そして医療事故が解決し、父が現場に復帰できた後も、この能力は消えなかった。むしろ鋭くなる一方で、クラスメイトの些細な嘘から教師の建前まで、すべてお見通しになってしまう。
嘘を見抜く能力は、同時に人を信じられなくなる呪いでもあった。
「……その話はやめろよ」
湊の声に珍しく感情が滲んだ。
玲奈はからかうような笑みを浮かべた。
「だから、私にはバレバレなんだよ、湊の気持ちは」
玲奈はそう言ったが、その声には湊だけが気づく僅かな震えがあった。
(あれ? 玲奈の声、少し揺れてる?)
湊の能力が反応する。彼女の視線の泳ぎ方と指先の震えに、何か隠された感情が見える。
(もしかして玲奈は……俺に?)
しかし湊はそれ以上考えるのをやめ、問題集のページをめくった。玲奈の本音を深く見すぎるのは、今の自分には危険な気がした。
(朝倉が俺のことを気にしてる? なんでだ? 俺とまともに会話をしたのなんて、図書委員会以外じゃほとんどないはずなのに……。それに、あの夏祭りのことは……あまり思い出せないなぁ)
放課後、図書委員会が終わり、湊は帰り支度をしていた。
図書館の隅で、彼は朝倉ひなたが本を整理しているのを見かけた。
夕暮れの光が差し込む図書館は、ほとんどの生徒が帰ったあとで、静寂に包まれていた。本棚の影で細かな埃が舞い、独特の紙の香りが漂っている。湊の鼻をくすぐるのは、古い革の装丁本から漂う香り。そんな空間に、ひなただけが残っていた。
彼女は一人で黙々と作業していた。
普段のクラスでの振る舞いとは少し違う、真剣な表情。彼女の周りには、静かな集中力のオーラが漂っていた。
湊は彼女を観察していた。
整然と本を並べる手つき、時折髪を耳にかける仕草、そして彼女が好んで読んでいるであろう本のジャンル――湊の目には「本当の朝倉ひなた」を示すヒントに思えた。
ふと、ひなたが湊の方を見た。
目が合い、彼女は一瞬驚いたように瞳を見開いたが、すぐに表情を取り繕った。
その一連の動作が、湊には面白いように読み取れた。瞳孔が開き、唇がわずかに開く。そして心拍数の上昇を示す、首筋の微かな脈動。
「まだいたの? もう終わったでしょ」
ひなたは平静を装って言った。しかし、その声にはわずかな上ずりがあった。
「ああ、ちょっと本を探してたんだ」
湊も適当に返す。実際には何の本も探してはいなかった。
「ふーん」
ひなたは興味なさそうな顔をしながらも、湊の様子をちらちらと見ていた。彼女の指先が本の背表紙を撫でる動きが、いつもより少し早い。
「朝倉」
湊が声をかけると、ひなたは顔を上げた。
「なに……?」
「俺も手伝おうか?」
湊が提案すると、ひなたの目が輝いた。
「え? い、いいの?」
「ああ、俺も委員だし」
「助かる……ありがとう」
ひなたは素直に感謝の言葉を述べた。普段の強がりではなく、率直な表情に、湊は一瞬見とれた。
二人は並んで作業を始めた。
時折、手が触れそうになって、ひなたが身体を硬くする。会話はほとんどなかったが、不思議と居心地の悪さはなかった。ただ、本を整理していくという単純な行為が、二人の間に静かな連帯感を生んでいた。
窓外からは夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。閲覧室内のほこりが光の筋の中で舞い、時間がゆっくりと流れていくような錯覚を覚える。
ひなたの髪から漂うシャンプーの甘い香りが、時折湊の鼻をくすぐった。
「あの……桐島くん」
ひなたが突然、小さな声で呼びかけた。
「なに?」
「ありがとう」
彼女は本棚に視線を落としたまま言った。
声には通常よりも深い響きがあり、演技ではない真剣さが込められていた。
「図書の整理、誰も手伝ってくれなくて……」
「別に、俺も委員だから」
湊はさらっと答えた。しかし、内心では彼女の素直な言葉に少し驚いていた。
作業を終え、夕暮れの校舎を出る頃、湊は決めていた。
「告白されるまで俺の勝ち」――それは、朝倉ひなたの嘘を見抜き、彼女の本音を引き出すゲームだった。
彼女が「好き」と言うまで、湊はこのゲームを続けるつもりだった。
その日から、湊の密かな「心理観察ゲーム」が始まった。
でも、彼は知らなかった――このゲームが、自分自身の心も変えていくことになるとは。